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難波田史男 特別展示 没後50年-「生と死の相克に魅入られた精神」

 某日、東京オペラシティアートギャラリー。

 収蔵品展079 特別展示 没後50年 難波田史男(- 06/16)へ。

 寺田コレクションに感謝を。



日を改め、訪れた

 宇野亞喜良展と同時開催の本展。

 少しだけ鑑賞し、日を改めようと決めて、後日再訪した。

 それだけ、「迫ってくる絵」だった。

 作品を観ると浮かび上がってくるであろう数々の言葉、それがそのまま、図録の解説文にも記されていた。

 展示作品の大部分は、20代のときに描かれている。

「生と死の相克に魅入られた精神」

 どんな作家なのだろう。

難波田史男(1941-74)は、日本の抽象絵画の開拓者である難波田龍起の次男に生まれ、早くから非凡な才能を見せながら既存の美術教育にはなじまず、文学や音楽を糧として独自の表現を求めた。自己の内面を見つめ、また時代や社会の現実とも真摯に向き合うなかから生まれた作品は、この画家の繊細にして透徹した感性、並外れた精神の集中、エネルギーの恐るべき凝縮を瑞々しく伝えている。

初期のドローイングで主役をなす震えるような線描は、人間の内面、無意識の世界をすくいとるような感度の良さと、それ自体で展開していく自在さを兼ね備え、史男の芸術の基礎をなしている。線とならんで色彩、ことに水彩による色彩の透明感や湿潤さに大きな可能性を見出すことで、史男の芸術は大きな深まりを見せた。それらは単なる形式の問題ではなく、生と死の相克に魅入られた精神、それを豊かに具現化する構想力によってつよく導かれていた。(後略)

同上

 その後、どのような作風の変遷を辿るのだろう。いや、辿らないのでは? 予感のようなものは的中する。

(前略)惜しくもフェリーからの転落事故により史男は32歳でこの世を去る。わずか15年の短い活動期間に生み出された作品は夥しい数にのぼる。「青春の画家」「夭折の画家」というイメージとはうらはらに、その芸術はすでに十分な発展を遂げ、鮮烈な表現の連なりは私たちを惹きつけてやまない。

東京オペラシティアートギャラリーの寺田コレクションには300点近い史男作品が収蔵されている。没後50年を機に、そこからの選りすぐりを中心に、貴重な外部コレクションからの出品もまじえ、史男の画業を辿る。

同上

 「惜しくもフェリーからの転落事故」って……フェリーから???

「海で死ぬことへの憧憬」

難波田史男 Fumio NAMBATA
1941年東京都に生まれる。 画家難波田龍起を父に持ち、小学生の頃から教師のすすめで油絵を試みる。また文学に親しみ、多感な幼少時代を過ごす。高校時代に絵画の道を志向し大学進学を断念、1960年文化学院美術科に入学するが、指導方針になじめず2年後に中退、以後孤独のうちに制作に没頭する。ペンと水彩を用いて、なぐり描きのようなタッチと強烈な色彩の、人物や建物が浮遊する画風を展開していった。

1965年早稲田大学第一文学部美術専攻科に入学。1967年岡本謙次郎のすすめで、第七画廊で初の個展を開く。1969年以降、毎年個展を開き、1971年からは日本橋三越の新鋭選抜展にも毎年出品した。1973年には龍起と親子二人展を開催。1974年、瀬戸内海で行方不明となり、1ヵ月余経って遺体が発見された。享年32。1975年以後、フジテレビギャラリー等で相次いで遺作展が開かれる。画業10年間に、2000点を越える作品を制作した。

同上

「鮮烈な表現の連なり」

 これも、さきほどの解説にあった言葉だけど、「鮮烈な表現の連なり」--これは、作風と、そこから感じることを端的に表していると思う。

 観る者の声は届かない。息を殺して傍観するしかない。そんなやるせなさ。そして、いくつかの予感のうち、よくないほうが当たっていく、でも止められないもどかしさ。

 止められないのは、生み出された作品たちが、あまりにも美しいからだ。

 静かな絵に見えて、強烈に観る者を惹きこむ。閲覧用に置かれていた図録には「売り切れました」というシールが貼ってあった。

 作品をじっと覗き込む。例えば、描かれた海の水面。やがて海の底から、観る者の内面が浮かび上がってくる。


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