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【失礼な作家紹介】No.1羽田圭介「黒冷水」編

【※性的な話を扱います。】






前置き

B級映画が好きだ。この前も体が燃えているサメ映画を見た。核実験の影響だったはず。

本記事で扱う羽田圭介氏もB級作家である。村上龍や島田雅彦のように(両者とも名前を知らない方が増えて嬉しい限りだが)己のB級性に気づかない作家と違い、この人のBは本物のBである。

この人のB級性は作品にとどまらない。YouTubeで鈴木福とコラボし、テレビ番組に出(筆者は「開運なんでも探偵団」で見た)、さる女優と結婚し……この安っぽさ!(褒めている)。
そう、彼はエルサレムでパレスチナを擁護する演説などしてはならない。自衛隊駐屯地で切腹もしてはいけない。そうした「切羽詰まった」ものをこの人は持ってはいけない。

扱う作品

ここでは「黒冷水」「不思議の国のペニス」「走ル」―デビュー後の三作を扱う。

後々詳しく話すが、「不思議の国のペニス」を除いてはとても傑作とは呼べない。人生や人間についての学びを得たい方はここで読みやめることをおすすめする。

どんなふうに読むか

はっきり言って批判して読むのは簡単だ。特に「黒冷水」はあまりにも「ボロ」が多い。

ただ、そうした悪口を読まされるのは楽しいものではない。私だって書きたくない。

また「黒冷水」は羽田氏が17才で書いた作品である。まだ高校2年生だ。なら情状酌量の余地は十分にあるはず。

そこで決めた。
①本記事では「編集者」になりきったつもりで読む。
つまり羽田氏の将来性に惚れ込み、彼の作品をより優れた作品にするため、努力を惜しまない編集者の目線である。
とはいえ筆者は本来編集者でもなんでもないズブの素人だ。あくまで「ロールプレイ」であることは忘れないでほしい。

②「作家志望の青年」。
彼は「こんな作品なら俺でも書けるぞ!」と息巻いている、いまだ無名の青年である。
彼の目線を借りて、羽田氏がどのように3作を書いたかについての「企業秘密」を暴く、そうした対抗意識を仮に持って読む。
この二つの目線に、最初に筆者の要約を加えて読んでいくことにする。


「黒冷水」解読

読み方は「こくれいすい」。
【あらすじ】
優秀な兄、正気は弟の修作に困っていた。
修作には兄の部屋やパソコンのポルノを漁る癖がある。主な理由としては性欲だ。
しかし、正気はその優秀さからそんな修作を逆に手玉にとる。気に食わないのは、母親の修作に対する肩入れだ。自分は被害者だと正気は思う。
その後、薬物中毒になった修作と正気は闘い、修作を倒す。そしてこれまでの弟へのわだかまりを晴らす。


ところが、これはすべて「黒冷水」という【作中作】の内容だった。主人公が兄であること、彼に弟がいることは事実だが残りは大きく歪められている。どちらかというと「修作」が主人公であり、弟が「正気」に近い。

現実世界でも彼は弟を病院送りにする。最後の一文はこうだ。
「お前が死んでしまえば、僕の経歴に前科者としての傷がついてしまう。」
兄である彼の異常性(彼は弟がナイフを持っていると思って応戦したが、実際は釣りのルアーだったことに気づく。にも関わらず彼は弟を殴り続ける)が明かされ話は終わる。

(実際はカウンセラーや青野という薬物売人などが作中作「黒冷水」に出てくるが割愛した。)

【筆者要約】

まず、当時は題材として新しいインターネットを取り込んでいるところが挙げられる。
が「取りあげただけ」感は否めない(綿矢りさ氏の「インストール」を知っているとなおさらそう思う)。

とはいえ「パソコンでエロ動画を漁る中学生」という題材に通俗的な面白さがあるのはみなさんにも分かると思う。
筆者はこの「修作」のキャラが一番気に入っている。性欲に支配され、兄のパソコンをあさり、アニメのキャラの十八禁イラストを保存し……、滑稽な存在で、常に何かしら厄介事を引き起こすが、そのバカバカしさが面白い。作品を読むモチベーションになっていると思う。

一方で修作の(欲望任せの)行動を追う正気はそれほど魅力がない。
小説における「理想的な人物」はあまり面白くならない。小説とは悪人狂人愚者を書くほど面白い。

「黒冷水」は、さっき言った通り「メタフィクション」だが、読んでいると薄々分かる。というのは、この小説は一応三人称で書かれているが、ほとんど一人称視点で問題ない。
そして一人称視点として読むと、作中作「黒冷水」の正気の行動にはところどころ違和感があるからだ。

また「黒冷水」とは作中の造語。心の中の悪意、くらいの意味だがそれほど気にする必要はない。

【編集者として読む「黒冷水」】


まず、17才の作品として、十分な完成度だと思う。
その上で、いくつか問題点がある。

【作中作「黒冷水」の問題点】

まず、登場人物の扱いの差だ。正気と修作の母親は典型的な「事なかれ主義者」で、これはいい。作品として「黒冷水」の露悪的な部分の多さとマッチしている。
ただ、父親の存在が薄いのはどうか。

「仮案:父親をもっと悪意ある存在にしてみたら?
たとえば「実は正気の部屋を漁っていたのはこの父親だった」とか。もちろんこれだとメタフィクションの下りが機能しなくなるが、息子の部屋を漁りエロ動画を見る父親―何とも安っぽくていいではないか。
動機は―息子たちにバレるスリルを楽しんでいた、というのはどうだろう?」

作中作「黒冷水」は、個人的な意見として弟、修作のキャラクターが一番いい。彼が欲望に任せてハプニングを起こす。それを追う楽しさが「黒冷水」の魅力だと思う。

しかし一方で、修作のいないシーンは軒並みつまらない。

例えば、正気が会い己を見つめ直すカウンセラー、オタクの「ファンリル」、修作の存在に嫌気が差して正気が外泊するエピソード、修作をヤク中にした張本人の青野……彼らのエピソードは、正直面白くない。話としてどれも修作の「イカレ具合」に勝てていない気がする。

特に足を引っ張っているのは、青野の薬物の下りだ。この結果、修作は単なるヤク中になってしまう。これは個人的に頂けない。彼には兄への憎悪を振りかざし、ピンピンした状態でボコボコに負けてほしかった。

「仮案:まず、サブキャラクターたちはすべて消してもいいと思う。父親のキャラクターを立てて、『ある異常な一家の異常な物語』としてみたらどうだろう?
性にまつわるチープなストーリーの、そのチープさ加減が面白い。もっと増やせないか。
例えば、途中で正気が修作のオナニーをビデオカメラで撮る(復讐する)エピソードがある。ここに、父親が現れたら?連れ添うのは母親。正気の勉強机の上でアブノーマルプレイに興じる。
徹底してイカれた家族に囲まれて一人戦う正気。どうだろう?
あるいは、これだと修作の異常性が薄まってしまうかもしれないが。

おそらく薬物の下りは反復する「兄弟の憎悪」という主題を転調するために出したのだろうがつまらない。
いっそ割り切って、二人に徹底的にバトルをさせるのはどうか?密かに武器を蓄えていた修作、それに対して武器一つで応酬する正気。もちろん、修作は負ける。「黒冷水」はこの「弟が必ず負ける」お約束の面白さがあるから、ここは間違えたくない。

修作というのは低級な人格だが、それだけ自由でもある。たとえば彼が密かに暴力団事務所に忍び込んでいた、なんてのはどうか。そして拳銃を取り出す。しかし、跳弾を計算していない。自分の足を撃ってしまう。」

これまでは「黒冷水」のB級性を強める形で考えてきたが、もしA級性を強めるならどう変えられるだろうか。

まず作品の焦点として、「黒冷水」は兄弟の憎悪がある。これは変えられない。

ただ、この兄弟の憎悪の応酬が何かしらのカタルシスを迎えもせず、一種の「オルターエゴ」として生々しさを持つわけでもなく、「エロ動画漁り」という具体性にとどまるのが「黒冷水」の(素敵な)B級性である。

ただ、A級を目指すなら弟の動機が「エロ動画漁り」では困る。
「仮案:弟が部屋を漁ることは、何か別の心の働きの現れなのかもしれない。たとえば、彼が実は「養子」であるとか。自分自身のアイデンティティに対する不安が修作に、「探す」という行為を促しているのかもしれない。
この場合、修作の「エロ動画漁り」はあくまでも上辺の原因になる。
一見通俗的な主題を扱うように見えながら、人間の心と行動の解離を追った作品として、「黒冷水」はより深みを持(ってしまう)つかもしれない。」

最後に、「黒冷水」のメタフィクションはあまり面白くない。これは蛇足ではないか?
「徹底的に愚か者の弟VSナチュラルサイコパスの兄」―このバカバカしいB級感こそ「黒冷水」。それを現実世界に解体するのはいい幕引きではない。先に行った通り、弟をボコボコにして終わりでいいのではないか。
B級作品とは読者に「ああ、これで終わりかやれやれ」と思わせてこそB級である。意外性だの深みだのはこの際必要ないだろう。

【作家志望者として読む「黒冷水」】


「黒冷水」の文体は「コスパがいい」。風景描写がほとんどなく、人物の動きだけを追っている。
また、その追い方も通俗的なものだ。
ここでも修作が出てくるシーンが一番いい。彼の「兄に見つかるかもしれない恐怖」と「エロ動画やグラビアが見れる性的興奮」が混ざり、文章にスピード感が出ている。
一文一文は短く、極めて具体的だ。比喩はほとんどない。
三人称で書かれているが実質的には一人称視点である。ここで三人称視点にすると客観的なニュアンスが出てB級感が薄まってしまう。修作の兄に対する憎悪や性的な興奮についての話や……、こうしたものが絶えず入りこむおかげで文章はチープである。

一人称で書いてしまうとスリルが強くて、読者には苦しい。それが形だけでも三人称のおかげで、自分たちは安全な場所から修作の漁りを見物できるという、何ともまあ悪趣味な効果が発揮されている。

ふと思ったが、これはいわゆる「官能小説」に援用できる書き方かもしれない。安全な地点から、男女の営みを覗き見る……。
他者の生活を盗み見、それを自分の都合よく妄想するのは、常に快楽だ。たとえば好きな女子が風呂で体をどう洗うかについて。卑屈な顔つきの男がクラスメイトにいじめられる姿について。
自分が本来はいてはならない、あるいはいると危険を感じる場所に、安全なところから入りこむ。それは常に快楽をもたらす。

不愉快に感じた読者もいたと思う。ただ、小説の始まりとはここからそれほど離れてはいないはず。
本来は覗けない他者の心を覗き見、好き放題想像をしてみる―この通俗性が小説の根本には、やはりあると思うのだ。「黒冷水」は、そうした小説の面白さを、不備はありつつもよく捉えた小説だと思う。

(余談)
次は「走ル」についての記事か、平山瑞穂氏か鷺沢萠氏か……読みたい本が多い。顔が一つしかないのが惜しまれる。

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