現代日本文学とかを読む③古井由吉「われもまた天に」ほか一冊
古井由吉「われもまた天に」。三作の短編と遺稿からなる短編集だが、今回は三作の短編のみ扱いたい。理由は後述する。
〈春の雛〉
始まりの文章は「二月四日は立春にあたった。」二十四節気の一つで、暦の上では春ということになる。
ここから話は時間と空間を越え、自由に流れ出すいつもの古井氏の作風になる。一応大枠だけ拾うと、
1.入院→2.退院→3.救急車の音についての随想→4.とある老人の話→5.旅の話→6.無為の話→7.雛の話→8.能面の話→9.夜道を女性とすれ違う話→10.再び現在に戻る
これだけの話が33ページに詰められている。
このため話一つ一つをとても追えないから、面白かったところをそれぞれ引用したい。
◯人は一夜の内にも
◯救急車の音を聞いて
◯新雪の道で女性とすれ違う
〈われもまた天に〉
始まりの文章は「今年は四月の二十七日から五月の六日まで、改元の祝いだか、休日と休日の間をつないで十日続きの連休となった。」
話の大枠を拾うと、
1.五月の雹の話→2.漢方の胎毒の話→3.天と心の話(タイトルの由来)→4.禍々しいニュースの話→5.道に迷う話→6.歯医者の話→7.再び天の話→8.青年期の危うい出来事(土砂崩れの山を歩いた)についての話→9.は8.の二十年後の若者との登山の話→10.再び天の話→11.死者と生者の入れ代わりについての話
タイトルにもある「天」とはキリスト教やイスラム教の唯一神のおわします天ではなく、中国医学の
この文から。この後に古井氏の疑念が書き綴られていく。
「天が心の内にあるとは(略)生きる者の心の寸法に合わない」
「まことの中和ならば、生まれてくる必要はあるのか」
「生まれた後には天が心の内に在って五事を主宰するとしたら、人の判断や行為に間違いはないはずである」
「人が死ぬ時には、その心は天に受け容れられて五行の運行とひとつになるという、復りがなくてはいけない」
かなり乱暴な要約で済まないが、人はこうして天を疑い、天などあるわけもないと嘯き、しかしやはり「(略)危所を天にまかせて渡り、後ですっかり忘れているのかも知れない。」
最後の一文。
死んでいたかもしれない人生の危所を「私」が振り返る内に「(略)とうに亡くなった縁者と、まだ生きていて寝床の中から物を思う私と、死者と生者とが入れ替わったかのようなのに驚いた。」―この死と生の境目の不在の提示に筆者は強く引き込まれる。
遺稿を扱わなかった理由も、古井氏の作品は最後の一段落や一文がこのように大きなうねりを生み出すため未完成な遺稿を読みたくなかったことにある。
(追記)その他以下の一文。
恐らくどこにでもある都市の風景が、古井氏の文体を通過すると死者というか神というか、何者かの眼差しによって異化される。過去作にもあった描写だが、何度読んでも私はここが好きだ。
今の世界から私たちは(本当は)疎外されている。金銭を利用できる賢い家畜のように扱われる人間たち。
〈雨上がりの出立〉
始まりの文章は「長い梅雨となった。」
話の大枠を拾うと、
1.体に力が入らない話→2.次兄が亡くなった話→3.幼少期、戦中及び終戦直後の食糧事情を巡る話→4.母親の葬儀の話→5.幼少期の通夜の話→6.通夜の寿司の話→7.父親の死に際の話→8.近頃の年寄りの話→9.「詩経」の話→10.夏の風物の話→11.再び現在の話
前二作に比べると構成がやや散漫な気がするが、しかし最後の、
老いと若さが夢うつつの境で混ざり合う描写はきれいだ。
岡本綺堂「半七捕物帳/初手柄篇」。
タイトルを順番に並べると以下の通り。
お文の魂
石灯籠
熊の死骸
冬の金魚
津の国屋
広重と河獺
吉田茂首相が愛読書として挙げたところ、「首相が娯楽小説を読むのか」と馬鹿にされた―そんな逸話もある本作だが、いや、決して単なる娯楽小説ではない。
まずタイトルから分かる通り本作はシリーズもので、半七という切れ者の男が一見怪談にしか見えない事件の裏で手を引く悪人たちの思惑を看破した江戸時代の武勇伝を「わたし」が聞き役になって聞く、という一連の流れがある。
いわば歴史小説+推理小説ということになるのだが、すでにここで問題が起きている。肝心の推理がガタガタなのだ。
たとえば「津の国屋」。なんとラスト七ページで新顔の黒幕がぞろぞろ出てくる。推理もへったくれもない。
他には「広重と河獺」。短編を二つ組み合わせたものだが、それぞれこんな話。
広重:旗本屋敷の屋根の上に三、四歳の女の子の死体があったのはなぜか?
河獺:四十両の金貨を持っていた十右衛門の金貨を奪ったのは何者か?また、彼の顔は刃物らしきもので切り刻まれていたが、それは彼の囲っている女性の情夫の仕業か?
広重の答え:鷲が捕まえてたまたま屋根の上に落っことしていった
河獺の答え:河獺が爪で引っ掻いた拍子に十右衛門の金貨を入れた財布の紐が首に絡まりそのまま持っていってしまった
一応最初の二作は割とよくできているが、次の二作のタイトル、熊の死骸と冬の金魚に関しては別に話のキーアイテムでも何でもない。
ということでミステリーとしては穴だらけの本作だが、真価は歴史小説としての方面にある。たとえば「石灯籠」のこの下り。
あるいは「津の国屋」の半七老人の述懐、
これは谷崎潤一郎「刺青」の冒頭
を連想させる。あるいは泉鏡花「三尺角」の
この一文や永井荷風の「濹東綺譚」を。
単なる懐古趣味といえばそうかもしれない。だが明治の、立身出世の原理が世を覆い進歩へ脇目も振らず駆けていくその様は、今の私たちの置かれている状況とよく似ていないか。死について考える暇もなければ生のつかの間をたゆたう余裕もない。真昼の幽霊のようなスーツ姿の人々が行きどころなく走っていく。
今、彼らの言葉は先へ進むことしか考えることのない時代と人々への痛烈な批判として読めると思う。ぜひ。