「言葉」には力がある〜命をもってそれを教えてもらった日。
「言霊」とか「呪い」とか
そういうのは本当にあると思う。
そして、たまに
わたし自身のそれも例外なく強い力を持つことを
実感せざるを得ないことが起きたりする。
通退勤の途中、信号無視をしている人を見ると、
呪ってしまうくせが、少し前まであった。
今見ても、モヤモヤとした気持ちにはなるけれど、
名前も何も知らない人のために呪うのはやめた。
なぜなら、誰かを呪うには、
かなりのエネルギーを消費するからだ。
他人を呪うたび、
自分のなかの何かを消耗している感覚がある。
その痛みは怖ささえ伴うもので、
これがフィクションならば
『フォルトゥナの瞳』で描かれていた
心臓をギュッと締め付けるあの痛みのようなものだ。
「呪い」だけではなくて「言葉」にも力は宿る。
わたしが望めば、だいたいのことは叶う。
理想というよりも、未来を見るという感覚に近い。
仕事も、恋愛も、夢も、すべて。
仕事で途方もない冗談みたいな目標を掲げたときも
それは思いがけず達成された
音楽を続けていればいつか、なんて甘い戯言さえ
現実のものとなってプロ奏者との共演の機会が訪れた
こんなにもわたしを大切に思ってくれる人はいない
そんな最愛の人と出会い結ばれ
家族にも恵まれ、友人や仲間にも恵まれ
贅沢はないかもしれないけれど、
生活や食べ物には困らないくらいのお金があり
仕事があり、毎日生きている。
自分の書いた作品に憧れの声優さんが
声を命を吹き込んでくれる
いつかそんなことが叶ったらいいなって
言葉にしたら
そんな夢みたいな願いまでも実現した。
だから「言葉」には力がある
それをわたしは、
「言葉」を扱う者として、
ひとよりも深く、知っていなきゃいけない。
知っているつもりでいた。
ひとよりほんの少し、知っている気でいた。
正直、慢心していたんだ。
言葉は一度口に出してしまうと取り消せない
だから慎重に、いくらでも時間を掛けて
自分の手の届く範囲で、
手放しにしないよう、繋いでいるべきだと
自分でも言うし、
貴女はそういう人だよねと、
大好きな人や周りの皆にも言ってもらって
いつのまにかどこかで自惚れていた。
もしも身内が⚫︎くなったら
もしも身内が⚫︎ねば
なんて、
どんなにしんどくても苦しくても毎日に嫌気が差しても
決して望んでいるわけではなく仮定の話であっても
安易に言葉にしてはいけなかった。
このnoteで言葉にして、それだけではなく、
なぜだか、いつもと違って、
自分の手で紙のノートにおいても文字にした。
そこに、力が宿ってしまった。
大叔母が亡くなった。
わたしが言葉を発した5日後だった。
皮肉にも、
>誰か身内が⚫︎くなったら正当に会社休めるのかなあ、
>朝からそんなことまで考えてしまう末期な月曜日。
そう言葉にした、まさに翌週の月曜日。
わたしは大叔母の葬儀で会社を休むことになった。
「考えすぎ」「偶然だ」なんて言われても、
思ってしまうよ、こんなタイミング。
——わたしの、所為かもしれない。
おばあちゃんから妹を奪ったのは、
親戚のお兄ちゃんお姉ちゃんから叔母さんを奪ったのは、
大好きな母親をこんなに泣かせているのは、
わたしかもしれないって、思ってしまう。
幾つもの病院で診てもらっても、
死因不明。
心臓も肺も、体のどこにも異常は見られなくて、
もとから病気だったわけでもなくて、
それはあまりにも突然で、
安らかに、眠るように、息を引き取ったんだろうって。
若すぎるけれど、
寿命。
と言われれば、そうかもね、とも思う。
だけど、わたしにはこれが、
大叔母がわたしにくれたメッセージに思えてならない。
4分おきに目が覚める。
眠っているのか瞑想しているのか、自分でもわからない。
その夜は静かで、
大切な人と過ごす最後の時間にしては短いけれど、
自分の行いを言葉を過ちを、省みるには、
あまりにも重厚で長い時間に感じた。
それ以外のことなんて、何も考えられなかったし、
考える必要もなかった。
見ているだけで悲痛な涙を流す親戚の皆にとっては、
きっと残酷なほど短い一晩なのに、
わたしだけ、時間がたっぷりあるような気さえした。
「〇〇ちゃん、ゆっくり休んでいいのよ」
「昨日までのいっさいを忘れて、
今はただ流れゆく時間に身を任せなさい」
「〇〇ちゃんは頑張り屋さんだから
そういう時間が必要なのよ」
「〇〇ちゃんのしんどい気持ちは、
なかったかのように扱われていないわよ」
「毎日ちゃんと働いて立派ね」
「〇〇ちゃんのために、休めるようにしたからね」
きっとそう言ってくれてる気がする、
そう言ってくれてる声が聞こえると思うのに
わたしがそれを言うのは違う気もする、
本当はそう思い込みたいだけかもしれないとも思う。
「原因がわからないんじゃ納得できないよな」
そう口にする親戚の声に怯えてしまう。
「貴女が望んだからよ」
そう責められたらどうしようと思うと怖くて
「わたしの所為じゃないよね?」
なんて自分を庇うことばかり話してしまいそうで
一人では側に行くこともできず
途切れそうな線香が
どうかできるだけ長くもつようにと
遠くから小さく願うことしかできなかった。
穏やかな顔で眠る大叔母に、
わたしは、なんて言えばいいのだろう。
「ごめんなさい」と言えばいいのか
「ありがとう」と言っていいのか。
なんだかどっちも違う気がする。
「〇〇ちゃんの書いた本、読むの楽しみなの」
そう言って、
ふふふと慎ましく笑う大叔母の声が
聞こえた気がしたから、
「見ててね」
って、言うことにした。
だけど、いざ翌日
大叔母の棺にとりどりの花を敷きつめたら
たまらなくなってしまって、
初めてすっと流れた涙と一緒に、
「ごめんなさい」が溢れてしまった。
「ごめんなさい」で終わりたくなくて
「ありがとう」も添えたけど、
取って付けたようなソレは、たぶんきっと届かない。
いつか伝えられるだろうか。
大叔母から命をもって
改めて気が付かせてもらったこと
毎日当たり前のように健康で仕事に行けることは、
不幸ではなく幸せだということ。
嫌気が差してしまうような毎日も、
大切な人が変わらずそこに居るのであれば
どんなに素晴らしいのかということ。
隣で最愛の人がお腹を抱えて笑ってくれることが、
何よりも愛しくて嬉しくて幸福だということ。
人にはいつか必ず別れが来るのだから、
そしてそれは唐突に来るかもしれないのだから、
後悔しないよう、1分1秒、1日1日を
大切に生きるほうが賢明だということ。
そして「言葉」には力がある、ということ。
「言葉」の持つ力を、身をもって実感する。
同時に「怖い」と思う。
ただでさえ「書く覚悟」を持つことの厳しさを、
感じていた時だった。
ただでさえ「言葉」をおもてに出すのに
人一倍時間が掛かることを、悩んでいた時だった。
このまま書きつづけていくことが
これまで以上に難しくなったような気がする。
でもたぶん「言葉」を扱うことの難しさ自体は
今までもこれからも何一つ変わっていなくて、
重要なのは、それをわたしが、
どんなふうに扱いたいのかってことなんだと思う。
ここでやめてしまうことは誰にでもできる。
「言葉」の持つ力を強く実感したうえで、
それでも書くことを選ぶのなら、それは
きっと今まで以上に意味があることだと思う。
「言葉」の持つ力は
何も負のエネルギーだけじゃない。
大切なひとに感謝を伝えるのも、
好きだよって愛を伝えるのも、
ぜんぶ「言葉」だ。
ひとを笑顔にすることもできる。
ひとを励ますこともできる。
夢を語るのも「言葉」
そしてそれを現実にする力を持つ。
今までもたくさん実感してきた。
「言葉」の持つ力が確かなものであるなら、
それをプラスのエネルギーとして扱えばいい。
そんなことが、わたしにできる?
また間違えてしまわない?
実際、怖さはこれまで以上にある。
正直、似たような間違いを
今後一切しないとは、言い切れない。
でも同じ間違いは、もう二度としない。
⚫︎ ⚫︎ 感情の伴ったその言葉を、安易に使わない。
この先また「日常」や「書くこと」に
慣れてきてしまった時、
何度でも此処に戻ってきて、
「日常」の素晴らしさと
「言葉」が現実になることの重さを
思い出せるように
覚悟をもって、ここに書き残す。
「言葉」には力がある
それをわたしは「言葉」を扱う者として、
ひとよりも深く、知っていなきゃいけない。