
小雪
幼少期から規則正しい睡眠習慣を築くのが苦手で、寝付きがかなり悪い。中学生の時には先生から「眠れなくても目を瞑りなさい」と言われていたが、10年経った今でも周りの人におなじことを言われる。生物としてまったく成長していない。目を瞑ったからといって入眠できるはずがない!
新卒入社して2年間ひとりで広報を担当している。先輩はおらず、上司は何部門も兼務している忙しいひとだ。
1週間のうち30分の定例ミーティングの時間以外は自由(放置)なので、自分で仕事を作らなければならない。わたしの会社はあまりメディアに露出したがらない&SNSをやらない主義なので、広報としての存在意義をどう見出すかも難しい。
色彩検定を受けた。「仕事の助けになるかも」というのは口実で、ほとんど自分の興味。難しい検定では無いけれど、働きながら勉強をするのは意外と楽しかった。緑青色、甕覗(かめのぞき)、新橋色、常磐色、縹(はなだ)色。今なら頭の中にこれらの彩りを浮かばせることができる。
世界が少し色付いた。もっと美しく鮮やかに見えたなら、なんて幸せだろうか。
4年ほど使ったカメラをメルカリで売り、新しいカメラを買った。「Nikon Zfc」は1年前から欲しかったカメラで、私のような初心者にも使い勝手が良いのはもちろん、何といっても外観が可愛い。レトロなフィルムカメラの体裁にダイヤル式。使いこなせるようにYouTubeで勉強しようと思います。
写真は良い。美しいものを美しいままに保存できる。
2週間ほど続いた気分の不調は少しずつ回復してきている。おそらく季節の変わり目に自律神経が追いつかなかったのだと思う。こころも追いついていない。スタバはマライアキャリーを流すな!
数字の半角は日本語の全角と並べるとどうも居心地が悪く、数字を全角に変えてみるが「やっぱり違う」となる。1あ2い3う、1あ2い3う。全角の「1」はもうすこし項垂れてほしい。あと一人称の「私」と「わたし」も、間のちょうどいい言葉を欲しい。
わたしの精神的楽園を築き上げてくれている作品のうちの一つ、「宝石の国」が単行本最終巻を迎える。ここまで長かった。長くて、ほんとうに1万年経ったのではないか?と思うほど永遠に続くと思われたこの作品も、結びを迎えたのだ。あの子は星になれただろうか。みんなを笑わせているだろうか。あの不器用で理想を追い求めるフォスを見ていると自分みたいだ。命が何万年も続かなくてよかった、としか思えない。
人と話すのが好きなのに、技術的に苦手だ。タイミングが合わない。原因は分かっていて、相手の発話と被るといけないから相手が言い終わるまで待ってから、自分が言いたいことがあるか考え始めるからである。(言いたいことはあまりない場合が多い。私は、できればずっと聞いていたい。)その数瞬で、相手の興が冷めてしまうのをわたしはひしひしと感じ、会話の後で反省会を初めてしまう。
その点チャットは得意。書き出した言葉を直してから送ることができるし、考える間があっても気まずい空気にならない。
自分の文章は、感情が乗れば乗るほど悪くなり、「訴えかけたいなにか」が無いときの文章はすこし好きになれる。なぜなのか。感情が湧いたときに筆を進め、心が凪のときに修正(おもに添削の削のほう)をしている。
職場で使っている加湿器の中の水が無くなってきていたので、向かいの社員さんが水を替えに行こうとしてくれた。わたしは定時で帰るところだったので、「大丈夫です!わたしが明日の朝、替えておきます」と意気揚々に言って帰った。
「しまった、わたしが独りでに加湿器を使い始めたとはいえ、同じ島(デスク)の二人は残業中に加湿器を使うかもしれないのに」と気付いたのは帰り道だった。自分のこういうところがつくづく駄目だ。人に話しかけられると途端に緊張して、視野が狭くなる。
今日は加湿器を消さずに帰りました。
「太陽」。
ここ1年のヨルシカはより普遍的な傾向にあると思う。「夏草が邪魔をする」から「盗作」までの曲に意図的に込められた、思春期の中高生からアイデンティティ確立に悩む若者までに刺さるような「尖り、青さ」は最近の曲には薄く、どちらかというと、暖色系。
固有名詞の多用や1拍に多くの言葉を詰め込めることをせず、より誰の耳にも入っていきやすい、抽象的な言葉を使いながらもテーマはブレず、本質を捉えている。
このあたりが、いまいち刺さらなくなってきたという人も割と目にする。(疾走感のあるロックを作ってほしいなど)
とはいえ私自身も、再生回数で言えば「心に穴が空いた」「藍二乗」などが上位だと思う。あれらの曲を聴くときというのは衝動性が付き物だ。
ただ、その衝動性とともに音楽を消費した後には少しの虚しさが残る。虚しさというか、「作品の本質を見つめられていない気がする」と思う理性、ヨルシカへの向き合い方の理想とのギャップかもしれない。
できるだけ自分の俗物的な感情を発散するために聞きたくない。と思っている。
でもそれは、難しい。
そんな自分の中の複雑さを、「太陽」はふんわり包み込んでくれる気がする。音楽の聴き方に正解なんてないよ。ふと「あ、美しい」と思う瞬間がその音楽の全てなんだと。
抽象はやさしさになれるのではないかと思わせてくれた。