見出し画像

書物はセーフティネットでもある、という狂気をつづる

「年間100冊読む」のような〈冊数読み〉に対して批判的な言説に時折出会うが、ナンセンスだと思っている。自分はTwitter(現 X )で、2019年3月から、裏垢のような気持ちで読書アカウントを作っているが、これは〈なぜ働いていると本が読めなくなるのか〉問題と関係している。

自分がなぜ読書にこだわっているのか。

狂気性があるのは、書物が自分にとってセーフティネットだからだ。

なかなか書物に手がつかない。電車でしか読めない。そもそも読書に何を視ていたのか。その奥底には、現世と壁一枚隔てられた隣接世界に長時間消えることを望んでいたように思う。現実世界をこそ大事にしてしまうという(異論さえも持ちたくない)正しさこそがこのときだけは立ち塞がる壁なのだ。

潜水読書 — 仮に平均寿命が1000年になったとしても

この辺りのことをざっと記してみたいと思う。


人生と書物は似ている

自分がTwitter(当時)の読書アカウントを始めた理由は、読書をはかどらせるためだ。読書などをしてもこの人生において仕方がない、という心象を乗り越えるためだ。人生において? 読書がそのまま人生に繋がる。そのような短絡的な、セカイ系的発想は、狂気か。

だが、若い時期、想像の射程距離は短いものだ。

読了共有系のサイト(読書メーターなど)を見て、結局Twitterが一番記録を残す趣旨で使いやすい、と結論した。それは、

  1. タグ、引用などで、様々にカテゴライズできること

  2. 自分が読む本にはそもそも登録されていない本が多々あり、そういう本を扱うときも、普段と同じ手続きで更新できること。

この2点が、理由として大きい。

読書リストを作ることで、重複購入も避けられる。自分のアカウント名+書名で検索すれば、所有が分かる。

100冊読むと決めた瞬間から、少しでも縁を感じた本は手に取れるようになったんです。

林千晶「年間100冊読む」と決めたら気づいた、多読の意外な効果 - 日経BOOKプラス

読んだ本を投稿することは、読書意欲の増強に繋がる。

そのようなモチベーション作りをしなくてはできないような趣味はやめてしまえ! と〈自分にはできることを、できない人がいたら卑下する〉批判者の声が気にかかる人もいるかもしれないが、このような批判者は、ルサンチマンを抱えた心の狭い人なので、ミュートすればいいだけだ。

自分が語りたいことは、狂気だ。

立ち位置は、基本的に弱者だ。

実存に触れなくとも生を送っていける人は、基本的に強者で、マインド階層で例えるなら、上流階級だと考えている。

さきほど、〈読書などをしてもこの人生において仕方がないという心象を乗り越えるためだ。〉と記したが、なぜ読書の話で、人生という大きな語がでてくるのか。

セーフティネット(safety net)とは

あらかじめ予想される危険や損害の発生に備えて、被害の回避や最小限化を図る目的で準備される制度やしくみ。

セーフティネット(safety net)とは - 知るぽると

狂気は、実存と関係している。

人生に意味など、無いのだから、その意味を創造しなければならない。

10代の頃、そこが、どうしても腑に落ちなかった。

人生でやり残したことがたくさんあるのに、すべてが脳裏から立ち消え、この瞬間の幸福のまま、飛びたくなることがある。
……
学生時代、鬱の時期が続き、部屋で恋人とセックスをしていたら、突然、上のような気持ちになった。今、隕石でも落ちてきて、地球まるごと壊れてしまえばいいのに。この幸福の状態のままで死にたい、と。

結晶休息論2:自分の頭で考えるとは何か?

例えば、食べることが怠くなって、拒食症になり、ガリガリになってしまう人がいる。自分にとって、人の生というものは、虚像であるから、なくなっても構わない。最悪、自殺論に至る。だから前へ踏み出さなければ話にならない。人生と書物は似ている。そこには、人の生が多く記されている。本に価値を見出してみよう。とりあえず。それなら、出来るかもしれない。

直接、人と知り合えばいいのでは? と思う人がいるかもしれない。実際、自分は20代、出会いジャンキーだと口にしていた。結局、夜中にバーで語り合う程度では満ちない。真正面から付き合うくらいのことをしなければ満ちない。それでは、体が幾つあっても足りないし、時間も足りない。しかし、書物はその領域にアクセスする。

まず、人生の肯定。これが、大ヴィジョン。

そのステップとしての、読書の肯定。

おかしいと思う人がいるかもしれない。しかし、〈そのような狂気〉なのだ。

人生とは、狂気だ。

最適解では、意義を失うのだから。

人生を永遠と錯覚する手法

読書=人生であり、〈読書などをしてもこの人生において仕方がないという心象を乗り越えるためだ。〉はこう置き換えられる。〈生きていても仕方がないという心象を乗り越えるためだ。〉そして、経験として、10代の頃、書店に出向いたとき、世界は想像よりも広い、と〈生きていても仕方がない〉思いを一旦忘れさせる感覚を得た。

これは、アディクションな話でもある。

冒頭で引用した自分の過去記事〈…2006(潜水読書 — 仮に平均寿命が1000年になったとしても — ) 〉ここで、なぜ〈1000年〉という仮定が置かれているのか。

その記事の内容については、こう要約できる。

筆者は、読書を「潜水」に例え、特に難解な書物を「文学海溝」と表現しています。この比喩を通じて、深い読書体験が自己の視野や思考を豊かにすることを主張しています。
【 主張の構造 】
1. 読書と潜水の類似性: 読書を海に例え、特に難解で深遠な書物を「文学海溝」として捉えています。これは、深海に潜るダイバーが未知の世界を探求するように、読者も深い読書を通じて新たな視点や知識を得ることを示唆しています。
2. 深い読書の意義: 難解な書物に挑むことは、自己の常識や価値観を揺さぶり、新たな視点を獲得する機会となります。これは、現実世界を異なる形で見る力を養い、心の豊かさを育むとしています。
3. 多様な視点の重要性: 世界の多様性を理解し、自らの立ち位置を再評価することの重要性を強調しています。これは、他者との深いコミュニケーションや共感を可能にし、自己成長につながると述べています。
【 結論 】
筆者は、難解な書物への挑戦を通じて得られる新たな視点や知識が、自己の視野を広げ、心の豊かさを育むと結論付けています。また、そのような深い読書体験が、他者との豊かなコミュニケーションや共感を生む基盤となると主張しています。

ChatGPT 4o

読書の話が、序盤では、洞窟潜水ダイバーの話にもなっている。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という集英社新書を2024年4月に刊行し、ヒットさせた三宅香帆は、次のように語っている。

自分の欲しい情報だけを素早く得られる、それがインターネットの一番良いところです。逆に本は、自分の欲しい情報の周辺にある知識や背景、文脈を一緒に教えてくれる。その分、読むのに時間はかかるんですよ。でも、自分が知ろうとしていた情報じゃない「ノイズ」も含めた知識を得られるところが、本の豊かさだと思っています。

働きながら本を読める社会へ 三宅香帆さんが問う「ノイズ」の豊かさ - 朝日新聞デジタル

これについて、自分は近年、雑誌から学んだ。

落合陽一の連載があると貸してくれたエレ派雑誌「25ans ヴァンサンカン」No.515 ざっと読む. 前半エレガンス実践スキルが怒涛, 官能さえ感じる. クリスト没してたのか. シャネル展してるのか. 鎌倉の月の歌人 明恵上人知らなかった. 雑誌はネットじゃクリックしない情報も読む気になれて良い

2022年9月10日 - X

自分の先の記事を、別の角度で要約してみると、こうなる。

この記事は、洞窟ダイビングのパイオニアであるシェック・エクスレー(Sheck Exley)を中心に、読書を「潜水」に例えて深く考察しています。著者は、エクスレーの洞窟潜水の探求を、読書における深層への没入と重ね合わせています。
また、ラインホルト・メスナーの登山哲学やジャック=イヴ・クストーの海洋探検の視点を引用し、読書を通じて未知の世界や深層心理への旅を描写しています。
さらに、文学作品を「文学海溝」と表現し、深い読書体験がもたらす心の豊かさや新たな視点の獲得について論じています。
最終的に、著者は多様な視点を持つことの重要性と、深い読書体験が人生に与える影響について強調しています。
*シェック・エクスレーは、洞窟ダイビングの分野で多くの功績を残した人物であり、その探求心と技術は多くのダイバーに影響を与えています。

ChatGPT 4o

〈…2006(潜水読書 — 仮に平均寿命が1000年になったとしても — ) 〉は、2006年に打った文章をリライトした記事だ。

そして、自分は、2017年から、ケーブダイバーを主役とした999連作の小説を作り始めた。2024年の初頭、ようやく100点に達した。更新頻度が本格的に上がった2021年7月から数えたとしても、100点作るのに2年半を要している。残り約900点を3年計算で見てみれば、27年かかるが、そのように順調に進むとは思えない。完成しない可能性が高い。

この連作小説は、神戸の三宮で一度展示している。

〈生きていても仕方がないという心象を乗り越える〉ことを、自分は、1000年の猶予があると設定することで、凌いできた。

通常、逆の発想をするかもしれない。人生があと1年だったら、頑張れるかもしれないと。しかし、膨大なタスクを前に期限が1年しかなかったら、諦めるだろう。研究者なら違うかもしれない。残された1年で出来るだけ対象の研究を前進させ、後継者に受け渡そう、そう発想するかもしれない。だが、文学とは、つまり、実存とは、そういうものではない。

太宰治の後継者は存在しない。太宰治的な二次創作があとに続くだけだ(そして、久米田康治『さよなら絶望先生』や、朝霧カフカ+春河35『文豪ストレイドッグス』のように、キャラ化へ領域展開する)。

文学は、非再現性と同義だ。

ざっと見積もっても200年かかる自分にしかできない仕事を前に、どう思うだろう。1000年猶予があると思い込むしかない。長くても寿命80年や100年の人間にとって1000年は永遠のようなものだ。永久と違って永遠は、時間の概念がない点が、この錯覚化に対し、強い。

さらに、文学は、終着点がない。

永遠という概念は、人の想像力、計算力を越えるので、神秘主義的力を持つ。そこがいい。

目の前にある膨大な仕事を前にしてやる気を出す方法は、それらをざっくりと分類し、小タスクから順に終えていくことだ。すると、いつの間にか、すべて終わっている。一人で分業するということ。もちろん、自分がしなくてもいい範囲は外部発注してもいい。それこそ、情報の分別を含め、AIにさせてもいい。数秒で答えが返ってくる。素晴らしい。

1000年もあるんだったら、1つ1つゆっくりとこなしていこうという余裕感が生まれる。余裕が心象に生まれると、ゆとりがなかったときには出てこなかった内的な力が自動的に発動してくれる。一度自転車に乗れるようになったら、何も考えなくてもそれができるようになるのと同じだ。

このマインドは、上流階級のそれに当たる。

人生とは何か?という沼を回避し、生産性を手にしている。

書物である理由

文章という観点では、デジタルデータ(インターネットに散らばるテキストや、電子書籍、なんなら動画)でも良いのではと思うかもしれないが、書物でなければいけない理由がある。

それは、三次元上に存在している、という点だ。

自分が住むリアリズムと、同次元にある物を手に取らなければ、〈生きていても仕方がないという心象〉を乗り越えられない。

今の世界には、二次元キャラで良い、という人たちが大勢いて、ときにそれを2.5次元で楽しむ文化が、マイノリティとは言えない程度には広がっている。だから、現在は、書物でなくても、もういいのかもしれない。

本(書物)という媒体は, 読んでいない方のページが湾曲しているのを, 無意識下で視野の片隅に入れている体験なども含んでいるように思う

2024年7月23日 - X

自分が思春期のとき、CDが現れた。レコードを兄貴に教えてもらった、みたいな同世代がいたが、自分の身の回りでは、レコードを楽しむ家族や親戚などはいなかった。20代になり、音楽の方のクラブで働くようになったが、当時のDJはレコードが主流だった。レコードというアナログの魅力は充分わかるのだが、CDというデジタルデータで育った自分には、アナログという溝に針が走る三次元のリアリズムは、生活の上で特に必要なかった。

それと同じなのかもしれない。

溝に針が走る付加価値に自分がそこまで重視できないように、紙の本を読むときの〈湾曲しているのを, 無意識下で視野の片隅に入れている体験〉という付加価値など重視されないのだろう。

であるなら、書物は衰退する。

この項目で、書物という言葉を使ってきたが、ビジネス書、自己啓発本、読みやすい雑学本、ライトノベル系の本、J文学的な純文学、漫画などは、すべて電子書籍になってほしいと思っている。というか、電子書籍(青空文庫など図書館に通ずる総合知的な発想のものを含む)、インターネット上のサブスクリプション、ブログだけで良い。

つまり、音楽と同じだ。

書物は、愛蔵版のような類と、百年後も参照される可能性が含まれる評論系(ただしこれは、参照利便性からほとんど電子書籍が優位になる。しかし、キーワード検索ではない書物特有のサーチが必要なときも多々ある)と、ビジュアル必要性の強い本(絵本、美術書、事典など)に加えて、私家製本だけで良い。

つまり、書店は終わるかもしれない。

書物ではなく、本として広義に考えられるものが量産されるのは、書店の経済的要請からだ。使い捨てのような本が溢れていくことが、美しい未来であるようには思えない。本という形態への愛を突き詰めていくと、インターネットのある今、書店が最小限になっていくという残念なヴィジョンしか見えてこない。

文フリなどで展開される数多の私家製本は増えていくだろう。

ZINEブームのときのように、それを扱う専門書店も増えるだろう。

大型書店は、大型であるゆえに、哀しくも倒れる。

つまり、今ある書店が淘汰され、専門書店と古本屋と、図書館だけが、残る。実店舗は、カフェと併設など、多角経営の一要素として生き残る。

この未来像は、しかし、本当に本が好きな人であるなら、決してディストピアではないのではないだろうか。

愛に溢れた本だけがフィジカルに残っていて、素敵だ。

ちなみに、書物は読むものだと考えている。その上で、装丁は、国書刊行会のようにこだわっているべきだと考えている。実際のところ、読まずにインテリア素材で購入している人達も多いが、それでも話は同じだ。というか、その場合、より一層、話は極論へと進むだろう。

インターテクスチュアリティ (intertextuality) :
間テクスト性(かんテクストせい)は、テクストの意味を他のテクストとの関連によって見つけ出すことである。

Wikipedia

ここまで、一切、書き手の思いを考慮してこなかった。

しかし、時間なきテクストの海、なのだ。

書物は、著者という閾値を越えて、繋がりあっている、広大な大書物だ。良い本に出会えたとき、著者という記名は信頼性のタグとなり、私的理由から推し対象として例外化するのみ。

なぜなら、大体の本は、経済的要請で出版されている。同業であれば心情を共有するラインも生まれるが、そうでない読者からすれば、経済的要請という不純な動機で刊行された本にすぎない。

経済的要請のお陰で出版された良書、名著も多い。編集者がしぶとく押し続けてくれなかったらこの本は生まれなかったという告白を、いったい何度後書きで読んできたことだろう。研究者や好事家が成果や知識をコンテンツとしてまとめるのは、今でなければ駄目だというタイミングがシビアな時以外は、外的要因が多い。

だが、歴史をまたいで数多のピュアな書物が溢れている(ストックされている)今、例えば、古本で買ったとかSNSで呟かないでください、こっちは必死で売れる本を作る努力をしているんです、作家として生き残るには収益が必要なんです、みたいな作家も淘汰されてほしい。

つまり、文フリのような思いだけで作られている本と、出版社によるゲームフィールド上ではあるが岸辺露伴のように売上云々じゃなく読者に届くことだけに集中しているピュアな作家と、大ヴィジョンへの達成のために必要な情報部品を流通させる目的で先行投資とし赤字前提で刊行している誠実な本だけが、存在してほしい。他のものは電子書籍でやってほしい。

という、極論。

しかし、それでも、旧世界が青春だった自分は、できるだけ欲しいものは、本の形態で持ちたい。大型書店をを歩いて回りたい。さまよいたい。上の極論は、自分が思う未来像の、最適解だ。

だが、そんな最適解を、阻む思い。

それも、狂気だ。

ChatGPT 4o

_underline, 2025.1



いいなと思ったら応援しよう!