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小説『私が表現をする理由』

※大学の授業で書いた文章。
ヒモに恋する女性を、表現を追い求める作家自身(私)の例えとして小説を書いています。

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「あなたには苦労ばかりさせられてきたわ」

古いアパートの六畳間の片隅で女が言った。彼女は築数十年の間に幾人もの人間達が滞在したことを思わせる黒々としたフローリングの上に座っている。
その向かい側では、うつくしいひとが、静かに彼女を見つめていた。

「私、あなたのためにたくさんのことをしてきたわ。たくさん自分を犠牲にしてきたわ。多くの痛みを味わったわ。時間、お金を空費してきたわ」

女の頬をはらはらと涙が流れた。

「今だって、私、あなたのことを忘れることさえできていれば、田舎で公務員をやって、安定したお給料をもらって、死ぬまで年金もらえてたわ。きっと子どもだってこさえたわ。家も車も買えたわ」

うつくしいひとは、睫毛を震わせて女を見つめ続けた。その眼は哀しそうでもあり、憐れんでいるようでもあったが、どこか目の前の人間を拒絶しているような、超越しているような、何にも執着していなさそうな冷たい光を宿してもいた。

「あなたのことで私、たくさん人から言われたわ。『諦めろ』と言われたわ。『馬鹿みたい』と言われたわ。『しょうもない』と言われたわ。その度に私、自分自身のことを言われるよりも、はるかに深く傷ついたわ。『お前にはあのひとを手に入れることは不可能だ』とも言われたわ」

女はそれまでの痛切な表情から打って変わり、ガラス玉のような目で床に視線を落とし、
「あなたを追いかけたからと言って幸せになれるとは限らない」
と低く呻いた。「でも」

「あなたがいない世界で生きている間、私は本当の幸福を味わうことができなかった。どこにいても、何をしても、ただただ過ぎゆく時間、虚無、絶望、苦痛だけがあった」

「安定した生活、年金、家と車、配偶者と子ども。そういったもので自分を宥め慰め生きていこうともした。けれども、あなたのいない世界では、生そのものが無意味だった」

「あなたと共に歩む時、はじめて私は、本当の不幸を体感するとともに、本当の幸福を体験するのだわ」

うつくしいひとは、口角を少し上げたかのようだった。その顔は女のようにも男のようにも、老人のようにも幼子のようにも見えた。
女はうつくしいひとのもとに駆け寄り、抱きしめようとした。うつくしいひとが女を抱きしめ返そうとする手が見えて、女が目を閉じた瞬間、うつくしいひとは狭い六畳間のどこにもいなくなっていた。女は一人立ち上がった。その目には決意の灯火が燃えていた。

「あなたを追いかけ続けるわ。私の一生が終わるまで」

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