女性である日
まだブランケットにくるまっていたい、LAZY SUNDAY MRONING。そして、同じ名前のマルジェラの香水を纏う。マリリン・モンローは、「何を着て寝るか?」と聞かれたら「CHANELの5番だけ」と答えたそうだ。私も得意満面に、「マルジェラの1番だけ」って答えたい。アンネの日にはマルジェラの1番を着て、十二分に自分を愛し、怠惰であることを全肯定する。私が私であるために。誰かに何かを期待することは一切せず、ただ自分の内と朗らかに向き合うために。
アンネの日に差し掛かると、気持ちが落ち込みやすくなる。時には感情がコントロールできなくなり、何かを頑張りたい時期に被ると本当にどうしようもない。その症状が酷すぎると、その為の「特別休暇」を申請して仕事を休まなきゃいけない時もある。そう、女性が女性である日。マリリン・モンローにも平等に分け与えられていた、ラブリーでキンキーな「特別」な日。
戦後から少し経ったころ、女性たちは生理がきた日を「アンネの日」と呼んでいた。なぜなら、日本で初めて発売された生理用ナプキンの名前が「アンネナプキン」だったから。半世紀以上前にそんなセンスのある呼び名があったなんて、今よりも最先端。異性との会話でも「今日、アンネの日なの。」って言ってるところを想像すると、なんかエモい。今でも、それに代替するエモい呼び名があったらいいのにな。または、「アンネの日」が再熱するのも悪くない。公の場で「その名」を呼ぶのは、なんだか憚られるから。ヴォルデモートみたいになってるけど、本当にそんなノリで。
私は、PMS(月経前症候群)とPMDD(月経前不快気分障害)のダブルパンチで持ち合わせている。ピルの服用やヨガの瞑想で気持ちのコントロールを図っているけど、まだまだそれらと上手く共存するのは難しい。でも、そんなブルーな自分だって精一杯愛でてあげたい。何も間違ってることはないよって。一寸の狂いもなく、全肯定してあげたい。
それでも、時々イラッとするのは、不機嫌なのを察して「生理中なの?」って聞いてくる男。何も、生理中だから不機嫌とは限らないし、生理周期に応じて病状があることを彼らは分かっていない。煽り言葉のようにそんなことを聞いてくるのは、不愉快。ブルーであること、ネガティブな一面があることを良くない前提で話してくることにも、腑に落ちない。あまりにも揶揄されすぎると、ネガティブでいちゃだめなのかなっていう錯覚に陥ってしまうこともあるから本当に止めてほしい。
そういう男は大体、自分のパーソナリティや人生が如何に素晴らしいかを前置きして色々と指摘してくる。そんな時、「お前の方がイキリ陰キャやん。」「間違ってるのは、お前やで。」って心の中で大きく呟く。実際に言ってしまうこともあるけど。
男性ホルモンは好きな時に自分でコントロールして「出せる」から、そりゃあいつでもご機嫌でしょうねと思う。生理現象が起きた時の感情処理能力は、女性の方が処理工程が遥かに多くて大変なはず。女性にとって「気にしない」「鬱々しない」って、至難の技。そんなことに気にも留めない男は、生物学的に自分が恵まれているということを当たり前だと思っている。いつの日か、その「能力」が衰えるのも知らずに。アダムとイヴの時から絶え間なく続くその事実に、少しでも良いから目を向けてほしい所存だ。脳天気な男には、イヴに悪事を唆した悪魔に制裁を下されて欲しい。
ネガティブであることと、物事を繊細に捉えることは限りなくニアリーイコール。解釈の仕方をワンダイヤルでも変えれば、何も間違っていることはないって気付く。一言で「ネガティブ」って言うと陰のイメージが強いけど、「繊細」は他の誰もが持ち得ない視点を持っているし、改善の余地があることに対して誰よりも素早く対処することができるって感じ。
それに対して否応無しに揶揄してきたり、ポジティブや個性の押し売りをしてくる属性はMLM会員の押し売りくらいうざい。人を自分色のポジティブに変えることで、何のメリットがあるのだろう。社会理念に通ずる一般的なポジティブ論だったらいいけど、そういう属性は自分色のポジティブを押し売りするのが好きなのだ。無意味なポジティブって単調なネガティブよりも、よっぽど害悪だと思う。各々に、ネガティブの中に包まれているポジティブは少なからずあるはずだし、もっと色んな個性に目を向けても良いと思う。
そして、パートナーや家族や友人でもなく、インスタントな関係の異性に指摘されると、余計に腑に落ちない。前者であると厚意で言ってくれてることが伝わるが、後者であると限りなく故意に近い。その関係性で指摘してくる時点で、そこから特別な関係性が生まれることはないし、当人もそう望んでないはずだ。ただ、故意的に面白がって指摘しているに過ぎない。そんな、生産性のない発言をする人に出会ったことにも苛つくし、私の喜怒哀楽の領域に入ってこないでほしい。そんな領域展開は、もう一生構築されなくて良い。
私には自分自身に課している感情のリミッターがあるし、ネガティブな感情であればある程、それを超えたくない。それを超えてしまうと、もう何に怒ってて、何が哀しいのか分からなくなる。ある意味それは感情が一周して、ポジティブへの架け橋になるのかもしれないけど、でもなんか違う。ちょうど心地良いネガティブのブランケットに、自分がここまでで大丈夫って思えるまで包まっていたい気持ちもある。自分自身をダメにせず、そのリミッターを超えてこないネガティブ。分かりやすく言えば、超良性腫瘍みたいな。
結局は自分次第なところもあるけど、超良性腫瘍が消えるも悪化するも人との関わり合いが大事だったりもする。自分の中の鬱々しさと上手く付き合わないと人間関係にも影響を及ぼすし、鬱々しさを「完全悪」だとは捉えないで大事に大事に扱いたい。普通の感情よりも丁寧に扱うことでそれが良性に代わり、いつしか綺麗で真っさらになるはず。そして、自他共に素敵な関係が築けると思う。
私はそうやって意識するようになってから、大切な存在になる人にはこう言えるようになった。「私はあなたを幸せにするし、私はあなたに幸せにしてもらう。」「だから、一緒に幸せになろうね。」って。それまでは「男なんだから〜」っていう枕詞が常に付き纏っていたけど、それも意識を変えると気付いたらなくなっていた。
「熱が出たから、今日は会えないかも」と言ってきたポケモンマスター(仮)には、「たいねつポケモンは捕獲したことないんだね(ポケモンの絵文字)」とボケて返せるようになった。前の自分だったら、ただドタキャンされた事実だけに目を向けて躍起になってたはず。でも、違う視点を持つことで彼がドタキャンしたくて嘘を言ったわけじゃないと知れたし、むしろ連絡する頻度も格段に増えた。
「ない事」よりも「ある事」に視点を向けることで、ネガティブとのお付き合いが上手になったかもしれない。完全じゃない自分もしっかり愛でるけど、完全体な自分も見てみたかったりする。だけど、後ろ向きでも、前向きでも真っ直ぐだったらそれで良い。なんなら、曲がり角があっても緩やかにすればそれでいい。自分でその角を削ればいいんだ。直角の方が進みやすい人は別だけどね。次のアンネの日まで、これからも変わらずにセルフラブ。いいこいいこってしないと。