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部屋とYシャツと私みたいな

とある占い師に勧められて、上野にある摩利支天徳大寺に行ってきた。先祖供養に特化したお寺だそうだ。1つ500円の御札に家系の名字を書いて提出。正直、500円で先祖供養なんてできるのだろうかと思っていたけれど、自分が知っているだけの家系の名字を書いてみた。

半信半疑も束の間、数日後の夢に御先祖様らしき女性が3人現れた。場所は父方の祖父母宅で、1人は10年前に亡くなった曾祖母だった。あとの2人は誰か分からなかったけれど、1人の女性が私に近付いてこう語りかけてきた。

「いつもちゃんと見守っているからね。何か嬉しいことがあったら、いつでも報告してね。」

とても綺麗な女性だった。全盛期の藤圭子さんみたいな日本人離れした容姿で、私の家系の顔じゃなかったから驚いた。父に聞いても、やはり誰か分からないそうだ。

以前、島田秀平さんのYouTubeでやっていた「枕元に現れた良心的な霊と会話した」みたいなのをふいに夢の中で思い出し、「この際だから御先祖様に聞きたいことを聞いてみよう!」みたいなノリで、質問してみた。

「あなたは亡くなってる方ですか?」「いつも見守ってるって、どうやって見守ってるんですか?」と聞いてみた。

「亡くなってるよ。」「嬉しいことがあった時に、あなたが紙とか携帯でお知らせ見てるでしょ。それを上から見てるんだよ。」と言われた。

ちゃんと説明されて納得していた温順な自分が、少し可愛いなと思ってしまった。そして、意識と無意識が交差している夢の中でも、冷静になっていた自分にとても驚いた。何でも明け透けに報告するのではなく、「嬉しいこと」がポイントなんだなって。やけにそのワードを強調されたような気がした。きっと、自分が嬉しいと御先祖様も同じように満たされた気持ちになるのだろう。

そう思うと、日々嬉しい気持ちよりも悲しい気持ちをシャープに受け取っているような気がした。受け取っているというより、「受け負ってる」かな。ほぼ、" burden " みたいな感じ。でも、それがそうであることは自分の心が散り散りになってからじゃないと分からない。

たぶん、嬉しいフラグメントは日々そこら中に散りばめられているのだけれど、悲しいフラグメントが多すぎるが故に目に入っていないのかもしれない。要は、同じ物事でも捉え方次第で全く別の集合体になるということだ。

そうやって、大切なことを教えに挨拶をしに来てくれた御先祖様には感謝の気持ちでいっぱいだな。彼女たちの満面の笑みを見て、しっかり供養できているようでとても嬉しくなった。これからは、そんな笑顔のフラグメントをたくさん集められるように、もっと感情の視野を拡げて生きていこう。

お彼岸を終えて、更にそう思った。

P.S.
巷で噂の開運方法「白いYシャツのポケットにピン札と赤いボールペンを差し込んで、北側に掲げる」をやってみた。ビン札は1000円札でも良いそうだが、欲張って10000円札にしてみた。目標はいつでも高く掲げよう…