染み付いた性
年に何回か、あるいは数年に何回か、気が滅入ってしまい自分の殻に閉じこもる事がある。
きっかけは大体近しい人の些細だが冷たい言葉や視線、態度で、普段なら何でもないぐらいの事かもしれないが身体や心が弱っているときにそれをもらうともう痛恨の一撃となり口も聞きたくなくなる。それでも一緒にいなくてはいけないのが苦痛でたまらないのだ。
中学の時も高校のときもこれでしばらく絶交状態になった友達がいる。
その中の1人には僕が逆の事をやってしまい、やるもやられるもどういう事なのか身をもって知ることになったのだが、、
どうやってこの状態から抜け出すか、どのようにこの状況で過ごすかと言うとだが、抜け出すのはもう時間に勝る薬は無く、無理やりどうこうなるわけでもないのはわかった。
ではどう苦しまずに過ごすかだが、最近これは「写真を撮る事」で緩和されるのがわかった。
つまり、一番集中できる、いや、しなくてはならない作業の中では自我を抑え込む力が自ずと働くからである。
「好きなことを」、
では無い。
職業写真家としてアシスタント時代から培われた性のなせる技で、寒かろうが切なかろうがお腹がすいてようが哀しかろうが何だろうがスタジオには仕事があって、それを熟さないことにはどうにもならない状況を経て染み付いたものだ。
こういうと何だか残念な写真との関わりの様ではあるが、これが今の自分を支えているのも事実、拠り所なのである。
苦労して身体に染み込ませたものだけが、最後に自分を救う技となるのだろう。「好きな写真だけをやって来たわけでは無い」、そこに強みがある。
職業として、「食う」ための技として会得した写真はこんな副産物も生み出していた。
ベルビアの詰まったOM-4TiにZuiko90mmマクロをつけて、薄暗い部屋の中で暖かく灯る300Bの真空管をファインダーに収める。ピントを丁寧に合わせ、プレビューで確認しながら絞りを決める。相反側不軌を考えて露出補正をかける。シャッターを優しく押す。
暗闇のなかでレンズに光が吸い込まれていく。
撮ることには何の意味もない写真だが、この時間の中では気持ち悪い感情は押さえ込まれている。いや、写真に敬意を表して言うならば、
撮る行為に癒されている。
僕はアルコールに逃げるタチでは無い。
あとは時間にまかせよう。