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星奏なつめ「チョコレート・コンフュージョン」



雑談―超どうでもいい―

いきなり文句だが、なぜ日本の娯楽は―小説であれ映画であれ―すぐ人情話に流れてしまうのか?
スッカスカの勧善懲悪譚をアホらしい銃撃戦で埋める海の向こうの映画もそれはもうウンザリだが、こちらもこちらで飽き飽きである。

さらにどうでもいい話をすると、純文学(そんなものがこの世に存在するとしてだが)に主人公として書けないものが三つあるのは皆さんご存知だろうか。
①労働者
②子ども
③群衆
これが書けない。
①は井伊直之氏の諸作品や中上健次の「岬」「枯木灘」、最近なら村田沙耶香氏の「コンビニ人間」があるし、
②もそこそこ(「ハックルベリー・フィンの冒険」やら「蠅の王」やら)ある。
③も最近文庫化された「百年の孤独」や「同時代ゲーム」などないことはない。
しかし、少数勢力に留まるのは否めない。

なぜ書けないか。結論から言うと、そこに厳密な意味での心理が存在しないせいである。

筆者だと家事が①に当たる。
皿を食器洗いに並べて(よく箸が刺さる)、乾いた皿はしまい、紙パックを三辺切って…… 
他人の生活風景など聞かされても楽しくないから止めるが、この間私はほぼ何も考えていない(強いて言えば南無阿弥陀仏と唱えている)。

②についても私のケースだが、筆者は子どもの頃消しゴムを鼻に詰め込むのがマイブームだった。それは人体の神秘に対する敢然たる暴虐であり〈母なるもの〉に対する擬似的な去勢行為に他ならなかった……
フロイト博士にはニシキヘビの楽園で眠ってもらうとして、ここに一体どんな心理があるのか、むしろ聞いてみたい。

③については言うまでもない。たとえば学校内での犯罪行為(いじめ)をしている人々はまさしく幼い「群衆」であって、そこに厳密な心理は存在しない。数多くの知識人の安眠を妨げてきた人間の暗部である。 

(追記)④本当に貧乏な人間も書けない。「貧乏暇なし」と言うように、そこにあるのは生活の果てしない堆積でしかないから(①と同じ)。

だから小説家はここで嘘をつく。
彼らの書く労働者と貧乏人は春の野原で熊と転がりっこする詩人のように感情豊かだし、子どもは泣かず聡明で鼻に消しゴムを詰めず、群衆心理は書かない(どうやら哲学者の仕事らしい)。
だからと言って、小説が嘘だの何だの今さらしゃらくさいのであって(そんなにリアルが好きなら寝床の筆者の様子を原稿用紙三千枚に引き伸ばして送ってやる)、これはむしろ表現形式がもたらす最低限度の制約なのだ。

ただ、だからこそ改めて小説、特に純文学とか言う気取り屋どもの小説は心理描写が常に過剰で、その結果、一体生計をどう立ててんのかも不明瞭な人種が「言葉にできない曖昧な関係性」を送るヘボ小説が量産されるのである。

まったく、はっきり言っておきたいが心理描写は退屈である―何しろその間、外界では何も起きちゃいないのだから。
(だから上手な表現者ほど心理描写と外界の展開を絡めて提示する、たとえば映画なら会話のシーンで単純に顔のアップを繋げるのではなく、その二人にチェスをさせ、その優勢劣勢を会話の内容と絡めるなど)。
せめて愛について語るなら
「西原は彼女のほんの小さな仕草にさえ、ひどく惹かれる自らを覚えた。」
そんなせせこましい文ではなく、
「雨だから迎えに来てって言ったのに傘も差さず裸足で来やがって」森田志保子
このくらい派手にやってほしいものだ。

筆者は小説を読みながら、ときどき、全部の心理描写をカットしたらどうなるか妄想する。
一億総ヘミングウェイ化と言えるが、こうすることでその小説の説得力が
a.外部的な出来事
b.内部的な心理
のどちらに依存しているか多少は解る。
(なお、私の大好きな三島由紀夫は悲しいことにa.パターンがクソ下手である。大抵あのネチネチした心理描写で何となく読者を煙に巻いているケースが珍しくない。だから出来事だけ取り出すと、誰が誰を恋しただの偶然の行き違いだの、かなりチープである。  
これは一級(?)の心理描写が退屈なはずの出来事を面白くする特殊なパターン)

そう、まったく昨今の小説の心理偏重傾向は退屈そのものだが、むしろそれは現代社会そのものが「出来事」―向こう側から到来する何事か―のない世界であるせいかもしれない。
たとえば彼岸を示す宗教は非合理的な迷信と貶められ、社会主義の謳ったプロレタリア革命は、二十四時間明るいコンビニのどこにあるか。
何も起こらないが決して滅びない資本主義と上辺の民主主義の狭間で、私たちに残された表現が狭いアパートの恋人たちについてのみでも、いったい何の不思議があるか。
人間の心理がこれほど外界から隔てられ、侮蔑される時代を私たちは生きている。

◯とかく最近は純文学にも疲れ(五十年くらい経って生き延びてたら読む)、どうせなら筆者の喪われた青春を取り戻そうと恋愛小説を読み散らかしていたが、女性描写がどれもこれも引っかかる。
もちろん恋愛小説は若人に恋愛の明るいキラキラした側面を見せるものではあるけれど、もう少し女性の、月々の生理などの身体的な揺らぎや、それに伴う心理の不安定さを書いてもいいはず。
大体、女性は男性の性欲の器ではないし、そもそも女性の性格、主人公の―冴えなかったり内向的だったりする―男性をなぜ好きになったのかさえ、まともに書かれない。
これは女性というよりむしろ、男性のお助け妖精と呼ぶべき存在ではないかと思う。

もういっそ最初に
「本作には人間の女性と外見的には酷似した存在が出てきますが、これは「男性のお助け妖精」というフィクションの生物であり、特定の男性に本能的に発情する習性を持つ特殊な精霊で、男性の脳内を主な生息地とします。現実の女性とは何の関係もありません」とでも断り書きを置くべきではないだろうか。

また、これは私の感覚の話になるが、男性から女性に向ける関心や欲望と女性から男性に対してのそれはほぼ十倍、差があると思っている。
だから女性はそこまで男性に関心がない。
できれば一生放っといてくれと、宇治十帖の浮舟のように―薫は恋愛小説の女性像を信じた男性の末路か―感じる女性は少なからずいるはず。
(これは自戒でもある。私自身、女性に接客されたとき無自覚にもたれかかる癖がある。本当に恥ずべきことだ)

◯恋愛小説を読んだなかだと、
市川拓司氏の「今、会いにゆきます」がブローティガンやヴォネガットの雰囲気があっておしゃれで素敵だった、あれだ、カフェでエスプレッソを傾けながら読みたくなる感じ。

森見登美彦氏の「夜は短し歩けよ乙女」は京都の幻想的な描写に惹かれた。SFや短歌のセンス・オブ・ワンダーのキラキラが詰まっている。

だがどちらも肝心の恋愛要素はピンとこなかった。筆者の落ち度である。
(以下に試し読みを置いておく)

今は女性向けの恋愛小説と吸血鬼の小説を読んでいる。

本題

そんなわけで読んだのが星奏なつめ氏の作品「チョコレート・コンフュージョン」。
とても面白かったので、早速紹介する。

あらすじ
オフィス・ラブ?でいいだろうか、普通のOL(この呼び方は「女子アナ」に次いで嫌だが)の千紗ちさが、凶悪な殺し屋の龍生たつおと次第に仲を深めていくお話。
大枠としては、コーマック・マッカーシーや本邦だと中村文則氏の得意とする血と暴力の蔓延するノワール小説に、愛らしいラブコメディが半々で混ぜ込まれている感じをイメージしてもらうとわかりやすいと思う。

何しろ龍生は「入社前は某組員として日本の裏社会で暗躍」、「卓越した狙撃術で海外へも進出」、「東南アジアのヤバい筋とドンパチやり合」い、「入社後は営業部で恐喝まがいのセールスを強行」、その後経理に配属されるも、「未払い業者に犯罪的な手口で支払い催促してる」筋金入りの裏社会の人間である。下手をすれば殺した人数は三、いや四桁を数えるかもしれない(仮に彼が数えているとして)。
しかし、その報いか龍生は常に「自分は命を狙われている」という、「妄想じみた強迫観念に囚われて」いる。
毒ガスに怯えては「豪快にスプレー噴射」を始め(おそらく中東某国の諜報機関が使用する脳卒中を引き起こすウイルスだろう)、指紋も決して残さない。
血で血を洗う暴力が日常となった世界のなか狂気に取り憑かれた龍生の荒れた魂を、平凡な女性社員の千紗が癒やしていく。

「チョコレート・コンフュージョン」は訳すと「チョコレートの『混入』」。
おそらく、千紗の愛を暗示する言葉だろう。
甘く柔らかい、チョコのような千紗の愛が龍生の人生に『混入』したことで始まった、二人のヤキモキする恋模様―ぜひ皆さんも読んでほしい。

ところで、この後の展開は壮絶を極める。できれば直接読んでほしい。
まず、大日本帝国の復興を目指す「皇日会」が、大東亜共栄圏の再興を目指し、その先駆けとして台湾で軍事抗争を引き起こす。
一方で「アルニハヤー」―中東の原理主義を奉ずるテロ組織が、シルクロードの再興を求め、やはり台湾を狙う。 
どちらの組織もかつて流れ者の龍生が所属していた組織だ―ケジメをつけるため龍生は誰にも告げず空港に向かうが、そこにはなぜか千紗がいた。彼女は胸騒ぎを覚え、密かに龍生のタクシーを追ってきたのだ。観念した龍生は千紗を台湾に連れていくことに決める。
しかし、向かう途中で二人の飛行機は「アルニハヤー」の組員にハイジャックされる。千紗を守るため、不殺の誓いを破ろうとする龍生にそのとき千紗が告げた言葉とは―

あらすじ

ここから本当のあらすじ(上のあらすじは引用箇所を除いて全て嘘)。

龍生はコワモテだが、本当は心優しい男性。しかしその顔つきが災いし、女性との縁なく今日まで生きてきた。
一方の千紗は、大人のレディーを自称してこそいるものの、会社では社会人意識を欠いた部下とデリカシーのない上司に挟まれ灰色の日々を送っている。

ここでもう一人登場人物が出てくる。
彼女は恵理子―千紗の友人である。
恵理子はバレンタインに合わせ、「会社で配ろうと」五〇〇円のチョコを三〇〇円で買い叩いたはいいが、桁を一つ間違え、うっかり「五〇〇個」注文してしまい、実に「十四万近くの赤字」を背負う。
千紗はそんな恵理子にチョコを押し付けられたのだ。

千紗が龍生にお礼から格安チョコを渡したのはそんな経緯だったが、そもそもこれが間違いだった。
恵理子の発注したチョコには一つ当たりがあり、それには「〈愛しています〉」というメッセージが記されていたのだ―当たった幸せ者は(もちろん)龍生である。
今までずっと女性から避けられ同士だった龍生はすっかり舞い上がり、ついに千紗とのお付き合いアンド交換日記(!)を始めてしまう。 
一方、千紗は困る。しかし誤解を伝えれば、アウトローの龍生に彼女の自宅ごと焼き討ちにされるかもしれない。
純粋な生命の危機から、千紗はやむなく龍生と付き合う。しかし次第にその豊かな内面に惹きつけられていく。(男は中身である)
だが、二人の関係が真剣なものへと発展していくほど、千紗はチョコレートの真相を明かせなくなり、しかもお人好しの龍生を騙している罪悪感を抱くようになる。
さて、二人の行方や如何に!?

感想

まず構成が完璧

本作で素晴らしいのは、主人公たちの持つ課題の提示と解決がきちんと書かれていることだ。
まず龍生は「顔立ちが怖くて人と関係が築けない」、千紗は「大人びたフリをしているが実は内面は手一杯」という課題を抱えている。
この課題が二人の交流によって次第に変化していき、最終的にはカタルシス―解決を迎える。

この構造がきちんとしているために、多少都合のいい展開も無理なく読み進められる。
娯楽作品はとりあえず登場人物にお説教と号泣させればいいと考えてるアホ共にこの際はっきり言っとくが、娯楽作品ほどその構造は厳密でなければいけない。
何となくの感情の噴出でケリをつける作品は言葉や役者への侮辱だし、表現としても貧しい。

クソ男も完璧

次に良かったのは、ちゃんとクソ男が書かれている点である。
いやクソ男というのも品がないのだが、千紗は龍生と付き合う前に交際経験を持っている。
しかしこれが百パーセントのクソ男。千紗の好きなところは「顔」、さらに続けて、「美人の彼女って自慢できるから最高なんだよねー」だの「スタイルもいいよなー!胸が小さいのが難点だけど」だの。
一回除夜の鐘の鐘撞き棒代わりに頭を打たれてくるといい。

挙句の果てに千紗は「突然押し倒されそうにな」り、クソ男は「いいじゃん、好きだからだよ」とのたまい、ついには「じゃあさ、一回!一回だけでいいから、最後にヤらしてくんない?」とほざく。
まさに「女を消耗品のアクセサリーとしか思ってないタイプ」の真正クソ男だったのだ。

◯純愛小説のパステルカラーの世界に男性の剥き出しの性欲が持ち込めないのも分かるが、やはりこれがより現実に近い描写ではないか。
しかし怖い。私がもし同じ立場に立たされたとして(おそらくない点で私はどうしようもなく恵まれているが)、抵抗できる自信はないし、抵抗したところで果たして諦めてくれるかもわからない。
エンタメでは非日常的な暴力がしばしばカタルシスを伴って書かれるが、実際私たちの体験する暴力はもっと地味な、そして日常に紛れてしまう小さなものだ。
だからこそ、ときに被害者が暴力を受けた体験を告白してすら、笑い話やよくあることと流されてしまうことが少なくない。   
(そして、こうした不条理な暴力に晒されるリスクがずっと少ない性である私たちは、しかしその立場の強さに自覚的ではない。恥ずべきことだと思う)

お仕事小説としても高い満足度

また、仕事の描写がリアルなのもいい。龍生と千紗の勤める会社は海外との貿易を業務としているのだが、「L/C決済」などの言葉は本作で初めて知った。
お仕事小説と銘打っておいて、勤めている会社が倒産している暇人ばかりのヘボ小説を読んできただけに、本作の満足度は非常に高い。

乙女心も逃さずキャッチ

そして何より、登場人物全員がバカなのがいい。バカといっても愛すべきバカ―おバカたちである。
特に注目すべきは千紗だろう。
思い込みの強い龍生の愛の犠牲者とも思える彼女だが、実際には脳内お花畑のハイパーファンシー乙女である。

「私だって、できるものなら恋したいよ?なんかこう、胸の中の子猫が、みぃみぃ鳴き出すみたいな、甘く切なーい気持ちに浸ってみたいなぁって思う」 
(略)
「え〜〜、わかるでしょ?胸の中の子猫が甘えて擦り寄ってくるの。今はそっぽ向いてばっかりで、ちっとも応答ないけど」

p61.62.

書き写すだけで変な汗が出てくる。
しかも酒の席の過ちで終わらせておけばいいものを、この後も子猫は出張してくる。
覚えているだけでも、

トクン、とハートが震える。
胸の中で、うつむいてばかりだった恋の子猫が、ふっと顔を上げる。

p134.

胸の中の子猫が、みゃー、と悲しげに鳴く。
(中略)
(略)子猫は、みーみーと悲しげに鳴くばかりだ。

p168.

(略)ああもう、全部キミのせいだと、胸の中でみゃーみゃー騒ぎっぱなしの子猫を責める。

p209.

恋の子猫が、にゃあにゃあ、せっついてくる。
(略)
胸の中で得意げに微笑む子猫に、千紗はとうとう白旗を上げた。

p211.

(略)さっきから、恋の子猫がカリカリと爪を立ててくる。キミの出番は終わったんだ、フラれちゃったんだから(筆者注:誤解である)、もう冬眠でもしなよ、おやすみって言ってるのに、全然聞かないで、寂しそうに、みーみー鳴いている。今冬眠しちゃったら、もう春なんて二度とこないよって、つぶらな瞳でじーっと見つめてくるのだ。

p271.272.

ああもぅ、恋の子猫がきゅぅんと震える。

p309.

できれば杞憂であってほしいが、探せばまだ見つかるかもしれない。
本作ではデート中の奇行が目立つ龍生に目が行きがちだが、千紗も千紗で相当の変人である。
ただ彼女の場合は内面でその奇行が完結するため、幸か不幸か龍生ほど目立たないのだろう。まさに変人と変人の恋人である。
しかし常識人のカップルよりよっぽど楽しそうだ。

また、続編「チョコレート・セレブレーション」、恵理子が主人公の番外編「チョコレート・リジェネレーション」がそれぞれある。筆者はまだ読めていないが、もし興味のある方はぜひ読んでほしい。

その他諸々

この天才的な小説の筆者、星奏なつめ氏のペンネーム「なつめ」は夏目漱石から取ったそうだが、もし本作を漱石の作品に例えるなら(私見だが)一番「吾輩は猫である」に似ている。
書いている方も楽しそうで、読んでいる方は当然楽しく、登場人物たちも楽しそうな、三方よしの宇宙的にハッピネスな小説。
読めてよかった。

最後に一つ謎かけをしたい。
作中、龍生が謎のスプレーを撒いたり、指紋を拭き取ったりしていたのは、実はマリモのせいなのである。
マリモとはいったいどういうわけか。 
これはぜひお手にとって確かめてほしいが、様々な理由から手に取れない方には歯がゆいだけだろうから、下に真相を載せておく。
各自の判断で見てほしい。
また以下は試し読み。(太っ腹でかなりの分量読める)

 






真相:龍生には小生意気な妹がいるのである。
で、この妹がまあ家事をしない。それをお人好しの龍生は甘い口約束に絆され、皿洗いを任せてしまった。
そして、夏場に放っとかれた水場は当然―カビまみれである。そう、このカビがマリモの正体だったのだ。
以来、龍生は病的な潔癖症を患うこととなる。撒いていたスプレーは除菌スプレーだし、やたらテーブルを拭くのも指紋を消すのが目的ではなく、殺菌のためである。
このエピソードを読んだとき、筆者は龍生に心底同情した。
それはそれとして、こうして流しを汚せるほど甘えられる家族がいるのは羨ましい。

この記事ではあまり扱えなかったが、龍生と妹の莉衣奈の関係性も素敵だ。しっかり者の変人龍生と、ズボラな常識人の莉衣奈の掛け合いが、本当に可笑しい。

ところで莉衣奈は結局龍生の恋を成就させるアドバイスの見返りの品、ミッシェル・ロザリーのパンプスを買ってもらえただろうか。
きっと龍生なら(その値段に文句は言いつつも)買ってやっただろうが。


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