「私」と「死」を越える「あなた」を求めて(扱う著作:「存在と時間」・「門」・「夢十夜」・「憂国」・「永訣の朝」など)



前書き/人が死ぬ「どこか」なき社会

皆さん、何かこれという趣味はありますか?
私の場合、読書と散歩です(数年前までは麻雀と花札でした)。
散歩といっても、私のそれは梅の香に春を覚え、残り雪に冬を惜しむ類ではありません。
歩いて少しのスーパーの値引きされたホルモンが目当てです。
もし安く手に入ると一日気分がいい……器の小さな男です。

私の下らない話はともかく、バス通りを散歩していると色々な建物が目に入ってきます。
牛丼屋。アクセサリーショップ。学習塾。中古車販売店。
それが何だと思われるでしょう。実際ありふれた景色だと思います。
そこで一つ聞いてみますね。

「もしあなたが、このどこかで死なねばならないとしたらどこで死にますか?」

脳卒中でも心筋梗塞でも構いません、救急車が交通事故に巻き込まれて間に合わず、あなたは死ぬほかない……嫌な話でしょうが、少し、考えてほしいのです。

まず牛丼屋で死ぬのはどうでしょうか。
最後に美味しいものの匂いを嗅いで死ねるのは素敵かもしれません。
が、やっぱり勘弁願いたいところではないですか。  
では十カラットのルビーの美しい赤を見つめて死ぬ?
あるいはトイレを借りた学習塾で、見ず知らずの子どもたちに取り巻かれながら死ぬ?
よほど天邪鬼なあなたは、安売りの自動車のボンネットに背中を預けて死ぬかもしれない。
(でも私ならヤクザ映画の下っ端の死に方みたいで困ってしまいます)

病院で、たくさんの家族や友だちに見守られ大往生!……嘘っぽいですね。
自然に還って死のうにも、現代人としては厳しい。
安楽死を施す公共施設……は制度の整備・国民の合意形成に時間がかかる上、あんな裏金作りの議員どもに私たちの生殺与奪の大義名分を与えるのは怖い。
と考えると、どうでしょう、あなたの場合も、
「俺(私)は是が非でもここで死ぬ!ここで死にたい!」
と言えるだけの「どこか」はなかなかない。それが現状ではないですか。
もちろん、
「俺はまだ何十年も生きるぞ!そんな女々しいことを考える暇はない!」
という方は結構です。それも人の死に対する、一つの確かな向き合い方だと思います(ただなぜあなたがこの記事を読みに来たのか不思議ですが)。

ですが、私たちが明日突然死ぬ確率は決してゼロではありません。また、老いはこの今も私たちに常に近づいています。
そして何より、自らの死に決定した態度が取れないまま生きるのは、とても辛いものです。

けれど今の社会に、人が死ぬための「どこか」―死を望む人、あるいは死期の近い人が、生活の義務から免れ心を落ち着けられる場所―は、残念ながら見つかりそうにありません。
それは私たちの社会が、人間の死をきちんと見つめてこなかったということでもあります。

この記事は夏目漱石の「門」や三島由紀夫の「憂国」などの小説や詩を読み解き、それと同時に、現代社会を生きる私たちの死に場所を考える―しょせん素人の思いつきですから大したものにはならないでしょうが―、そうした探求の一環として書くものです。

第一章/「個人」とは素晴らしいものか

私たちは現代、自分の命は自分一人で一区切り、という考え方に慣れていますね。
そのため、例えば輪廻転生や、あるいは死後の蘇りを信じる方は極めて少数派でしょう。
その考えの背景には、死が「個人」に属するという認識があるはずです。ここにいる、他ならぬ「この私」―「個人」が生き、死ぬ。
その「個人」は、
「生命の続く限り、幸せ(私なら美しい詩歌に出逢うこと)を求めたり、自由(に好きなものを飲み食いしたり、男の子や女の子と付き合ったり、神を信じたりすること)が、他人の幸せや自由を邪魔しない範囲で許されている。」
これは日本国憲法の第十三条を私がいい加減にまとめたものです。 
そして国家から私たちに公式に与えられている人間の生の捉え方も、おおよそこの通りでしょう。

ですが―これは法律の特性上やむを得ないですが―、日本国憲法には人間の最も知りたいことが書かれていませんね。
ずばり、死への受け止め方です。
確かに日本国憲法は現在、世界でも稀に見る優れた憲法です。
ですがそこには、人がいつか死ぬという事実がすっぽり抜け落ちていませんか。
もし人が永遠に生きられるなら、私たちは日本国憲法の定める美しい「個人」として、自由と幸福を追い求めるだけで事足りたでしょう。
でもそれでは足りない。そこには私たちの生の苦しみや死の不安を乗り越える、血の通った言葉がありません。
これまで、私たちは主体的な判断をする「個人」を―かつての全体主義・国家主義への戒めから―最大限尊重することで、日本という国家を成り立たせてきました(それは決して間違っていません)。
ですが、その価値観ではもう、私たちは私たちの生と死とを充分に支えることができない。
それもまた、一つの事実ではありませんか。

(※少し付け加えるなら、私は右翼の人々が言うような伝統的な家族観や天皇・国家への帰属には反対です。
なぜなら―話が少し先走りますが―例えば私が人を殺したとします。刃渡り二十センチの刃物で、内臓がズタズタになるまで妊婦を殺めるのです。
そのときは、いくら家族であっても、また、どんな素晴らしい君主や理想国家の統治下でも、私は邪悪な人殺しとして扱われることでしょう。
確かにそれは当然です。
ですが、私たちは一人死というものに向き合ったとき、ときに妊婦を殺めねばならないほどの大きい暗闇を自分の内側に見つけてしまうことがある。
そのとき、この世の家族や国家といった共同体の論理は驚くほど無力になります。)

一.英雄という病―ハイデガーの限界を探る―

今、SNSを利用した政治活動が大きく問題視されていますね。例えば東京都知事選の石丸伸二氏、兵庫県知事の斎藤元彦氏などです。
もちろん多額の金が動き、私たちの民主主義が脅かされたのは事実でしょうが今は深入りしません(政治は人間の生のため役立ちますが、私たちが死ぬ間際には無力です)。

今ここで私が話したいのは、ある種の英雄主義です。
例えば、昭和のサラリーマンの多くは戦国武将と明治維新が好きで、司馬遼太郎さんの歴史小説がずいぶん売れました。
なぜ売れたのか。
これはあくまで私の推測ですが、戦後の日本では、日本国憲法の理想から遠い、理不尽な社会の仕組みが固定化されてしまった。
そのなかでサラリーマンたちは様々な悲哀を抱え、やむを得ず生きたと思うのです。
そのとき、司馬遼太郎さんの書く英雄たちのイキイキした物語は彼らに一つの理想や美しい夢として、感じられたのではないでしょうか。

私は、石丸氏や斎藤氏に票を投じた人々も、同じ「物語」を信じたのだと思うのです。
それは日本国憲法が定めた「自由で主体的な個人」という理想の行き着く先の―「英雄」物語です。

ここから、少しややこしい話をします。もし私の説明が下手なら、飛ばして構いません。
ハイデガーというドイツの哲学者は、実存主義という哲学を大きく発展させました。
(専門家から石を投げられるのを承知で要約すると)彼は人間が「死」を主体的に選ぶことで、真に生き始められる、と考えていました。
その思想には強い魅力がありました。毎日死ぬことに怯えてよく生きることを諦める人より、
「いつか俺は死ぬ。それでいい。今日を精一杯生きよう」
と覚悟を決めた人のほうが、ずっと人間らしい気がしませんか。
私も十代の頃、ハイデガーの主著「存在と時間」を宝物のように思っていました。

けれど、やがて私はハイデガーから離れていきます。
一つは彼がナチスを支持したことです。
主体的な判断の下で生きる個人を理想化する先にあるのは、他者を暴力的に制圧する―ヒトラーのような―歪な「英雄」でしかないのではないか。
第二に、人間は誰もが主体的には生き得ない。
貧困や独裁から、望む未来など夢にも抱けない人々に「恐れず死を選び生きろ!」と言っても、余計に惨めなだけではないですか。
そして第三に、人間に主体性を認める認識は(これはハイデガーへの批判から少し逸れますが)、暴力的な自己責任論を招く危険を常に抱えています。
しかし私たちは病や老いなど、主体性では解決困難な問題を抱えながら生きざるを得ないではないですか。

結局、ハイデガーの哲学は強者の傲慢な、そして不完全な思想だと私は思います。
けれど、この「英雄主義」には人を強く惹きつける力があります。
火を吹く龍のように太刀打ちできない―既得権益や社会構造のもたらす貧困、あるいは死といった―「敵」が私たちの生活を脅かし、世界に確かな意味があると充分信じられない。
そのたび人はその「敵」を打ち負かす、強い力を持った英雄を求めます。
もちろん、石丸氏や斎藤氏はヒトラーほどの悪ではないかもしれません。
ですが彼らを支持する人々の心理に、私は極めてよく似たものがあるように感じています。

今回、石丸氏や斎藤氏に票を投じた人々が、他の候補者やその公約と比べて彼らを選んだとは思えないのですね。
彼らはむしろ、現状を変える眩しい「英雄」の夢を見た。
そしてそれは例えば闇バイトや非正規雇用などの様々な不利な労働環境と、既得権益層に有利な政治決定の両方に押し潰される私たちの今日が生んだ、切実な呼び求めだったのではないか。
そう、私は思うのです。

人の体が熱や痛みで不調を知らせるように、社会は個々人の心の病を通してその不具合を知らせる。臨床心理士の河合隼雄さんの言葉です。
トランプ大統領といい、主体的な意思決定のできる英雄的な人物を―現実の複雑さをときに無視して―求める動きが現在、民主主義国家において広がっています。
そして(勝手に病扱いにして申し訳ないですが)これら「英雄病」こそ、西洋近代的な「個人」に立脚した社会及び国家の仕組みが、今まさに機能不全を起こしている―その警告だと私は思うのです。

二.偽りの主体性―「自己愛」という死角―

しかし人々が、社会の仕組みの不具合から歪な英雄を求めるなら、地道な社会制度の改善によって克服できるのではないか。
確かにそうかもしれません。私たちがしっかり話し合い、努力すれば、もう一度正しい民主主義は蘇るかもしれない。多くの左翼の人々はこう主張します。
私は彼らの理想主義の明るさが好きです。けれど信じることはできない。
なぜなら、いくら外部の仕組みや制度を変えたところで―もちろん無駄ではありません、しかし―人間の内部にある、自己愛やエゴイズムを克服するためには役立たないからです。

主体性という言葉はあいまいな言葉です。
「主体的な個人」の意味を子どもにも分かるように説明できる方は―もちろん私も含め―ほとんどいないのではないですか。
では、私がちょっと試してみますね。
おそらく、ここでは私たちから主体性の喪われる事態を先に考えたほうがわかりやすいはずです。
例えば、マインドコントロール、権力による情報の統制、根深い貧しさなどによって、自分に望ましくない意思決定を余儀なくされる。
ここに主体性はありませんね。
そうした外部からの干渉を受けることなく、個々人が自らの内的な価値観に従って物事を判断し、決定すること。
それが、主体性という言葉の意味するところではないでしょうか。

こうして書くと、主体性というのはそれほど悪くないように思えてきますね。
人々が自分らしく、色とりどりの価値観を持ち寄り、自由に物事を話し合い決めていく社会は、確かに美しいでしょう。
ですが私はやはり信じられません。それは人が自己愛を有するためです。
例えば私のケースですが、スーパーの半額コーナーにとても買えない高級和牛しかない(鶏肉などは買われてしまった)とき、買っていった見ず知らずの誰かを憎みます。
そして近場の買い物かごをチラチラ覗いては、
「俺の唐揚げ用の鶏もも肉を買ったのはどこのどいつだ」
と血眼になる。

いやいや、俺(私)はお前のように欲深くないよ、という方に、もう少しお話させてください。
変なお願いですが、今日から一週間、私のお世話係になってほしいのです。 
料理(三品は食いたいな)、洗濯、歯磨き(デンタルフロスも頼みます)、入浴、トイレの後始末も頼むつもりです。 
どうです、嫌でしょう(私だって逆の立場なら嫌)。
でも、あなたたちは毎日、そんな嫌なことを自分のためにやっていませんか。料理を作り(あるいは買い)、歯を磨き、大小便の後始末だってする。
そんなのは当たり前だ、という方はなぜ当たり前だか言えますか。


では、ずいぶん失礼なことを言います。
実はあなたたちは、あなたたちのことが大好きなのではないですか?
憎くてたまらなかったり、自分と無関係な人間の世話なんて―何か報酬があるならともかく―基本的に、誰もやりたくない。
なら、あなた方があなた方の体や心の世話を続けるのは、少なからず、自分のことが好きである―少なくとも無関心ではない―ことの表れではありませんか?
「そんなことない、今の自分なんて大嫌いだ!」
という方も、それでもあなたの生を投げ出さないし、自分の肉体を放置して、汚れるままにもしない。

自己愛と言われると、私たちは自分とは関係のない遠い言葉に感じます。
それは当然のことです。私たちは一々、 
「右足出して、左足を出すと、歩ける」(COWCOWさんのネタですね)とか
「食べ物を口に入れて、あごを動かすと、細かく砕けて飲みやすい」
など考えていたら、とても生きていけない。 

私たちは生きるため必要不可欠なものを、それゆえ死角にある図形のように見失う―見るのを忘れる―ものです。
なら、自己愛―私たちが生きていくため必要な心のあり様は、まして目につかなくなる。


では人間の主体性の話に戻ります。
先ほどお話した通り、私たち「個人」は、私たちの内面の価値観に基づく判断をして生きていく。それが主体性だ、と説明しました。
ではここで、個人の主体性と自己愛との間に、どのように区別をつけられるでしょうか。
「あばたもえくぼ」と言うように、私たちは人を愛すると、その欠点まで微笑ましく見えてくる。
赤の他人ならまだいいのです。しかし私たちは私たち自らを―その生を投げ出さない程度に―愛している。
とするなら、個々人の「主体性」の内部には赤いセロファン越しに見る景色のように、愛する「私」に都合のいいフィルターのかかった価値判断が、すでに紛れ込んでいるのではありませんか。

ではそもそも、私たちに主体性など本当にあるのでしょうか。
私たちは無意識のうちに、「私」を主人とし、「私」に仕える下僕のように生きています。
もう少し言うと、常に私は人生の主人公が「私」であることを強いられている。
小説なら、「私はこう思った」「私はこうした」「私は幸せになりたい」と、私を巡る言葉でどのページも埋まっているようなものです。

それで別に構わない。
戦争などの極限状況下ならともかくです、平和な社会で、個々人が個々人なりの幸福を求めることがなぜ悪いか。
もちろんそうした価値観は直ちに否定されるべきではありません。
いくら自己愛が混ざっていても、人は「私は何を食べたいか」「私は誰と付き合いたいか」「私はどんな職に就きたいか」を―ときに現実の諸条件に妨げられつつも―選び、それなりに幸福に生きていけます(今では過去の話でしょうが)。
 
でも「私の老い」、あるいは「私の死」はどうですか。
いくら愛する「私」に私が永久に生きていてほしいとしても、「私」はやがて年老い、死にます。
そのとき、自己愛の混じった主体性によって、私たちは老いや死を乗り越えられるのでしょうか。
正直、難しいのではありませんか。 
そして、いくら「英雄」や共同体に頼ったところで、その英雄は偽物かもしれませんし、共同体の多くは衰退し、「他ならぬこの私の死」を受け止めるだけの力を持っていません。
すなわち私たちは私たちの外にも内にも、死の不安や恐怖を預けるだけの何かを見いだし得ていません。 

私たちは、ずっと先にあるゴールテープのように死を捉えて、「まだまだ平気だ」と信じ、今日一日を生きていく。
でもそれは変な話です。どんな陸上競技でも、ゴールテープの位置を知らずに走る選手なんかいません。
それにゴールがどこか分かるから、ランナーは思いきりスパートをかけたり、力を抜いて急坂に備えたりできるのでしょう。
私たちの生と死についても同じことです。 
自分の生のゴールがどこにあるのか、自分がどのように死ぬのか、それぞれ分かっていれば、私たちは毎日を「私」に支配されて生きるのではなく、いつか来る死を見つめ、安心して生きてはいけませんか。

第二章/「私」の死を見つめる「あなた」を求めて

前章でお話した通り、残念ながら、私たちは私たちの死を克服できそうにない。
むしろ「私」に興味関心の尽きない自己本位のあり様に振り回されて、他人との関係に苦しみ、ましてや死後のことなど考えるゆとりもない。
この章ではその「私」の不確実さをさらに確かめ、その先にある「あなた」へ開かれた死についてお話しします。

一.夏目漱石から見る「私」の不確実さ

前章で話した夏目漱石には、「私の個人主義」と題する講演があります。

ここでの国家主義の粗暴さをたしなめ、個人主義を重んじる漱石の姿勢は、年に一度は国会議事堂にラウドスピーカーで流したい立派なものです。

しかし漱石はやがて、個人主義を超えるものを求めます。いわゆる「則天去私」(天に則り私を去る)ですね。
ただ、それを示すとされた長編「明暗」が中絶した以上、実態はほとんど分かっていません。
けれどここで「私」を超える存在―「天」―が求められている。それは確かなはずです。

(※誤解を避けるために話しますね。
現代社会において、
「私を超える」
と言うと、例えば
「私利私欲に走らず高いモラルを持って生きる」
そうした「高潔な生き方」のイメージがあるのではないですか。
けれど、そのモラルの正しさは誰が決めるのですか。
仮に社会や国家なら、それらの共同体は常に外部との関係性に振り回される、極めて不完全なものです。
ある日突然、日本がアメリカと組んで世界中で戦争を始めたら、あなたのモラルなど(意地悪な言い方ですが)ズタズタに引き裂かれてしまうかもしれない。 
そして個人のモラルは、やはり自己愛に歪むことを避けられません。
あなたも「善」や「正義」の背後で、自己を見失い、暴力や脅しを繰り返す人間を一度ならず見てきたのではありませんか。
そして何より、道徳や倫理はここにいる私たち一人一人の暗い暴力性や癒えない孤独を照らし得ません。)


夏目漱石の「門」を読んだことのある方はいますか。
主人公の宗介は過去、安井という男から御米という女性を奪ってしまいました。その結果、宗介と御米は社会から隔てられ、孤独のなかで生きています。
そして彼らの犯した過去の罪は亡霊のように、夫妻の現在を脅かし続けるのです。


私は前に、人間の自己愛は私たちが生きていくため必須のものと言いました。
けれど愛は水道のようにその量を調節できません。
だから自己愛もまた、私の制御を越え―宗介夫妻のように―他者の生を残酷に蝕む危険を抱えています。
そして、そこまで行けばそれはもはや「自己愛」―仮にでも愛と呼べるものではなく、捻れた「エゴイズム」へ醜く変質していることでしょう。

にもかかわらず、私たちはエゴイズムの支配下から抜け出せない。自己本位の価値観、「私」が主人公の物語の外へ、抜け出せない。
恐ろしいのはそうして生きる「私」のことを、今ここにいる私自身が完全に理解できないことです。

そのことを漱石「夢十夜」の「第三夜」から説明します。

「自分」は夜、盲目の子どもを背負って歩いているところです。
不気味なのでどこかに棄ててしまいたいと思っていると、不意に「自分」はその子にこう言われます。

「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」

そして、

おれは人殺ひとごろしであったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。

という一文でこの話は終わります。 
「第三夜」の、この「自分」のあり様こそ、私たちの「エゴ」そのものではありませんか。
盲目の子どもを夜道に棄てたら、当然その子は死んでしまうかもしれません。けれど「自分」は我が身可愛さで頭がいっぱいで、そんなことは考えることもできない。
そしてこの話の恐ろしい点は、百年前に人を殺した事実を、当の「自分」が忘れていることにあります。 

エゴイズムとは自分が一番愛されるよう、常に動き続ける心のあり様です。
少し喩え話をすると、それはスピーチ大会で優勝できるよう、子の原稿に飽き足らず手を加える親のようなものです。
そのとき、その親は他人の子のこと、またその親たちのことは忘れてしまう。ただただ、今ここにいる「この子」が可愛くて、ズルしてでも、特別な一番になってほしいのですね。
けれど自分で言葉を必死に紡ぎだす経験は、一番になることより、長い目で見ればその子の幸せかもしれない。

エゴイズムは「私」を幸せにしようと、一時も休まることなく努力を続けます。
にもかかわらず、その努力には自己中心的な―この親のような―歪みのもたらす、視野の狭さがつきまといます。
そのため、エゴイズムは必ずしも正しい現実を捉えられません。
そして大きな暴力や恐怖を前に無力です。

個人の主体性と言えば美しいですが、その実、私たちはこうした自己本位の生き方に振り回され、「私」に仕える奴隷の一人となって、確かな目的地もなく走り続けるランナーになってはいませんか。

「門」の話に戻ると、小説の後半、宗介は禅寺に修業に行きますが、結局宗教的な境地には達することができずに終わる。
「私」を超える何かを宗教に求めても、難解だったり、口当たりのいい道徳じみて、結局無力感だけが募っていく経験は、あなたにも覚えがあるのではないですか。
その点で「門」は極めて現代的な問題を含んだ小説です。 
つまり、エゴに支配された「私」と「個人主義」を超える価値観はどこにあるのでしょうか。
次の段ではそれを考えていきます。

二.三島由紀夫「憂国」―他ならぬこの私を超えて―

二・二六事件のことはご存知でしょう。
昭和天皇を中心とする「天皇親政」を求め蹶起した将校たちは、その昭和天皇の怒りを買い、呆気なく殺されました。
三島由紀夫の「憂国」では、(新婚の身であることを理由に)蹶起に誘われなかった武山中尉が、その後自らの手で親友の彼らを討たねばならない事実に苦悩し、妻の麗子と共に自決するまでの悲劇が描かれています。
この話は性的描写が多く、エロティックな文芸作品として読むことも可能です。
また三島本人の言から推測すれば、美談として歴史のうちに消え去る個人の悲劇を、作家の目で事細かに語り直したい動機があったとも取れます。

しかし、私はまた違う読み方をしています。
この短編を貫いているのは「私の死」を克服したいという、(おそらく三島由紀夫自らの)激しい希求性です。
それは「憂国」の、以下の下りを読んでもらえば明らかなはずです(少し読みにくいかもしれませんが旧字体で引用させてください)。

(略)戰場せんじょう孤獨こどくな死と目の前の美しい妻と、この二つの次元に足をかけて(略)今自分が死なうとしてゐるといふこの感覺かんかくには、言ひしれぬ甘美なものがあつた。(略)妻の美しい目に自分の死の刻々こっこくを看取られるのは、香りの高い微風に吹かれながら死に就くやうなものである。そこでは何かがゆるされてゐる。(略)ほかの誰にも許されない境地がゆるされてゐる。中尉は(略)美しい妻の姿に、自分が愛しそれに身を捧げてきた皇室や國家こつかや軍旗や、それらすべての花やいだ幻を見るやうな氣がした。それらは(略)どこからでも、どんな遠くからでも、たえずきよらかな目を放つて、自分を見詰めてゐてくれる存在だった。

「三島由紀夫全集13」p.242.243.

……難しいですね。私も改めて書き写して、意味の取りにくい文章だと思いました。
なので少し補助線を引くような形で、老人になった私を想定したロールプレイを軸に、この文章の読み解きをさせてください。

〈私は身寄りのない老人です。身動きが取れなくなり、公的な援助にも繋がることなく、水道もガスも電気も止まったボロボロの家で、今、誰にも気づかれず死のうとしている。
でも、それはいいのです。一番困るのは、
「もっと生きたい」
という叫び声が、抑えられないことです。嗄れた声で、私は叫びます。
「生きたい、生きたい、生きたい!」
体の細胞はどれもボロボロで、視界は白く濁り、筋肉は衰えて、私はもう二度と生き直せないでしょう。
そして、振り返れば、私は何一つ、誰かのために役立つことをしてこなかった。
ただ自分のために、儚い楽しみに溺れ、今日さえ済めばいいと、死を小馬鹿にして生きてきた。そして今、この隙間風の吹き込む廃屋同然の一軒家で、死のうとしている。何一つ、生についても、死についても知らないまま。
「生きさせてくれ!生きさせてくれ!生きさせてくれ!」〉

いきなり何を読ませるのだ、と思われたと思いますが、これと「憂国」の文章を比べれば、その特徴は明らかではありませんか?
すなわち武山中尉には、私の老人のような死の不安や、生への執着心が見当たらない。
そこにあるのはただ、「そこでは何かがゆるされてゐる。」という、静かな安堵あんどです。

ここでの武山中尉の安堵は、果たして何を由来とするのでしょうか。
結論から言えば、それは他ならぬこの私の死が、信頼できる「あなた」に見つめられている―その確かさにあるのではないでしょうか。

(※ただし「憂国」には国家主義的なイデオロギーが顔を出しているのも事実です。また私はそれを明白に否定します。国家は必ずどこかに不正な暴力を隠し持っており、決して個人の最終的な心の拠り所となり得ません)

三.一人称的世界観から二人称的世界観へ

繰り返しになりますが、ここにいるこの私は、「私」を中心とする生き方から解放されることはなく、ましてや私の死を乗り越えることなどできません。  
さながら新生児を抱く母親に、
「その子が癌で死ぬことを喜べ」 
と促すようなものです。母親は首を振り、ますます赤子をきつく抱くでしょう。
私たちもまた死を前にして、かけがえない「私」への執着心から、切実に生きていたいと願います。
仮に、こうした生き方を【一人称的世界観】と呼ばせてください。
そして「憂国」では、この【一人称的世界観】が【二人称的世界観】(以下で説明します)に移行する風景が描かれています。

もし今、手近に紙があるなら、大きな丸と中くらいの丸を二つ、少し離して縦に並べて、上に「あなた」、下に「私」と、書いてください。
そうしたら「私」の丸の周囲に小さい丸を書いて、あなたの大切だと思うもの、愛しているものを並べ、線で繋いでください。
家族やお金、職業や健康、知識……(私なら二匹の猫です)。

【一人称的世界観】とは、まさにこのようなものです。「私」という本丸の周囲に、様々な愛するものとの関わりがある。幸福があり、安らぎがあり、ときめきがある。
けれど、それら愛するものは私の死というただ一度きりの事態を前に、どれほど力を持つでしょうか。

何より、その愛がどれほど深いとしても、私たちの中心には、常に他ならぬこの「私」が居座っています。
だから私たちの愛には、それがどれほど深い愛でさえ、必ず自己愛やエゴイズムが混ざる。
私たちが「私」という一人称の生き方にしがみつく限り、そうした不完全な生き方から逃れることはできないのです。
そこで、「あなた」という丸から、一本の線を「私」の丸まで引いてください。

この場合でも、私が「私」への執着心を抱え、有限の愛に苦しんでいる事態には、何の変わりもない。
けれど上を見れば、そこに「あなた」がいる。私という存在は、「あなた」に見つめられ、「あなた」と常に共にある。
世界の中心は、他ならぬこの私ではなく、信頼できる「あなた」。
それが【二人称的世界観】です。


整理すると、【一人称的世界観】において、人は「私」であることを念頭に生きています。
そのため世界の優先順位は、私―あなた、となる。この世界では私の主人は常に「私」で、「あなた」は二番手、三番手に過ぎません。
一方、【二人称的世界観】において、人は「あなた」と共にあり、「あなた」と共に生きています。 ここでは、あなた―私の順に世界がある。
まず「あなた」がいて、その「あなた」に見つめられる者として、私が生きている。
そこでは「私」を中心とする世界における、あらゆる苦しみが乗り越えられていきます。

四.けれどどこにもあなたはいない

問題は、私たちの現在生きている社会では、もっぱら【一人称的世界観】が肯定され、【二人称的世界観】は深められてこなかったことです。 
例えば、年末(までにこの記事が書き終わるか怪しいですが)の歌番組を見てください。
「答えは君の手でつかむんだ」
「夢を諦めたくなんかない」
そこでは人が偽りの主体性を発揮し、「私」への執着を強めていく光景がさも良いことかのように歌われています……(そこまで言うこたあないだろ)。
とにかく、私たちが私たちの生と死の一切を預けるだけの確かな「あなた」に出逢うのは、今の社会において、極めて難しい。

なぜこんな社会になったのかについて、詳しくは(下手くそで読みにくいですが)「〈天皇〉・利用される神の末路」という題で以下の記事に書いたので要約すると、主に
①江戸時代の現世主義
②明治時代の廃仏毀釈や国家神道の影響
により、「私」を超えた存在を呼び求める思想や信仰が充分深められてこなかったことが挙げられます。

三島由紀夫はその延長にある戦後日本社会の内部で激しく苦しみ、最後は天皇に「私」を超える「あなた」を求めましたが、その試みは失敗に終わりました。

冒頭の話に戻ると、こうして街を歩けば、そこには何でもあるようです。 
―スーパー、ネットカフェ、パチンコ店、小学校。
そのどれも、明日も生き続ける人のための施設です。
そしてかろうじて死と関わる病院や葬儀場は、日常から離れ小島のように隔てられています。
私たちは今の社会にいつか来る私たちの死を巧妙に隠され、それを疑問にも思えず、生きている。 
こうした社会では、私たちの生活がどれほど豊かであれ、結局は個々人のエゴの暴力性や死から目を逸らすその場しのぎの無力な世界観しか育ちません。

けれど、ここで皆さんを火炎瓶片手の社会革命に誘うわけではない。
むしろ、そうして「私」中心の世界の歪みから目を逸らし続けるあり様は、人間にとってまた、やむを得ないものなのです。
例えば毎日一人分に少し足りない食事しか出ない牢屋に私とあなたがいたなら、私はあなたを、あなたは私を殴り、叩き、脅して、食物を得なければ死んでしまうように―人が誰も皆、暗いエゴイズムを抱えて生きていることを、私たちは―意識的に、また無意識に―知っています。
そして自分はその暗闇のなかで生き続けねばならない。
「なぜ生きるのか」「何のため生きるのか」など問うていたら、きっと他者に食い物にされ、私たちは醜く死んでしまう。
だから人間は「私」を主人とし、「私」のため必死に生き続けます。
それは石が水に沈み、羽は浮くように、私たちが望む望まざるにかかわらずそう強いられた生き方なのです。

だから、決してあなたが何か問題を抱えているわけではない。
問題は私を含め日本国民が、日本国憲法に代表される生の理想を踏みにじり、死については問わず、ただ偽りの主体性が生み出す民主主義と空疎な経済活動に寄りかかるあり方を肯定し続けたことにあるのです。

ただ、だからこそ今、社会から零れ落ちた、死へと向き合う多くの人々が心を鎮め、各人なりの「あなた」に祈るための「どこか」を作らなければいけない。
そう私は考えます。あなたはどうですか。

終章/生きがたき此ののはてに

岡井隆という歌人の短歌で、私の愛してやまない一首があります。

生きがたき此の生のはてに桃植ゑて死もかうせむそのはなざかり

辛く苦しいこのの行き着く果て、桃の木を植えたなら、その花盛りは死を照らすほど明るいだろう、という歌です。
桃は黄泉比良坂よもつひらさか黄泉よみの国の追手を追い払う果実であり、また「桃源郷とうげんきょう」という言葉もあります。
この歌でも桃には死の暗闇を清めるもの、または生死を超えた楽園が重ねられているかもしれません。

あるいは、宮沢賢治の妹、宮沢トシの死の間際の声を写し取った詩「永訣えいけつの朝」の、以下のフレーズ。

うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる 

大約すると、
「今度生まれてくるときは、これほど私のことばかりで苦しまないように生まれてきます」 
といった意味です。
宮沢トシは法華経の信仰者でもありました。
そのため、この言葉には後悔と同時に、自らの生死の行く末を見定めた人間の、ある種の大らかな安らぎをも感じ取れる気がします。
(後に「銀河鉄道の夜」で美しい星座となったさそり
「こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなのさいわいのために私のからだをおつかい下さい」
という言葉と響き合うものでしょう)

できれば、これを読んだあなたにも、そうした確かな死後の行く末を見いだしてほしいというのが、私のわがままな願いです。 
エゴに支配され、体は病み、心は悩んで、一時の落ち着きを得ることすら難しい私たちが、私たちの生を一時停止し、より大きな「あなた」のいる世界に触れる。そのための、暴力や政治活動や資本主義から隔てられたどこか。
そうした安全などこかを、ぜひあなたには見いだしてほしい。
  
そうはいっても難しいですね。
一応話すと、宗教の世界観と上手く出逢うことができれば、それはあなたの助けとなるかもしれない。
ただ、「宗教」と言うと、片やオウム真理教や統一教会などの現世的な権力志向、片やきれい事の道徳や苦しい修行のイメージから、できれば近寄りたくない方が多いのではないですか。

私としてはそのどちらでもなく、
『「私」と「死」を超える「あなた」に出逢うための一つの手段』
が「宗教」だと考えてほしい。 
あなたの役に立たなければそれで構わないのです。
けれど確かな生死を超える価値観を、特にキリスト教や仏教といった歴史の長い宗教は必ず持ち、またそれを自分の言葉で語る善き信仰者がわずかでも必ずいます。

一応、私の知っている二人の信仰者について、ここで案内させてください。
一人は、来住英俊さん。カトリックの司祭です。

途中の「一人称的世界観と二人称的世界観」は、「キリスト教は役に立つか」中の来住さんの説明をそのまま写したようなものです(とてもわかりやすかったので)。

もう一人は阿満利麿さん。浄土門の信仰者です。  

「親鸞・普遍への道」(仏教に興味のない方でも面白いと思います)の試し読みを載せておきます。 

キリスト教、仏教、イスラム教、天理教など、これまで私は約百人ほどの信仰者の著作を読んできました。
しかし話に納得できたのはこの二人だけです。
それほど、「宗教」―「私」を超えるものへの意識―が今の社会は弱い。
(道徳と宗教の違いも理解していない者が、寺や教会の内側でしか通じない言葉を並べるのを見るたび、私は悲しくなります)

私の案内した彼らの言葉も、私の言葉と同様に、あなたたちには嘘くさく聞こえるかもしれません。
それでも、少しでも役に立てばと、こうして紹介したまでです。

 
最後に私の死に場所について、少し喩え話を交えてお話しさせてください。
ある街があります。そこはとても明るい。昼も夜もなく明るいのです。
その街では、人殺しも、強姦魔も、どのような悪人さえ、ひとしなみに赦されています。
けれど街の周囲にある夜の河原では、猿たちが食物を奪いあっています。醜く喚き、分け合えば足りてもなお奪いあう。

明るい街に住むかつての人殺しや強姦魔は、街で発電機を回す仕事に就いています。
そして猿たちの脂肪で汚れた目が、少しでも清らかな光を見るよう、毎日街に光を灯している。
あるいは空を飛び、猿たちの空腹を満たそうと、河原に美しい銀の木の実を撒いていく。
けれど猿たちは光を見ようともせず、木の実は奪いあって、空腹は決して癒えません。

私は法然と親鸞の教えを信仰しています。
この話は、猿がエゴに汚れたこの私、光の街が浄土、発電機を回す人殺しや強姦魔が利他行に専念する菩薩ぼさつです。
私にとって、死とはその光の街に行き、発電機を回す一員となることです。
光の街は、あらゆる差別と排除、憎しみとさげすみ、孤独とへつらい、エゴイズムと死を超えて、常にそこにあるのです。

長い話になりました。読んでくれた方はよく体を休めて、これまでの話は九割九分九厘忘れてください。








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