記録 七月二十九日/のびやかな生
日記:A面
最寄りのバス停には屋根がない。
太陽が容赦なく照りつける。
少し離れた位置にできた、ちっちゃな木陰に人が立っていた。私もそれに倣って横に並ぶ。
バスは遅れていた。その間にもまた一人、二人。
木陰が混みはじめた。
涼むために、人が集まって、、
逆おしくらまんじゅう、、、。
ふふっ、おもんな。
バスは10分遅れで到着した。
日記:B面
文字のお稽古の日。
先月から月一回、半年間で計六回のお稽古。
「あなたのローマ字を整える」
どんな文字を書けるようになりたいか、イメージは明確にあった。のびのびとして、余分な力が抜けているかんじ。風が吹き抜けているような文字。
坂口恭平の字を見たとき、こんな字を書けるようになりたい、と思った。もっと言うと、こんなふうに生きたいと思った。彼の字には、生き様が滲み出ているようだった。
きっちり教科書どおり、どこかかたさのある字をほぐすことができたら、ものの感じ方や考え方も変わるんじゃないか、生き方も変わるんじゃないか。そう思って、このお稽古を受けることにした。
六月は、自分の名前を書く回だった。
お手本が用意されていたが、それが「正解」というものではない。あくまで、「型」を知って、自分の中の文字の引き出しを増やすためのものだった。
お手本の中から、イメージに近いものを選んで真似てみる。
何も見ずに書いたものより、力の抜けた字になった。
それでもまだ硬さが残る。
筆圧は弱い方だと思っていたが、先生には強いほうだと言われた。押し付けてはいないが、掘るような動きでペンを動かしているし、さらにペンを持つ位置もかなり下のほうだ。だから力が入った字になっていると。
腕は肩甲骨から生えているから、そこから動かすイメージをすると、のびやかな線をかけるはずだと教えてもらった。ほんとうだった。
指先だけを動かす書き方、手首から動かす書き方、肩甲骨から動かす書き方。
書ける線の幅が大きく変わる。
今回は小文字の回。
本題に入る前に、ウォーミングアップとして前回書いた字は見ずに、自分の名前を書いてみる。
先週まで一ヶ月ほど寝たきり生活をしていたのもあり、かたさが戻ってきている。
先生曰く、誰でも生活の中でかたさが出てくるものだとか。
改めて、肩甲骨から動かす意識についておさらい。
加えて、ペンを持つ位置・ペン先の角度によっても線が変わるよねという話があった。
ここからが本題。
今日の自分にとっての理想的な線で、理想的なaからzをつくっていく。
tという文字は縦線と横線でできている。
縦線は、真っ直ぐな一直線でなくても、少し斜めでもいいよね。サラッと流した線にするのか、ピタッと書くのかでも印象がかわる。極端に長くてもいいし、短くてもいい。
お手本通りのtのイメージを取っ払って、自由に好きな文字をつくってみる。
私は鎌村和貴さんの字もとても好きなのだけど、やるうちに唐突にそれが思い出されて、引っ張られていった。
最終的に、これまで書こうとしていた字からかなり違った文字ができあがった。
前回、先生は言っていた。
ほんとに?と思ったけどほんとうだった。
しかもこんな早くにその局面を迎えるとは。
いやはや、このお稽古おもしろすぎる。たのしすぎる。
ここからは単語を書いていく。
スタメンたちで単語を書くと主張が激しくてちょっとごちゃごちゃするので、エッセンスを残しつつもバランスをととのえていく。
先生は身体の動かし方について言及するけど、
その身体感覚はどこで養ってるのか。
紙とペンに向き合う中で身につけたのか、それともなにか武術やヨガのようなものをやっているんじゃないか、
ずっと気になっていたので聞いてみた。
五年くらいピラティスを続けているらしい。やっぱり。それから、解剖学も少しかじったと。
十五件まわってようやく見つけたおすすめのピラティス教室も教えてもらった。このお稽古が合う人だったら絶対に合うはずだと、強く強くおすすめしてもらった。
こころのことをどうにかしたかったら、からだのことも同時に考えなくちゃいけないとずっと思っていた。そのアプローチが整体なのか、ヨガなのか、武術なのか、呼吸法なのか、定められずにいた。
ひとまずダイエットと運動習慣をつけたくて、エニタイムを契約してみたけど、すぐに違うと思った。もっと楽しくないと、気持ちよくないと、続かないと思った。
「かためる」「増強する」じゃなくて、「ゆるめる」「柔らかく使う」を目指したいのだと気づいた。
信頼できる人に教えてもらうことができたから、ピラティスと解剖学、早速取り入れたい。
帰り道、解剖学についてネット検索したら養老孟司さんが引っかかった。なんか知の賢人みたいなイメージしかなかったけど、解剖学の人だったんだ。
解剖と、ことば。
どちらも、対象を切ってばらばらにして、名前をつける。
『解剖学教室へようこそ』という著書ではそうした解剖とことばの関係、からだとこころ、宇宙観なんかにも触れられているようで、まず一冊目はこれを読んでみることにした。
***
半年間の都心の会社員生活は、思いがけず安定感を与えてくれた。双極性障害の診断を受けてからの4年間、あるいは波が出始めてからの8年間でみても一番に安定していた半年だったと思う。
でも同時に、鳥籠のなかにいるようでもあった。
飼い慣らされたような気がしていた。見えない、大きな何かに。
できれば乗りたくない満員電車に乗って、
できれば行きたくない都心の駅に降り立って、
できれば居たくないブラインドが閉ざされた高層ビルに
八時間こもって
できればやりたくない電話対応をして、さして興味もない価値も感じないサービス運営に加担する
そうして、二十万ほどのお金をもらった。
家賃や食費を払って、たまに遊んだり趣味のことに使って、もっとあるに越したことはないが私にとっては十分だった。
一方で、なんとなく続けたくだらないお絵描き日記をする隙間はなくなってしまった。創作する欲求そのものが失せてしまった。私みたいなものが創作の真似事をしてみたところで大したものができあがるわけでもないが、私個人にとってはそれは大問題のような気がしていた。無駄を排除した先に残るものは、なんなのか。
でもまあそういうもんかと、今がたのしいし楽だからそれでいいかと、目をつむることもできてしまいそうなくらい、大きな力が働いているようだった。
自覚してか無自覚にか、みんなその大きな力になされるがまま、鳥籠のなかの生をめいめい楽しんでいるように見えた。草原を知った上で鳥籠のほうがよいと判断しているのかもしれないし、鳥籠以外を知らないのかもしれない。もしかしたら、捉え方次第で鳥籠とは感じないのかもしれない。でもどうしても今の自分にはそういう感じ方しかできなかった。
鳥籠のなかのようだと窮屈さのようなものを感じながら、じゃあ私はどうするのか。
そんなことをなんとなく感じはじめていた矢先、鬱がきた。それが答えなのだろう。
とはいえ、すぐに鳥籠から出ていく用意もなければ自信もない。気が遠くなるが、年単位で時間をかけて生活をつくるつもりだ。
ことば、文字、本
植物、動物、土、水
こころ、からだ
古いもの
時間をかけてつくるもの
今の関心ごと、心惹かれることはこれらで、
それにまつわる日課で生活を埋めていければ、六月までの半年の安定感をさらに超える、のびのびした毎日がくるんじゃないかと、ふと思った。
観葉植物に水をやり犬と浜辺を散歩し
ものを書き、読む
掃除、洗濯、料理をする
種を蒔き育てる
睡眠と食事の時間を一定にして生活リズムを整えるのが効くということはわかったから、あとはその中身をこういったものに変換していく作業だ。
風が吹き抜けるあの文字のような、
のびやかな生をめざして。