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『侍タイムスリッパー』/当たり前のことがこんなにおもしろい(映画感想文)

ただインディーズ単館からの公開で大ヒットとなった、という一事をもってして『カメラを止めるな!』(18)と『侍タイムスリッパー』(24)を同列に語ることには相当に無理があるのは承知のうえで、それでもこの比較から語りたいと思う。
『侍タイムスリッパー』の監督安田淳一も、
「僕としては『カメラを止めるな!』(18)をまず目指していたわけで。『カメ止め』は興行収入約30億円なんで、いろんな人に(『侍』を)大ヒット、大ヒットって言ってもらってますが、「ありがとうございます」って言いながら、でもまだ大ヒットはしてへんのやけどなって思ってます」
とインタビューで語ってもいることだし。(「creativevillage」24年11月)

もともと僕は眉唾だった。インディーズ〇〇という冠に信用をおかなくなったのは、高校生の頃にインディーズバンドブームが来て、京都三条にあった十字屋の二階であれもこれもジャケ買い(か当時は『FOOL'S MATE』か『宝島』が情報入手の媒体だったのでそこで仕入れた知識を元に買い)して結局ほとんどハマることなく「所詮はマイナー」と思った経緯があるからだ。海外のインディーズレーベルとは違う。このブームも「日の当たらないインディーズバンドを聴いている自分が好き」といった意識の産物でしかない。本当に力があるバンドはちゃんとメジャーに躍り出ている、と思ったのだ。
小説同人誌もそういう点ではインディーズだが、いまでこそメジャーと別のテイストを持ったフィールドとして成立しているが、当時はやはりプロになりたいが「自分はなれない」という力不足から目を逸らすための装置として機能していた。僕自身も長くそこに身を置いていたので、嫉妬や逆恨みの思念が渦巻く場面にも何度か出くわしている。(あくまで当時の)小説同人誌の場を思い出すと、僕は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に登場するカンダタのことを思わずにはいられない。
なので、インディーズ〇〇、という言葉には懐疑的なのだ。
『カメラを止めるな!』もそれでずっと未見だった。

勧められて『侍タイムスリッパー』を劇場で観た。結論からいえば素晴らしかった。今年、劇場に複数回足を運んだ映画はこの『侍タイムスリッパー』だけである。一度目はひとりで鑑賞し、二度目は妻に「観ときー」と推していっしょに行った。
そのあとで「それなら『カメラを止めるな!』もおれの偏見、食わず嫌いだったかな」と思いこちらは配信で観たのだが、この二作は別物だった。ある作品を素晴らしいというために、別の作品をわざわざ取り上げくさすのはフェアではないと思うのだが、今記事に関しては容赦してほしい。適切でない自覚は多少はある。
『カメラを止めるな!』は前半の見えないところで行われていた仕掛けが後半に明かされ、「そういうことだったのか!」という驚きとともに笑いが起こる構造になっている。
脚本は監督も務める上田慎一郎。
映画の発想の元となった芝居があるといわれており、一時権利問題で揉めている。和田亮一が主宰する劇団PEACEの公演した舞台『GHOST IN TH BOX!』がそれだ(脚本は荒木駿。和田は演出と脚色を務めている)。当初、和田は『カメ止め!』を賞賛、のちどういった心境の変化か周辺で納得のいかないことが起こりでもしたのか、訴えを起こし共同原作の立場に落ち着いている。
僕はこの芝居を観ていないのでこの件について見解することはできないが、『カメ止め』はしかしわれわれの知るもっと有名な別のものにも似ている。それはお笑い芸人・麒麟がM-1で演じた「漫才に小説の要素を取り入れる」というネタである。ちなみに『GHOST…』の初演は11年。『カメ止め』と違いゾンビはまったく登場せず、謎の研究所跡に集った映画サークルの4人が次々と殺されていく、というストーリー。前半で見せられた中途半端なスラップスティック調の物語が後半一気に変わるという点だけを取り上げれば、麒麟がM-1で演じたこのネタもまた、前半起こっていたさして面白くもない出来事が、後半「実は、…」とまったく別モノに変わり爆笑が起こる、という構成で似ている。この麒麟のM-1登場はさらに遡ること、01年(第1回大会)。
なので、見解はない、と書いたが、別に構造のアイデアについては『カメ止め』の独占的な発明だとは思わない。大事なのは、このアイデアをいかに上手く料理しているのかであり、そのアイデアを抜いても作品として光るクオリティが担保されているかどうかだろう(もちろんパクることを手放しで許しているわけではない)。
『カメ止め』を見て多少なりともガッカリしたのは、この前半に仕込まれた違和感の正体が後半になって種明かしされ、笑いが起こる、という構成に無理を感じたからだった。
キャラクターの造形が、その仕掛けのためのコマ然とし過ぎていて、それ以上のものになっていない。「そんなことある?!」といわせたいがために、人物が歪なデフォルメの過ぎた造形になっている。もちろんコメディ映画なのでリアリティや人の温かさといったものを無理に付与することを期待しているわけではなく、一例を挙げれば監督・日暮の娘である真央が前半はややディスコミュニケーションの偏狭な映画バカ娘なのに、後半になって物語を牽引するために並外れた問題解決能力を有してしまっている点などが、脚本に練りが足りないと思うのだ。繰り返すが、コメディであることは百も承知で、だからこそ、こういった笑いを生むキャラクターとして「笑いのための無理な役割」を付与することにもっと細心の注意を払ってほしいと思うのだ。でないと、観ている間に観客は「どうせここはまた娘が力技で物語を進ませるんだろ」と思い、それが次には「また娘!」と食傷してしまう。
そう思うと硬水でお腹を下すエピソードも、ただ笑いを取るためだけの下品な装置としか思えなくなってくる(なくても物語は成立する)。
過剰なキャラクターに囲まれた無力な善人が翻弄され困る姿を笑う、というのはコメディの形態としてはベタだが、どうにもその周囲の人物たちが、やり過ぎている。その結果、仕掛けが判った当初こそ笑えたネタが、途中からあざとく、人物たちも何とはなしに不快に思えてきてしまったのだった。

同じインディーズでありながら、そしてコメディ映画でありながら、『侍タイムスリッパー』に登場する人物は大変魅力的であり、無理がない。
実はどちらも、ある大きな仕掛けを軸に展開する物語であり、その点も実は似ているのだが、一方はそれを奇を衒う笑いの仕組みとして据え、もう一方はそれを人と人の出会いの情を盛り上げるカタルシスの装置として用意している。どちらの作品もそれぞれの仕掛けがなくては成立しないという点も、この二作の意外な共通点ではあるが、やはり『侍』に軍配が上がるのは、こちらがそのアイデアに寄りかかって人物を配置していない点であろう。
端的にいえば、『侍』は「タイムスリップしてきた人物が素直で好感の持てる人物で、彼の周辺の人たちもまた魅力的で好感の持てる人物だった」というだけで、ただ笑えるのだ。この笑いは何なのか。性善説に基づく安心感かもしれない。そんな映画は、ついぞ観たことがない。
僕がそれほど笑いに詳しくないからかも知れないが、世間のコメディ作品は「変わった人を笑う」「他人を困らせて笑う」という構造に偏りすぎている気がする。そのとき、基準となる目線の人物は常人であり、変わった人・困った人は、その目線の常人よりも下の位置に置かれることとなる。松竹新喜劇がその流れを作ったのかな? と思わなくもないが、あまりに安易にその手法を取り過ぎる。
この常人とは少し変わった人を、下に置くのではなく、純粋過ぎて困った人・文化的にズレたもの、とするパターンもあり、そうなると僕らの世代でまっさきに思い付くのは藤子・F・不二雄のマンガだ。『ドラえもん』の秘密道具の印象が強いが、日常的な文化を知らない困った誰かがやってくる(『オバケのQ太郎』)、まったく異なる文化圏からまったく異なるメソッドを持ったものがやってくる(『ジャングル黒べえ』)、さらにはまったく異なる文化圏へ放り込まれて主人公たちが困惑しトラブルに巻き込まれながらも解決していく(『モジャ公』)など。シリーズマンガはほぼすべてがそのパターンだ。
『侍』は過去から現代へ幕末の武士がタイムスリップしてくる。文化が違う。物事の向き合いかたが違う。そこでドタバタが起こる。発想自体に目新しさはない。ただこの歪なドタバタを作るのに、『カメ止め』がわざと人間を極端に困った意地悪な人として造形しているのに比して、『侍』は何の作為もない。強いていえば全員が善人過ぎることか。
些かやり過ぎのきらいがあるのは主人公が世話になる住職夫妻と撮影所所長だが、ここで監督が上手いのは、そのやり過ぎを「あえてやっているのかもしれない」と思わせてしまう点だろう。これ以上なくベタなのだが、それがいいアクセントになっている。大筋の部分では、人の好さがせめぎ合いシリアスな展開も笑いを生むこともあるのだが、その大きな流れを形成する小さいベタさとして彼らは機能している。ねらってやっているなら脚本の腕は相当なものだ。だがもしそうでないのなら、天性のセンスであるのなら、この監督、ただものではない。
なにより、登場する人物たちが自分の人生において取り組んでいるものに対し真摯である、その姿勢のつらぬきがこの映画の最も優れた点だと思う。時代劇の撮影所というチョイスがそのすべてであったと思われ、脚本の腕を褒めそやしたばかりで恐縮だが、次も監督が自身の本領を発揮できるだけの設定、舞台、キャラクターを見つけ出せるかどうかは判らない。

『侍』に登場する人物にはほぼ全員、既視感がある。だが、近頃はそういった生真面目な人間を正面切って描くことが少ない(シリアスに振れるとメンタルの問題を抱えていたり、社会的弱者だったりと極端だ。市井の人をもう少し素直に見て、描いてもいいのでは)。もしかすれば現実の世界で「物事に真剣に人生を懸けて向き合う人」が減ってきているのかもしれない。この仕事は上手くいかないな、思っていたのと違うかも、と思えばすぐ転職する。人間関係もあたかもパーツを取り替えるように切り捨て、次の誰かをSNSで探す。時代の変遷に異議申し立てをする気はないが、僕自身はそんなものではない、という価値観の元で育ってきた。三島由紀夫ばりの「大義」を気取るわけではないが、要領よくテキパキと何かをやり過ごす人生よりは、ときにはうんうん唸りながら自分の信じたものを貫きたい。
『侍』を観て感じたのは、そういった貫かざるを得ない者たちに対する視線のあたたかさであり、そして映画を作るというとんでもなく莫迦げた、しかし魅力ある作業に向き合わざるを得なかったものたちの共感と心意気だろうか。
理屈ぬきで自信の信じた道を行くのは主人公・高坂だけでなく、作中において最も象徴的な人物は風見恭一郎だと思うのだが、観る人にとってはそれは殺陣師の関本さんかもしれず、優子ちゃんかもしれない。だが、観終わったあとで人に伝えたくなるのは、そういった主要人物だけに限らず、心配無用ノ介の錦京太郎であり、斬られ役俳優の安藤のちょっとした一言やふるまいの魅力なのだ。
強いメッセージ性も社会に訴える異議のようなものもない。目を見張るような大仕掛けのアクションもない映画だが、24年に限らずここまで泣かされた映画は最近はなかった。人が本当はみんな何かを抱え、その日毎にそれなりに一生懸命に取り組んで生きている。ときには厚意で小さな問題を乗り越え、さりげない目配りのおかげで日常の階段を「少しだけいい方向」へ上っていくことができる。そういったことを、ふと考え、にんまりと頬をゆるませると同時に目頭がまた熱くなる。そんな映画だった。ただ単純に、いいものを観たと思った。


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