最近読んだ本など
コーマック・マッカーシー「ザ・ロード」。「ポストアプカリプス」と言えば伝わるだろうか、世界終末後の物語である。この前紹介した飛浩隆氏の「グラン・ヴァカンス」も世界終末後を扱っていたが、向こうが青空なら本作は黒雲である。
父と息子がショッピングカートに乗って滅びた世界を進み続ける。
元々カート・ヴォネガット、村上春樹など良い意味で「純文学」らしくない作品が私は好きでこれも読んだ。しかも聖書がモチーフになっていると聞き期待したが、正直、思ったほどではなかった。
問題点は話が解りすぎることにある。息子は一種の「良心」―善の象徴で、この終末世界でも他人を助けようとする。その構図が見えすぎて少し面白さを削いだように思う。道中父親が息子をいたわるのも、感動的と呼べなくはないがやはり少し白ける。
最後、父親は死んでしまうも残された息子は善良な人々に拾われる。この結末にも強い説得力はない。
結局、「ポスト・アプカリポス」という設定が寓話のレベルに留まってしまったように見えるのが残念。設定はすごく面白いのだが(脂が乗っていた時期の大江健三郎を連想させる「洪水はわが魂に及び」など)。
ジョージ・ソーンダーズ「短くて恐ろしいフィルの時代」。
岸本佐知子氏が継続して訳している作家の作品で、なんと人間が一人も出てこない。筒井康隆氏の「虚構船団」を思い出す。
(余談になるが「虚構船団」で「ココココココココココ(略)」という文章が出てくるのだが、このコココココ(略)は鳥の鳴き声でもキングダムの王騎の笑い声でもない。ホッチキスの針が飛んでいるのである。コココココというこの文字列はよく見るとホッチキスの針の列に見えてこないだろうか。だから何だという話だが苦情は筆者ではなく筒井康隆に言ってほしい)
話を戻すと色んな図形が煽動者のフィルによって争う人種差別やナチズムを戯画化した作品だった(読んだのが前であやふやだが、確か)。これも設定だけ聞くと面白いのだが(筒井康隆の大抵の長編と同じように)、実際読むと社会問題の啓発漫画を読まされたように息苦しい感じがしてしまう。
結局「ザ・ロード」も本作も図式が見えすぎるのだ。もっと作品そのものの自由な運動があればなあ、設定はいいのに、と思いながら読んだ。
遠藤周作「侍」。川上未映子「夏物語」。どちらも長編だが説得力は低い。
順番に話すと、まず「侍」は支倉常長を扱った作品。彼は谷戸と呼ばれる寒村で辛抱に辛抱を重ねる暮らしをしている。対照的な存在として宣教師のベラスコ神父がいる。神父は激しい野心家で、キリスト教を日本に根付かせる(そして自分が出世する)ことを狙っている。
この二人の関係を軸に支倉常長の不遇の生涯とキリスト教への出会いを書く作品なのだがその軸が折れている。
元々筆者はこの主題的な意味の前作「沈黙」も感心できなかった。結末ありきで、そこまでの出来事をそれなりに重ねて読者を説得しようとする感じがどうにも嫌で(ただし途中の海の描写は良かった)。
本作も同じだ。読み終えた今もなぜ支倉常長がキリスト教を信じたのか筆者はわからない。
信仰と情緒的なものは本来別々のはず。突然の引用で申し訳ないが―親鸞の手紙の一節にある、人が大勢死んだのは「誠にいたわしい」「けれども生死の無常である道理は詳しく如来の説き置かれておられるところでありますから、いまさら驚かれることではありません」と書く下り。
この確かさを筆者は信仰の一つと思うがどうだろうか(注:これが直接親鸞の教義の信仰内容というわけではない)。
ただ「哀しみ」―本作だと支倉常長の(彼が帰る頃には日本はキリシタン禁制になり旧領を返還してもらえる約束も不意になった)生の「哀しみ」―これをそのまま信仰と混同するように作中では見えるのは良くないと思うのだ。
キリストはその死をもって私たちの罪を贖(償)った。これがキリスト教の信仰者にとって一つの揺るぎない「事実」にならないなら、その信仰はその時々の心の在りように惑い続けて終わるのではないか。本当の意味の「安心」―信仰によって得られる心の平安など手に入らないのではないか。
キリスト教は弱い人間を信じようとする強く美しい宗教だと筆者は思う。だが、遠藤周作という作家がその生においてキリスト教から本当の心の平安を得ていたとは思えない。
彼の小説は人間の良心とエゴの対立が―特に初期作品で―主題となる。
だが、信仰とは(ある点で)人間の良心もエゴも等しく超えるものではないだろうか。
でなければ、不安定な私たちの心がどうして信仰を保てるだろう。
ただ、作中自殺(切腹自殺)した人間の救済についての話がある。ここはとても良かった。
遠藤周作氏はいつも本当に自分がキリスト教を信じているのか疑っている気がする。その疑いと怯えが作品の力を弱めてしまうように見えるのだ。確かな信仰の支えの元でキリスト教の有限―たとえば信仰を持ちながら自殺した者や人を殺した者の救済について―突き詰めていく。そのとき、氏の作品はさらに大きな広がりを持てたのではないか。
私のような若者が長年の経験のある作家に言えることではないが。
「海と毒薬」や「死海のほとり」を書いた作者の作品にしては、あまりに海洋冒険歴史小説に信仰の問題が負けていて、つい詰問調になってしまった。
余談になるが、少し前に森鴎外の「食堂」の関係で大逆事件を調べていたとき、「死刑すべからく廃すべし」というノンフィクションを読んだ。これは大逆事件の死刑囚たちを担当した教誨師の田中一雄の手記に残された言葉である。彼は僧侶だがキリスト教の心得もあったという。
実はこの記事を書くまで筆者は彼がキリスト教信者だと誤って覚えていた。それほど彼の主張は(ある意味で)キリスト教的なのだ。かなり読み応えのあるいい本だったのでよければ読んでほしい。
今こそ世間が宗教の皮を被るばかりだが、本来の宗教とは現実の社会と切り結ぶだけの力があるはず。遠藤氏の作品に「個人の信仰」は出てくるがそれが社会との関係として立ち現れてくる場面は少ない。本書は氏が扱わなかった主題を考える上でも役に立つ本だと思う。
(追記)感情を持たずに信仰を持てと書いたわけではない。信仰に伴って深い感情の現れがあるのは―どの宗教であれ―間違っていないはず。ただ、私たちのこの生と結びついた感情を即座に信仰と結びつける性急さが引っかかったのだ。感情から信じたものは同時に感情から棄ててしまうものではないか?私の言葉が足らず申し訳ない。
川上未映子「夏物語」は「乳と卵」の続編。
川上氏の小説を読んでいて、いつも少女が書いた小説だと思う。世界に疑問と違和感と憤りを抱えた少女の書いた小説だと。だから、作品に粗があっても―実際かなり多いのだけど―あまり批判をしたいと思わない。
第一部は「乳と卵」のリメイクであり、ここは筆者は「乳と卵」のシャープな感じの方が好きだった。第二部は夏子が人工授精で子どもを授かろうとする。これから読む人のため一つ言うと反出生主義の描写は粗い。善百合子―反出生主義者と人工授精とはいえ子どもを欲する主人公の夏子がこれほどたやすくカタルシスに至るのはどうだろう。ここはむしろ作者が意志的にカタルシスを遠ざけるべきではなかったか。
小説は詩の後始末―誰だかの言葉である。だから、作家は詩神にはとっとと愛想を尽かされたほうがいい。漱石も三島も(小説の領域では)詩の神に見捨てられてからの方が面白い。川上氏はまだまだ詩の神に愛されているようである。早く愛想を尽かされればいいと思う。
素九鬼子「旅の重さ」木地雅映子「氷の海のガレオン」。どちらも穂村弘氏の紹介から。「旅の重さ」は文体の異様なテンションと人間観察の上手さが記憶に残っている。
「氷の海のガレオン」は穂村氏の紹介された書き出しにつられて読んだ。
中脇初枝「魚のように」「花盗人」。こちらの記事が非常に良い解説をしているので代わりに読んでほしい。
どれも少女たちの青春小説(ざっくりまとめると)なのだが、筆者は読んでいると、いてはいけない場所に居座っているような気まずさを感じてしまう。私は花も盛りの二十一歳、まだ青春の対象圏内のはずなのに。
同じ人間ではなく別の生物の生態目録を読まされたような気分になるのだ。
一つそれらしいことを言わせてもらえば、たとえばディケンズ・宮崎駿作品に流れる物語的な時間、観客と作者が物語を挟んで共に楽しむ親しみやすい時間ではなく、一人の人間の心臓の鼓動が耳のそばで鳴るような、たった一つきりの命の、生の時間が三作品には共通して流れていた。
星新一「ネコ」。もし私やあなたがこの世界の真実を知りたいなら陰謀論なんかではなく、人気のない裏路地でネコの話を聞いたほうがいい。彼らはアメリカ大統領のお尻のほくろの数さえ知っているのだから。
「中国・アメリカ謎SF」の「猫が夜中に集まる理由」王諾諾も良かった。猫族は我ら愚かな人間の知らないところで世界を支えている。メキシコのインディオの伝承のように(彼らが先祖代々伝えられた儀式を行わないと、空の運行は停止し、昼なら昼、夜なら夜のまま動かなくなる。今日の青空が見られるのも、彼らが怠らず儀式を行っている証拠である)。
他にはshakespaceの「マーおばさん」が記憶に残っている。
どちらも娯楽作品として面白かった。本気のSFは二次方程式で危うく首を吊りかけた筆者には難しい。
「マーおばさん」のあらすじ:最新鋭のコンピューターの正体は、誰でも一度は踏んだことのある例のアレだった……黒くて小さい。
また何か読んだら書こうと思う。ここまで読んでくれてありがとう。