6.神護寺 薬師如来立像
京都市街の北西、高尾山の中腹に建つ山岳寺院、神護寺。
神護寺の楼門までは、約400段もの長い上りの石段がつづく。楼門をぬけて奥に進み、さらに石段を上がった金堂に、本尊薬師如来立像が安置されている。
像の詳細
国宝に指定。
神護寺金堂本尊
カヤの一木造 素地
像高170.6cm
8世紀末 〜9世紀初頭
薬師如来について
薬師如来は人々を病気や災難から救う如来。奈良時代から信仰されてきた。
正式には薬師瑠璃光如来という。東方浄瑠璃世界という東の果ての清浄な国土に住む。
阿弥陀如来が来世での利益(死後に極楽浄土に生まれる)を説くのに対し、
現世利益(今生きているこの世で望みが叶う)をもたらす。
万病を治す薬が入った薬壺を持っている。
日光菩薩・月光菩薩を脇侍にして薬師三尊像とされることが多い。
眷属の十二神将を従えている。
像の特徴
特徴
『見据えるような鋭いまなざし、太い鼻筋と肉付きよい小鼻、思い切って突き出しへの字に引き締めた唇。拝するものに畏怖の念を起こさせるこのような異相』(神護寺公式サイトより)とあるように、一般的な薬師如来の柔らかな表情とは大きく異なる。
額は狭く、肉髻(仏像の頭頂に一段高く隆起した部分)の高さ、螺髪(仏像の丸まった髪の毛の名称)の粒が大きさが目立つ。
体の中心を通る線が上半身と下半身でずれている。
胸と腹が小さく、腰以下が強調されて圧倒的な重量感を印象付ける。
右手は、手のひらをこちらに向ける施無畏印(「畏おそれなくてよい」という意味)、左手は薬壺を持つが、右手と同じ高さで胸の位置までかかげるのが珍しい。
全身と台座の部分はカヤの一木から掘り出され、唇の朱色、眉、瞳を塗るほかは彩色を施さない素木仕上げとなっている。
腕の部分は別材が使われているが、縦木を使って木目が上下に走るようにし、一木から掘り出したように見せている。檀像を意識して造られている。
檀像について
檀像とは中国で造られていたもので、香木の一種である白檀などを素材にした彫像のこと。
檀木の堅さと香りのよさ、木目の美しさ、希少性を生かすため、彫像のすべての部分を一材から彫り出して緻密な彫刻を施し、彩色や漆箔をしない(髪の毛、眉、瞳、唇など、ごく一部に彩色するものもある)のが特色で、ほとんどが小像である。
平安時代以降、日本でもこの檀像の影響を受けて、彩色をせずに木肌を現した細かい彫刻の像が日本産の代用材(榧、桜、檜など)で造られているが、これを檀像様彫刻とよんでおり、広義の檀像にはこれらも含められる。
貞観彫刻について
本像は貞観彫刻の初期の傑作といわれる。
貞観は、859年から877年までの期間の年号。
都が奈良から京都に移った794年(延暦13)ごろから、9世紀末ないし10世紀なかばに至る平安初期に制作された彫刻のことを貞観彫刻とよぶ。
奈良時代に盛んであった銅造、塑造、乾漆造の技法はほとんど姿を消し、材質の主流は、木彫とそれに一部補助的に乾漆を用いたものに変わった。
仏像の表情は難解さを増し、神秘的な深みのある形相で、体躯も量感のあるどっしりしたものとなった。表面の彫り口も強く、また翻波式衣紋 などを表現したものが一つの典型となった。
像が造られた背景
本薬師如来立像は、その特異な風貌と和気清麻呂が発願したという来歴を持つことから、早くから美術史上で注目をあつめ、多くの議論が積み重ねられてきた。
とりわけ、当初の安置場所が神願寺あるいは高尾山寺のいずれなのか、どのような経緯で造立されたのかということが大きな論点となってきた。
まず、神護寺は和気清麻呂が国家安泰を祈願して建立した神願寺と、私寺として建立した高尾山寺が合併してできた。
高尾山寺は、最澄が招請されたことや、空海が住したという歴史をもつ。
これまで本薬師如来立像は、神願寺の旧本尊で、後に高尾山寺に移されたと考えられてきた。
しかし近年、高尾山寺に由来する説が出され、結論はまだ定まっていない。
造立された経緯としては、僧・道鏡が皇位を狙った際に、道鏡に対抗するために仏の力を必要として八幡神の要請に応じた清麻呂が、神願寺の本尊として薬師如来像を造立したとする説が近年では広く支持されている。