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「やりたいこと」だけやっていても幸せになれなかった。 #day028

パソコンの検索窓に「常に時間——」まで打つと、予測検索で「常に時間に追われている感覚」という項目が自動的に出てくる。
それだけ同じように悩む人は少なくないのだろう。

1日24時間という誰もが平等に与えられている時間。その限られた時間を「やりたいこと」にだけ使えたら、自由な時間をすべて「やりたいこと」に捧げられたら、どれだけ幸せだろうと考えていた。

そして私は、旦那の協力を得て、それを実行してみた。



1日16時間の過ごし方は全て自分が決めている

この約1か月、家事をほとんどすべて旦那がしてくれていた。
主に炊事・洗い物・ゴミ捨て・洗濯。このあたりだ。

私自身、仕事は変わらず出社していたけれど、別にそれは皆同じだし。
むしろ私の会社はホワイトだ。完全週休二日制。残業もほとんどない。私よりも過酷な条件で働いている人はごまんといるだろう。
それに私には一から十までお世話が必要な子どもだっていない。極端な話、自分のことだけ考えて生きていけばいい身分だ。

労働時間を差し引いたとて、私にはたくさんの空白の時間が与えられているはず。
だって、労働拘束時間を1日8時間とすると、1日16時間は「労働をせずに生きていける人と同じようなご身分」なのだ。

ちなみにこれは、とある本の受け売りだ。初めてそのフレーズを読んだとき、私は感銘を受けて思わずそこに栞を挟んだ。

頭の中で、1日の中にもうひとつ別の1日を設ける
この「内なる1日」は、ひとまわり大きな箱の中に入っている小さな箱のようなもので、夕方6時に始まって翌朝の10時に終わる。16時間の1日というわけである。
この16時間はすべてのものから解放されている。まず、給料を稼いでくる必要がない。そして、金銭上の問題に気をとらわれることがない。つまり、働かずとも食べていける人と同じような、結構な身分なのだ

自分の時間 / アーノルド・ベネット(著)
より一部抜粋。


まあ実際に自由な時間は16時間とはいかないだろう。

労働における拘束時間を、出勤前の準備の時間、および通勤時間も含めて考えるとしたら、だいたい10時間くらいだろうか。
そして睡眠時間を6時間、お風呂や食事など生活に必要な時間を2時間とすると、本当に自由な時間は、24-18=6時間程度になる。
まあ、早起きできなければ、1日の自由な時間は3,4時間程度になってしまうんですけどね。

それでも、本当の意味で拘束されているのは、会社員として働いている8時間(もっと言うなら昼休み休憩を除いた7時間)なのだ。

その他の時間は、全て自分の意志でその時間の過ごし方を選んでいる。
朝の準備に1時間掛けるのも自分の意志。
通勤の地下鉄の中で過ごす時間、食事に掛ける時間、お風呂の中で過ごす時間、のんびりその時間を味わうのか、それとも音楽やラジオを聴きながら過ごすのか、SNSを見るのか本を読むのか、スキマ時間の過ごし方も、全部自分の意志。



やりたいことだけをやる自分を好きになれなかった

家事をほとんど何もやらなかったこの1か月は、文字通り仕事の時間以外は自由だったはずだ。
不格好ながらにもnoteの記事を毎日投稿し、ずっとやりたかったはずの「執筆」に向き合う時間をこれでもかというほどたくさん取った。

でも、全然、満たされなかった。

人生の満足度って「どれだけやりたいことを叶えられたか」で決まる気がしていた。ただ漠然とそう思っていた。
でもたぶん違う。きっと「どれだけ好きな自分でいられたか」が大事なんじゃないかなって今は思う。

どれだけ遊んで暮らせていたとしても、どれだけ地位や名誉を手に入れたとしても、どれだけ好き勝手できたとしても、満たされることがないのは、今の自分を自分でちゃんと好きじゃないからだ。

本当に好きなことばかりしていた。
「書く」ことばかりに向き合ってきた。
今まで続けていたマッピ練やリンパマッサージ・筋トレ、スキンケア、いろんなことを無視して放り出して、本当に好きなことだけしてきた。

生活リズムは乱れたし、部屋も散らかった。
肌の調子もすこぶる悪い。
旦那に心から感謝する反面、段々と申し訳ない気持ちのほうが強くなってきた。
旦那と話す時間や食事の時間すら惜しくなる瞬間がある。
どれだけ時間を自由に使えたとしても、結局満足できずに時間が惜しくなるのは「時間が足りないから」じゃなくて「時間の使い方が下手だから」だ。

「書く」を優先して過ごしてきた1か月。
「書く」ことが本当は好きじゃなかったのでは、という結論には至らない。だって、この「書く」を仮に「ゲーム」や「映画」に置き換えて想像してみても、やっぱり同じなのだ。日常生活や家族・友人とのコミュニケーションを疎かにしている限りは、幸せな気持ちにはなれない。同じエンディングが脳裏に過ぎる。



本当の自由の在り処

今日「ペットにずっと餌をやり忘れていたことに気付く夢」を見た。幸い餓死には至らなかったものの、身の毛がよだつ思いだった。
夢占いの意味を調べたら、まさに、なことが書いてあって、今の生活のこの状況が限界に来ているなと思った。
同時に、夢のなかでペットが餌を食べおかわりをねだって元気を取り戻していく姿を見られたことは、今ならまだ引き返せる、ここで変われば好転する、そんな暗示もある気がしている。これは私独自の根拠なき直感だけれど。


「やりたいことをやる」って、その事柄一つで完結しない。

しゃんとした生活のなかで、常に余力があること。
その余力のなかで「やりたい」を実行できること。
そしてそれを何のしがらみもなく心から楽しめること。

その時初めて、充実や幸せを感じられるんだろう。


今私がいちばんやりたいことは、台所の片付け、溜まっている洗濯物を洗うこと、部屋の片づけ。身なりを整えて、お肌のスキンケアをすること。今までたくさん支えてくれた、踏ん張ってくれた旦那に、手料理を作ること。

「やりたい」がいつしか「やらなきゃ」という義務に変わってしまう瞬間を、完璧主義な私は今まで何度も経験してきた。
でも、逆は初めてだ。「やらなきゃ」も限界まで放っておくと「やりたい」に変わるんだな。やるべきことをちゃんとやりたいって、思える自分でよかった。

「やらなきゃいけないことをやる」というのは、なんだか物凄く後ろ向きで不自由なことだと思っていた。
でも今は少し違った見え方をしている。
「やらなきゃいけないことをやる力があることは、自由な大人の象徴」なのかもしれない。そんなことを思った。




(2,634文字)


本当はこんなだらしなくて、格好悪い、情けない自分を、インターネットの波に晒したくなんてないのだけど。
幻滅されるのも覚悟のうえで投稿を決めたのは、こんな自分はこの1か月間限定の過去の姿になる、そう約束する覚悟があるからです。

「今」誇れる自分になれたなら、過去を幻滅されるのは怖くない。



#ズボラ完璧主義者aeuの100日間の挑戦
#day028



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