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あの日、飛行船が飛んでいた――『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行機』【乾感 #1】
高野 史緒『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』は、2023年星雲賞国内長編小説部門を受賞したSF小説である。物語の舞台は2021年の茨城県土浦だ。
土浦は当時世界最大の飛行船「グラーフ・ツェッペリン号」が立ち寄った場所である。1929年のことだ。
この物語は、一組の少年と少女が、「土浦の亀城公園で、グラーフ・ツェッペリン号を誰かと見た」という記憶を持っているという設定が重要になってくる。2021年に生きる彼らが幼少期にグラーフ・ツェッペリン号を見ている事自体が不可思議だ。
だが、もう一つこの物語には仕掛けがある。
この少年と少女は別の世界の人間である。
ふたつの2021年に存在する二人なのだ。
物語の序盤では、この異なるふたつの世界線を交互に描く。
この差異がワクワクする描き方で、個人的に興奮しながら読んだ。
ひとつは、少女"夏紀”の世界。もう一つは、少年”登志夫”の世界だ。
夏紀の世界は月面や火星の開発が進んだ世界。
ソビエト連邦が残っており、米ソ宇宙開発はソ連に軍配があがっている。
その一方で、インターネットの普及が我々の住んでいる現在の日本より大分遅れている。冴えない女子高生の夏紀はパソコン部。学校にあるオンボロPCにようやく「Windows21」がインストールされた、そんなノスタルジーさと過剰な宇宙開発のギャップがある世界で生きている。
もう一つの登志夫の世界は、現在とさほど変わりはない。ほぼ唯一といってもいい違いは、量子化学の技術が進んでおり、光量子コンピューターが稼働している。登志夫は飛び級をするほど秀才。1ヶ月間、土浦にある光量子コンピューター・センターでアルバイトをすることになっていた。
つまり、どちらも我々現実世界の人間がたどった2021年の世界ではない。
序盤は、それぞれの世界での異変や生活ぶりについて描かれる。
夏紀はときたま周囲の電化製品が壊れるという現象に見舞われているし、意識の断絶とデジャブ(まるでタイムリープのような)が発生したりする。
一方の登志夫の世界では、世界各国にある重力波望遠鏡や、バイト先の量子コンピューターにわずかな動作の異変が発生する。その異変によって世界的な混乱が起きているというようなことではないが、今までそんな挙動をしたことが無いため、原因の究明を進めることになる。
そんな日々の暮らしの中でも、「亀城公園でグラーフ・ツェッペリン号を土浦で目撃し、そのときにナツキとトシオ、二人で目撃した」という記憶を持っていて、それを事あるごとに思い出す。
何故かお互い名前を知っている。それぞれにとって、特別な思い出なのだろうか。
お互いが、あの女の子は、あの男の子は誰なのだろうか?と思いながら、日々過ごしていく様子が描かれていく。
各々の日常が過ぎていく中、2つの世界の異変は徐々に無視できないものになっていく。
夏紀は不自然な意識の断絶に見舞われたり、幻視のような体験をする。
登志夫は土浦で目撃したグラーフ・ツェッペリン号の記憶を見たという自分以外の人間の情報を入手し、自分が見たあの記憶の謎に迫っていく。
そうして物語が中盤に差し掛かったころ、夏紀のパソコン部の端末に、Windows21用のメールソフト(今となっては懐かしい!)がインストールされる。何度も自分自身のメールアドレスにテストをするのだが、その途中でトシオのことを思い出す。彼女はそのまま、トシオへメッセージを送信するこになる――
ネタバレ無しで感想
マーベル・シネマティック・ユニバースのせいだけど、もう多世界解釈やパラレルワールドものはお腹いっぱいだよ~~~と思っていた。
ただ、昨年の星雲賞国内小説1位ということで読んでみたら、大正解だった。
現実では疑似科学として断じられたアノ話やコノ話が、実は技術革新に貢献していた時空である、という話もでてくるので、陰謀論ウォッチャーでもある評者としては、それだけでとてつもなく美味しい。
ムー的なものが好きなら読んでみて欲しい。クスっとくる。
また、歴史改変SFとしての性格もあり、特に夏紀時空の風景描写は我々の世界とは違う2021年、ファンタジックでノスタルジー。
そこに青春モノが加わって、いやあ、なんというかキラキラしているんです。
世界や時間、人間の認知が重要な要素となっている話なので、そっち系の知識がいろいろ飛び出してくる。夏紀の同級生が大乗仏教唯識派の話をめちゃくちゃ分かりやすく説明しているところとか面白くありつつも、普通にこれ使えるな……とか思ったりした。
とあるシーンでは『レディ・プレーヤー1』を思わせるような、我々の世界よりも進んだメタバース空間の描写や、劇場版『2001年宇宙の旅』的な意識の流れ、情報の洪水に、頭をいい意味でクラクラさせられる。
厳しい人だと、てんこ盛りすぎて煩雑だと評するものもいるかもしれないけれど、僕は好きだ。
そして、「量子力学」というテーマで進んできたからこその終盤の展開は、これまで僕が触れてきたどのマルチバース作品の中でも「納得」というか、いいなと思えるものであり。
余韻がすごかった。
どちらの主人公も好きだ。愛らしくて応援したくなる。
彼らのモノローグによって、僕は記憶との向き合い方について価値観が変わった。
どんなに今自分が生きている世界が辛くても、きつくても、苦しくても、「堂々と、能動的に」今を生きるために、記憶というものはあるのだ。