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【エッセイ】ネガティブ・ケイパビリティとキーツの詩学
ネガティブ・ケイパビリティ(消極的能力)は、イギリスのロマン主義詩人ジョン・キーツが兄弟に宛てた手紙の中で言及されている。詩人で劇作家シェイクスピアと詩人コールリッジにはこの能力があるのだ、とキーツは主張する。それすなわち以下である。
[W]hat quality went to form a Man of Achievement, especially in Literature, and which Shakespeare possessed so enormously—I mean Negative Capability, that is, when a man is capable of being in uncertainties, mysteries, doubts, without any irritable reaching after fact and reason—
拙訳:とりわけ文学において偉業を成した人を形作る能力、それをシェイクスピアは多分に備えていた。その能力とはネガティブ・ケイパビリティのことである。つまりそれは、はっきりせず、謎に満ちていて、疑問が残っても、真理や道理を苛立たしく追求することなく、そのままの状態に留まっていられるときのことである。
要するに、もやもやした状態に耐えられる能力である、とキーツは述べる。この手紙を読むとわかるのは、キーツは手紙の中で文学について語っているのであり、生活一般におけるネガティヴ・ケイパビリティに言及していない。にもかかわらず、この言葉は現代の生きる力を紐解く鍵のように様々な書籍で紹介されている。
どちらも購入して一読したが、個人的に違和感を覚えたのが、キーツの手紙の一節には言及していても、キーツの詩学には触れていない点である。著者たちは哲学者、医師など、いわゆる文学者ではない。知性主義者のように専門家の知識がいかに特別かを言いたいわけではないが、一人の詩人が私的に家族に宛てた手紙の内容がキーツの代名詞のように世の中に漂うのは、言葉の拡大解釈によるもので、もはや芸術や哲学ではなく商業主義的な香りがする。
もちろん書籍の内容自体を批判するつもりは毛頭ない。ただわたしが言いたいのは、キーツの私的な文書の一節をどこまで話のネタとして使うのかという点である。ネガティヴ・ケイパビリティは響きとしてはスマートで印象に残る。個人的には、はじめてイギリス文学史のテキストで読んだときには格好良いと思った。この感覚でもってネガティヴ・ケイパビリティを論じていないだろうか。
思うに注目すべきは、キーツの詩学としてのネガティヴ・ケイパビリティではないか。彼は様々な詩作を通じてネガティヴ・ケイパビリティを発揮している。たとえば、「エンデュミオン」の一節を紐解く。
Therefore, on every morrow, are we wreathing
A flowery band to bind us to the earth,
Spite of despondence, of the inhuman dearth
Of noble natures, of the gloomy days,
Of all the unhealthy and o'er-darkened ways
Made for our searching: yes, in spite of all,
拙訳:ゆえに、毎朝、わたしたちは編んでいる
わたしたちと大地とを繋ぐために花輪を
希望を失い、無慈悲に死んでいる
気高き自然は、陰鬱な日々は
危機すべてで暗澹たる道は
わたしたちの探求のために作られた…
※拙訳では頭韻と脚韻の再現を試む
引用した一節では、辛く苦しく険しい状況でも日々懸命に生きることを謳っている。根性論ではなくて現実として、そういう状況は生きていれば経験する。まさにいまのわたしがそうである。そんなときにキーツの詩学としては、安易に希望だ何だと綴らない、結論を述べないことの重要性が伺える。これは詩に限らずだが、安易にハッピーエンドやバッドエンドと物語(人生)を結論づけるのは拙速である。
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は本当にタイトル2人の物語だろうか。たとえば、ロミオを巡る争いの物語とは読めないか。シェイクスピアは大衆に分かりやすい筋書きに様々なエッセンスを散りばめている。だから何度も何度も何度も作品を読む程に様々な事が浮き彫りになる。つまり物語はそう単純ではない。
キーツは詩作において、読者の解釈の多様性をある程度確保するかを意識していたのかは定かではない。ただ彼の詩は単一的な解釈のみを可能とするものではない。また繰り返しにはなるが、決して内容がスッキリとしないものもある。これこそがキーツの詩学、ネガティヴ・ケイパビリティといえるのではないだろうか。
わたしたちは確かに彼の詩から学ぶべきはある。しかしわたしたちは詩人ではない。だからネガティヴ・ケイパビリティの意図を汲み、この能力については考えるべきだろう。