NaNoMoRaL - 唖然呆然 解釈
Kajiwara, P. Lyrics to “Azen Bouzen.” Performed by NaNoMoRaL, nano record, 2019. Lyrics on Apple Music,
https://music.apple.com/jp/album/azen-bouzen/1493238052?i=1493238058&l=en-US&ls.
(all citations in this article are taken from this source, unless otherwise specified)
NaNoMoRaLは日本の男女二人組のアイドルユニットで、"唖然呆然"は彼らの代表曲です。
様々な歌詞解釈が可能な幅のある曲ですが、私はこの曲を「雑然とした世界の中で、自分の生きる意味を問わずにはいられない人々への賛歌」として聴いています。
生きづらくても生きているあなたを、私は祝福します。
人は、自分が単なる骨と肉と臓物の集合体である事実をほとんど意識せずに暮らしている。自分も死ねば肉塊になるということを無意識で怖れていて、自分の体の中に臓器が入っていることを忘れている。
死んでしまおうと行動に移してはじめて、自分の意志とは無関係に生きようとする肉体を意識させられる。まさに"お腹の中から腸が出る"感覚なのだ。
自身の存在理由をいくら考えてみたところで、そこには自らが単なる遺伝子の乗り物であるという殺風景な結論しか存在しない。それでも、その問いを続ける。どれだけ気持ち悪くなろうとも、どれだけ悲しくなろうとも。
わたしたちは世界を正しく認識しているつもりで、実は人間の中だけの「価値観」に染まった色眼鏡を通して世界を見ている。"誰もいない宇宙の果て"には、もはや人間世界の「価値観」は微塵も残っていない。カントが「物自体」と呼んだ、世界のありのままの姿だ。
世の中の常識や価値観にうんざりした経験は誰でもあるだろう。いざそこから解放されたら、人はどうなるのだろうか。人間くさい価値観が恋しくなるのだろうか。
そんなことをいくら夢想したところで、原理的に実現は不可能だ。なぜ私は他の誰かでなく「私」なのか?なぜこの世界は他の世界でなく「この世界」なのか?思考をいくら重ねても答えに辿り着くことなどできないと分かっていながら、考えることをやめられない。たぶんこの行為は、祈りに似ている。
「パスカルの賭け」とは真逆の態度で、答えなど出ないのだと確信しながらそれでも生に違和感を抱き続けること。それは一種の美しさを湛えた「祈り」だ。
世界はこれまで「こう」あったし、今も現に「こう」ある。だが、それはこれからも「こう」あることとは何ら関わりを持たない。
宇宙は今この文をあなたが読んだ瞬間に消滅するかもしれないし(ボルツマン脳)、あなたが次に瞬きをした瞬間に5億年ボタンが発動して何も無い空間に飛ばされるかもしれない。(もし5億年ボタンのスイッチがあなたの瞬きで、5億年過ごした後に記憶が消されるのだとしたら、あなたは「これまでの人生の全ての瞬きの度に5億年を経験してきたが、それに気付いてこなかっただけ」かもしれないのだ。これを確実に否定できる材料は、何一つない。)
未来には何の保証もない。
所詮、私が体験しているこの世界とは、かくも脆い前提の上に成り立っているものなのだ。ならば、この世界に嫌気がさしてもいいじゃないか。どれだけ惨めな思いをしてもいいじゃないか。
多数の人は不条理な生に対する盾として、世の中に溢れる人工的な課題(ライフステージ、自己投資、成長)に集中することを選択する。
結局のところ、それが正しい合理的な生き方なのだろう。だがそれでも、形而上の問いを投げかけ続ける生き方を、私は祝福したい。
思考は捻れ、絡まり、同じ場所を何度も何度も見ることになるかもしれない。だが、それでいいのだ。
人生は一度きり。こんなに嬉しいことがあるだろうか。もう二度とこんなに苦しい思いは経験しなくてもいいのだ。その事実だけでも幸せではないだろうか。
世間との足並みは最低限揃えながらも、上手いこと人生を生きられている人達を横目に、私たちは今日も「人生なんてくだらない」と毒づく。人生にログインできていない感覚。そんな自分に狼狽え、悲しくなるときもある。
「そういうこと、自分も昔は考えたりしたなあ」「もっと目の前のことを楽しもうよ」
返ってくる反応は大抵このようなものだ。それらは正当な異論ではなく、生の理不尽さに対する盾として磨いてきた不随意の拒否反応だ。
虚しさに押し潰されそうになりながらも、考え続ける。神などいないと信じながら、祈ることをやめない。
多数の人間に擬態して社会生活を送ることはできる。だが違和感が無くなる訳ではない。
違和感に突き動かされて思索を進めたところで、生は虚しい返答を返すのみだ。社会人として正しい生活を送るためだけの学校教育に思考まで変形させられていたら、どんなに楽だったことか。
「生きるぞ」という決心がぶれてもいい。生きづらい時代に生きることの恐ろしさに心が挫かれてもいい。
頑張ってもいい。頑張らなくてもいい。
結局のところ、世界は無意味なことの断片から成り立っているのだから。
多数の人に擬態するためこしらえたガタガタの夢を追いながら、心は疲弊していく。
それでも平然と暮らしていくことはできる。あくまではたから見ればの話だけれど。
いなくなってしまってもいい。
所詮私たちはデラシネだ。どのような選択も、自分で肯定してしまえばいい。
泣きたい時には泣いてもいいし、涙が出ないなら泣かなくてもいい。
私たちは皆自分ひとりで生きている。
これは誰の協力も支えもなく独力で生きているという意味ではない。自らの恐怖と苦痛を全く同じように感じる人はいないということだ。自分の見ている世界を全く同じように見れる人は自分以外誰一人いないということだ。
だが、この独我論的恐怖を感じている人は一人ではない。全く同じ仕方ではないかもしれないが、どこかに似た考えを抱いて生きている人がいるかもしれない。
そのまだ見ぬ人の存在に、救われる。
【リフレイン(1番サビ)】
今陥っている状況が現実だと信じたくない時もあるが、現実でもいいか。
どうだっていい。
「生きていれば良いことあるよ」なんて無責任な言葉は要らない。必要なのは、不器用な生の在り方をそのまま肯定してしまえる投げやりな態度だ。
極めて前向きな自暴自棄を武器に、今日を生きていこう。
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