フィリップ・ロス「プロット・アゲンスト・アメリカ」

あらすじ:第二次大戦時、元飛行士にして反ユダヤ主義者のリンドバーグが大統領になっていたら歴史はどうなっていたか、ユダヤ人一家の子どもの目線から語る小説。

全体では531ページあるが、様々な補足資料(または訳者の親切心)が加わるので本文は480ページほど。
全九章を使い、リンドバーグが大統領の座に就いてからアメリカに潜在的にあったユダヤ人への憎悪が露わになっていく過程を子どもの目から捉えていく。 

この記事では、長い大河小説とも、現代風刺小説とも、または一種の私小説とも取れる本作の内容を、一章ごとに区切って扱いたい。
要旨が捉えられるよう、各章に
◯簡易なあらすじ
◯筋を追ったあらすじ
をそれぞれ書く。もし大枠だけ知りたい方は拾って読んでほしい。


第一章:一九四〇年六月―一九四〇年十月 リンドバーグに一票か、戦争に一票か

◯簡単なあらすじ:空の英雄リンドバーグがアメリカ各地で指示を集め、ユダヤ人のフィリップ一家は―他の多くのユダヤ人家族と同様に―恐怖を覚える。

◯詳しいあらすじ:今年で九歳になるフィリップ・ロスは兄のサンディを含めた四人家族の末っ子として、ユダヤ人コミュニティのなかで幸せに暮らしていた。
ところが、「ロングアイランドからパリまでを(略)単独無着陸飛行した」英雄リンドバーグが政治の世界に足を伸ばすにつれ、彼らの行く先には暗い影が伸びていく。彼はナチス・ドイツへの支持を隠さず、アドルフ・ヒトラーを偉大な人物だと讃える。
同時にこのころ、ユニオンという町の副支店長への昇進がフィリップの父に打診されるが、ユダヤ人コミュニティを離れキリスト教徒の間で暮らす困難と天秤にかけた結果昇進を断る。
リンドバーグはユダヤ人差別を正当化する演説を行い(史実では一九四一年)、さらに「飛行服のまま」投票会場に駆けつける自己演出で有権者に魅力的な印象を与えるのに成功する。
その後もリンドバーグはアメリカ各地に飛行機による電撃訪問を続け、アメリカの孤立主義を訴え、「リンドバーグ対戦争(ローズベルト)」という単純な対立構図を軸足に、人気において現職大統領のフランクリン・ローズヴェルトを上回っていく。
と同時にラビ・ベンゲルズドーフ―ユダヤ教のラビにして人間的な中身のない宗教者―がリンドバーグ支持の演説を行い、彼の当選をますます確実にする。
フィリップは趣味で集めている切手の、国立公園の景色の全てにナチス・ドイツの「黒い鉤十字が印刷されてい」る悪夢を見る。

第二章:一九四〇年十一月―一九四一年六月 大口叩きのユダヤ人

◯簡単なあらすじ:フィリップ一家はワシントン観光に出かけるも、リンドバーグ政権下で吹き上がるユダヤ人差別によって台無しにされる。

◯詳しいあらすじ:フィリップの従兄に当たるアルヴィンは若者らしく、資本主義体制への激烈な批判をフィリップの父に繰り返すが相手にはされない。だが彼の若いエネルギーは収まらず、ついにナチス・ドイツと闘いに向かう。
リンドバーグは「一般投票の五十七パーセントを獲得し」選挙に圧勝する。彼の孤立主義によってアメリカが海の向こうの戦争に巻き込まれなくなったことを―ユダヤ人は除いて―多くのアメリカ国民が喜ぶ。
フィリップたちはワシントン観光に出かけるが、あからさまな差別―聞こえる声で差別語を吐かれたり(「大口叩きのユダヤ人ラウドマウス・ジュー」)予約していたホテルの部屋を締め出されたり―に遭い、楽しい経験にはならない。

第三章:一九四一年六月―一九四一年十二月 キリスト教徒のあとについて

◯簡単なあらすじ:反抗期を迎えたフィリップの兄のサンディは、父とリンドバーグ支持かルーズベルト支持かで対立する。

◯詳しいあらすじ:リンドバーグは再びナチス・ドイツを讃える声明を出す。
一方フィリップの兄、サンディはリンドバーグの設置した「〈庶民団〉」―「家から何百キロも離れた農家で(略)日雇い作業員として八週間働」く―に参加するかどうかで父(反対派)とエヴリン叔母さん(賛成派)は激突する。
エヴリン叔母さん―この性的魅力をふんだんに有する女性は、元々は左翼的な活動をしていたにも関わらずあっさりと保守派(例えば女性参政権反対)のラビ・ベンゲルズドーフの下に寝返り愛人となる。
ナチス・ドイツと闘ったアルヴィンは「左脚の膝から下を失」うことになる。
〈庶民団〉から帰ってきたサンディは体つきが大人っぽくなり、元の絵を描くのが趣味だった少年の面影はなく、タバコ栽培についての講釈を垂れるようになる。
彼は母親とアルヴィンのことで衝突する。アルヴィンの左足の喪失はローズヴェルト大統領と彼を選んだ父のせいだと糾弾するサンディに対し、母親は「どなりつけ」ることしかできない。
フィリップの家にラビ・ベンゲルズドーフが訪れ、堪忍袋の緒が切れた父と衝突する。彼の一見正しい穏当主義は実際、目の前の現実から巧みに目を逸らすペテンでしかない。
フィリップはアールというふくよかな友人と―動機は漠然としたスリル―「キリスト教徒のあとについて」の尾行を繰り返す。

第四章:一九四二年一月―一九四二年二月 切株

◯簡単なあらすじ:兄と父の諍いの原因となったアルヴィンの左足の不在。彼は苦しみつつも立ち直るかに見えるが……

◯詳しいあらすじ:除隊したアルヴィンは身体喪失に伴う深い怒りに苛まれていた。彼の喪失部位はまさに「切株」―「のっぺらぼうの動物の間延びした頭部という感じの何ものか」と呼ぶべきものだった。
フィリップの子どもらしい地下室への恐怖が語られる一方で、下の階に住む不幸なウィッシュナウ一家のことが語られる。
やがてアルヴィンは内的な誇りを取り戻していくが、金銭崇拝者のモンティ伯父に徹底した侮辱を受け―伯父にアルヴィンは片足を失おうが両足を失おうが愚かな行為を繰り返す不出来な甥に過ぎなかったのだろう―その光景にフィリップは(子どもの柔らかな感受性から)「こらえ切れずに泣」く。

第五章:一九四二年三月―一九四二年六月 いままで一度も

◯簡単なあらすじ:強い性的魅力の持ち主であるエヴリン叔母さんと兄のサンディはフィリップ一家も含めた他のユダヤ人を馬鹿にするようになる。

◯詳しいあらすじ:アルヴィンは幻肢痛や「切株」の痛みに苦しみ、兄のサンディは徐々にリンドバーグ信者に変わっていく。
毒舌家の論客ウィンチェルは以前からリンドバーグ批判を続けていたが、人々はその「陰鬱な予言より、ラビ・ベンゲルズドーフの楽天的な保証」を信じるようになっていく。
アルヴィンは賭け狂いになり、また―おそらくは小さなプライドから―絶対に松葉杖を使わなかった。
FBIがフィリップ一家に接触してくる。またミスタ・ウィッシュナウが自殺する。アルヴィンはFBIに嗅ぎ回られるのを嫌った資本家ロンギー・ズウィルマンから煙たがれ、フィラデルフィアで職を得る。
ユダヤ人差別はますます深刻さを深めていくが、リンドバーグは直接言及せず、アメリカと民主主義の保護役として自己演出していく。
魅力的なエヴリン叔母はラビ・ベンゲルズドーフの愛人となったことで社会的ステータスを何段階も飛ばして上昇できたことに酔い、ついに父と表向きはサンディがホワイトハウスの公式晩餐会に行くかどうかで、実際はお互いの立場の違い―家族を持ちユダヤ人コミュニティに自足できるフィリップの父と刺激を求めより高いステータスに飢えた彼女との―から衝突する。兄のサンディは叔母の立場に同化し、家族を「ゲットーのユダヤ人」と侮辱する。
ユダヤ人のターシュウェル一家はカナダへの亡命を決意する。
フィリップは偽造した孤児院の許可状を使い大人向けの戦記映画を見、ミスタ・ターシュウェルに捕まる。彼は時代へのやり場のない怒りをフィリップにぶつけてしまう。
その後フィリップは今のアメリカで「危険にさらされている者など一人もいないのだ―私たち以外は」―こうした深い疎外の感覚に襲われる。

第六章:一九四二年五月―一九四二年六月 あの連中の国

◯簡単なあらすじ:リンドバーグの制定した理不尽な法律がフィリップ一家を―土地に根ざしたユダヤ人コミュニティを―不可逆的に破壊する。

◯詳しいあらすじ:リンドバーグが制定したホームステッド法42条に従い、フィリップ一家はケンタッキー州ダンヴィルへの移住―事実上の左遷―を強制される。かつてユニオンへの昇進を持ちかけられた頃が夢のようだ。
フィリップはこの移住を撤回してもらうため、一人エヴリン叔母に会いに行く。彼女は社会的ステータスの急激な上昇に安酒のそれのように酔いしれ、正常な判断力や理性を失っている。彼女はフィリップの後ろに大人の影を感じる。それは誤解なのだが彼女は信じない―おそらく彼女は内心フィリップ一家を見下しているだろう。一家は彼女が背後に振り捨てたユダヤ人という土着のアイデンティティであり惨めな存在そのものだったから―。
フィリップは代わりにセルドン―哀れなウィッシュナウ家の一人息子―が行くのは駄目かと持ちかけるが、思慮の足りないこの叔母はフィリップ一家と「共に」今では母子家庭のウィッシュナウ一家がケンタッキー行きとなることを決めてしまう(そうする権力が彼女にはあったのだ、この場面は醜い)。
フィリップはセルドンの衣服を盗むようになる(自己のアイデンティティから逃れるためだろうか、しかしその対象が同じユダヤ人のフィリップであることは滑稽であり同時に悲惨である)。
兄と父母の対立がますます激しくなる家から「孤児になりたかった」フィリップはセルドンの衣服を身に着け、切手コレクションとペーパーナイフ、ミニチュアのマスケット銃を抱え外に飛び出し、馬を驚かせて蹴られる。このとき、フィリップの切手コレクションは「跡形もなく消えてしま」う。

第七章:一九四二年六月―一九四二年十月 ウィンチェル暴動

◯簡単なあらすじ:フィリップの父は会社を辞める。職を追われた毒舌家の論客にして民主主義の信奉者のウィンチェルは大統領立候補者の一人になるも暗殺される。

◯詳しいあらすじ:フィリップの父は会社を辞める。
セルドンは母と二人で、ケンタッキーでただ一人のユダヤ人の子どもとして暮らすことになる。
毒舌家の論客ウィンチェルはラジオの計画を打ち切られる。コラムも載せてはもらえない。
ところが彼は大統領に立候補する。
FBIは再びフィリップ一家を隠密調査する。サンディはリンドバーグ信者から、女の子好きの他愛もない少年に戻る。
ウィンチェルは暴力的な脅しにも屈せず選挙活動を続けるが、ついに暗殺される。

第八章:一九四二年十月 暗い日々

◯簡単なあらすじ:飛行機ごとその姿を消したリンドバーグは、ナチス・ドイツの操り人形だった。

◯詳しいあらすじ:帰ってきたアルヴィンとフィリップの父は死物狂いの大乱闘を行い、お互い血まみれになる。ユダヤ人虐殺(ポグロム)騒ぎが起こるが誤報で、半グレのユダヤ系自警団員が三人殺されただけ、幸い大虐殺ではなかった。
リンドバーグは突如として行方をくらまし、彼の背後でナチス・ドイツが暗躍していたこと、リンドバーグは目立つ操り人形だったことが、彼の息子がナチス・ドイツに人質にされていたという―まるで陰謀論のような―事実とともに明かされる。

第九章:一九四二年十月 終わらない恐怖

◯簡単なあらすじ:リンドバーグが去った後もフィリップ一家に代表される、アメリカ在住のユダヤ人たちに残された傷は癒えない。死者は還ってこず、喪われたアメリカや民主主義への信頼感も二度と元には戻らない。

◯詳しいあらすじ:セルドンの母親は暴徒に殺される。
エヴリン叔母は後ろ盾をすべて失い、フィリップ一家に助けを求めるが母親は激しく罵り拒絶する。父親とサンディは長い道のりを行き―特に父親は死地をさまようことになる―身寄りのないセルドンをフィリップ家に迎え入れる。

まとめ

本作の出版年は2004年だが、20年経った現在ますますリアリティを増しているのは悲しいことだ。
たとえばナチス・ドイツの選挙介入の下りはトランプ大統領のロシア疑惑を先取りしたようであり、ウィンチェルが殺される下りは安倍晋三首相の銃殺事件を思い出させる。警察がユダヤ人へのヘイト行為に動かない光景はブラック・ライブズ・マターの発端となった白人警官のリンチを思い起こさせる。
そして本作の出版時より事態がさらに悪化し、このフィクションと現実の距離がいっそう近づいたことは間違いない。 
(オーウェルの「一九八四年」といいアトウッドの「侍女の物語」といい、的中してほしくない小説ばかりがリアリティを増していく)

大衆

人々はにわかに活気づいて立ち上がり、「リンディ(※リンドバーグの愛称)!リンディ!リンディ!」と延々三十分にわたって(略)叫び続けた。

p24

リンドバーグのような飛行士―飛行の専門技術の持ち主が、だからといって政治分野でも同様の働きができるとは限らないことは、考えればきっと誰にでも分かる。
(日本でもタレント政治家は後を絶たない。有権者が政治をきちんと考えられないこの国の象徴的な、また恥ずべき現象である。擁立する党に最大の責任がある)
(ただ少し気持ちはわかるが。筆者も「鎌倉殿の13人」を楽しく見ていた、現実の政治もあんな芝居風なら確かに楽しそうだ。山本太郎氏が人気なのもあの芝居っ気によるのだろう、だが現実は現実である、芝居を欲するなら三谷幸喜氏に頼むべきだ)

これは森本あんり氏の著作「反知性主義」に、こんな話があった。
スタインベックの「怒りの葡萄」にも登場する伝導説教師がかつてのアメリカで大きな人気を博していた。ときに名物説教師が聖書中の単語であるメソポタミアを「メソポタミア!」と叫ぶだけで人々は歓喜し、気絶する者まで表れたという。
だがよく考えてほしい。メソポタミアが何をしたというのだ。これが受験生向けの四大文明講義だったわけでもないだろう(実際学習塾には独特の「ノリ」がある、気持ち悪いといえば気持ち悪い)。
つまり前後の文脈や宗教的な深さから感激したのではなく、彼らはただ「ノリと勢い」で歓喜し、気絶までしていたのである。

あるいはウンチクめくが、ゴヤの「鰯の埋葬」を思い出す。
この奇妙なタイトルは、何でもスペイン国王カルロス三世が民衆にイワシを届けさせたところ届くころには腐っており、王は一転して彼らにイワシを埋めるように指示した―それを「鰯の埋葬」と、おそらくは無能な王への当てつけもあって―呼んで始まった祭りの名前である。
分かるように、普段ヒエラルキーの上にある王を笑い者にする、カーニバル的要素の強い祭である。
絵のなかで人々は楽しげに踊るが、背景の旗には卑しく笑う男の顔が描かれている。彼らのヒエラルキーを転倒させる笑いが冷えた暴力へたやすく裏返るのを予知する、〈黒い絵〉につながる陰惨な絵画である。

民衆・大衆は常に潜在的な不満を抱えている。そしてそれは民主主義に不可欠な―ゼロか百か、「リンドバーグか戦争か」ではなく―地道な合意を積み重ねていく過程を壊してしまう。偉大なものや立派なものに、それが後ろの汚物を覆うために用意されたとは考えず飛びついてしまう。
大きな熱に浮かされ中心を欠いた人々、自分より大きく見える存在にたやすく自分の中身を明け渡してしまう人々はいつの時代にもいるし、私もその一人である。
そうした空っぽな人々の怖さを、村上春樹氏は短編「沈黙」「ドーナツ化」長編「ねじまき鳥クロニクル」を通して書いた。

劇場型政治

本作でリンドバーグが取った手法は典型的な劇場型政治だ。
対立候補の多様な主義主張を一つに押し込め、自身の主義主張も一つに留める。単純な善と悪の対立構図を作り、多様な議論の結果の支持ではなく、大衆の感情的なフラストレーションの解放による支持を勝ち取る。
日本では小泉純一郎首相が、アメリカではトランプ大統領がそれぞれ得意とした手法だ。


これに合わせ少し話したい。
ジャック・デリダという思想家についてである。今では読む人も少なく、知っていても難解な論を述べるだけの、と感じた人が少なくないと思う。
彼は「脱構築」という概念で一躍名を馳せたが、これも理解が難しい。ただここでどうしても説明したい。筆者も完璧に理解できていないが、頑張るので聞いてほしい。

まず中心にあるのが、二項対立とは上位概念にとって都合がいいという主張である。何やらわからないので以下説明する。
例えばブッシュ大統領の「悪の枢軸」や安倍晋三首相の「悪夢の民主党政権」という言葉をテレビで聞くたび、それほど悪いなら一々断る必要もないと思った方は多いはずだ。なぜ彼らが繰り返し悪悪悪と繰り返すのか。そうすることで自らを善にしたいのだ。
たとえば正義と悪なら、誰でも正義でありたい。善と悪なら善で、美醜なら美、幸福と不幸なら幸福でありたい。二項対立とは片方を劣性と見なし、片方の優越性を明かす仕組みをその構造自体が持つ(そしてその間の無数の差異を暴力的に無視する)。

これは劇場型政治と手を組みやすい。奴らは醜い、愚かだ、悪だ、とレッテルを貼れば、何もせずとも自らは善のレッテルを貼られる。
善と悪は始めから無条件にあるのではない。善を自称する人々が悪のレッテルを特定の人々に貼り付け、善と悪という対立の構図を―本来はなにもないところに―強引に作り出す。

たとえば(筆者の理解は不十分であるが)フェミニズム思想の領域で、男性と競ってはいけないと話を聞いたことがある。
三歩下がれというのではなく、「男/女」という対立を生み出す土俵で闘う限り、いくら関取を投げ飛ばしても次の関取がやってくる。男と女を並べ、比べる構図そのものと闘わなければいけない、そうした意味だったかと思う。
(この前テレビで絵本作家の五味太郎さんが「男女同権」という言葉はおかしいとおっしゃっていたのを覚えている。そもそも等しいのだからわざわざそう言う必要はないと)

先走ってしまったが、そう、こうした対立を生み出す構造すべてから脱けだすこと―それが「脱構築」だった。
(ジャック・デリダ自身アルジェリアの生まれであり、確か当時のアルジェリアはフランスからの独立を「阻止する」武装組織が力を持ち、情勢は混乱を極めていたのではなかったか。
またデリダは同時にユダヤ人家庭の生まれであり、こうした複雑なアイデンティティの持ち主が単純な構造から距離を取る思想を持ったのも分かる気がする)

ラビ・ベンゲルズドーフ

(発言者はフィリップの父)
あの偉そうな野郎、すべて(すべてに強調点)を知ってるんだ―すべて以外、何も知らないけどな

p50.

ユダヤ人のラビでありながらリンドバーグを支持し、三十歳も年の離れたエヴリン叔母と婚約するベンゲルズドーフは、本作でもとりわけ醜い存在だ。
だが今の日本でも、雇われ外国人―アメリカ人に「日本国憲法は押し付け憲法なんです」「日本に対して本当に申し訳ない」―こうした言葉を吐かせる粗悪な本を読んだことがある。
敵対する人々に、金銭と引き換えに都合のいい発言をさせる。わざとモラルに反することを言わせたり、マジョリティや権力側に都合のいい言葉を吐かせ、人々の正常な判断力を奪う。

資料

先に行った通り、本作の最後には史実の確認に役立つ資料が置かれている。
そこではローズベルトは戦中一貫して大統領であり続け、リンドバーグは戦時中右翼的な発言をした一介のパイロットに過ぎない。

あれほど魅力的に書かれていたウォルター・ウィンチェル―毒舌家にして女好き、民主主義とアメリカの体現者―は戦後極右化し、「赤狩り」で知られるジョゼフ・マッカーシー議員を支持、「五〇年代半ばにはほとんど忘れ去られ七二年の葬儀には娘一人以外誰も来なかった。」

リンドバーグの演説は本文の通り、他国―特にイギリス人とユダヤ人―を敵視し、ローズべルトがアメリカを戦争に巻き込んだと非難する。
人種主義、民族主義は私たちの国の根本にもある。明治政府は、江戸時代には何藩の誰々、何村の誰々と細分化されていたアイデンティティを「日本人」というアイデンティティに統合することで近代国家を形成した。しかしそれが現在まで続く排外主義的な言説を生み出している。
国境線もこの国とロシアや中国、韓国との争いの火種となった。逆にアフリカを始めとする旧植民地では民族分布を無視した人為的な国境が紛争を起こしている。
排外的な民族主義という、偽りのアイデンティティから私たちはいつ解放されるのだろう。

訳者あとがき

フィリップ・ロスの各作品について詳しく解説しており、読み応えがある。

本作のタイトルはウィーラー(ウォルター・ウィンチェルと同じく極右化していった政治家)を非難した一九四六年の政治パンプレットが由来であり、「そこに小説の「筋書きプロット」の意味も重ねられているし、また、反ユダヤ主義者がでっち上げた「ユダヤ人の反米陰謀」も念頭に置いているだろう」とのこと。
本文ではウォルター・ウィンチェルの

ヒトラー信者によるアメリカに対する陰謀プロット・アゲンスト・アメリカは、断固阻止されねばなりません(略)

p352.

に直接出てくる。

以下、印象に残った箇所をいくつか引用して終わりたい。

p164.フィリップの不思議な論理

(略)イエス・キリスト、彼ら(※キリスト教徒)の論法によればすべてであって、私(ユダヤ教徒)の論法によればすべてを滅茶苦茶にした張本人。なぜならキリストがいなければキリスト教徒もいなかったのであり、キリスト教徒がいなければユダヤ人迫害もなく、ユダヤ人迫害がなければヒトラーもなく、ヒトラーもなければリンドバーグが大統領となることもなく、リンドバーグが大統領でなければ……

大岡昇平氏の作品に「(略)八月十一日から十四日まで四日間に、無意味に死んだ人達の霊にかけても、天皇の存在は有害である」という言葉があるが、それを思い出す。
キリストも天皇も所詮マジョリティの救い主、マジョリティの神に過ぎない。本当にそれを信じ愛した人々には酷だが。

p243.リンドバーグのあいまいさ

リンドバーグは何も言わない。ナチスとの関与もローズベルトら良識的左翼からの批判にも触れない。そうすることで現実をあいまい化し、おぞましい事実から人々の目を逸らそうとする。今の自民党の国会答弁のように。

p299.動脈と静脈

ユダヤ人であることは、そしてアメリカ人であることもそうだったが、(略)動脈や静脈があるのと同じく根本的なことであって、(略)変えたいとか否定したいとかいった欲求を表わしはしなかった。

他作品との関連

本来ならユダヤ文学との関連から話をするべきだろうが筆者には話せる知識がまるでない。
今、柴田氏の魂をここに降霊術で呼び寄せられたらどんなにいいかと思うのだけど……

かろうじて、岸本佐知子氏の「コドモノセカイ」という、幼年期を扱った海外小説を集めたアンソロジーに、エトガル・ケレット―イスラエル人の作家の「靴」という短編があったのを覚えている。
ユダヤ人のホロコーストを扱った短編だが、驚くほど乾いた話だった。
記憶違いの気もするが、「靴」はアウシュヴィッツの積み重ねられたユダヤ人の死者の靴と同時に、主人公の少年の欲しがる新しいスニーカーでもあった。子どもは過去の悲劇より新しいおしゃれな靴を求める。歴史の記憶は否応なく風化し、無害なおとぎ話に化けていく。


その他、戦争を子どもの目から見る点でギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」を連想した。
それとフィリップがセルドンの服を着て外に飛び出すも馬に蹴られて終わる―戦争に対する子どもの無力を書いたエピソードではティム・オブライエンの「ニュークリア・エイジ」で核戦争の恐怖から鉛筆(鉛が放射能を防ぐ連想から)のバリケードを築いた主人公が父親に鉛筆には鉛が入っていないと知らされるエピソードを思い出した。
また、ナチス・ドイツを扱った歴史改変ものでカート・ヴォネガットの「母なる夜」など。

また、これはアメリカ文学研究者の諏訪部浩一氏の話だが、結局リンドバーグが大統領になってもローズベルトが大統領になってもその後の歴史は変わらないところに、作者の強い皮肉を読めるかもしれない。
だが、少なくともフィリップ一家の暮らしは大きな傷を負う。大きな歴史はやがて一つに統合されるにせよ、文字となって残らない無数の小さな歴史はそこで壊されていく。




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