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アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』


読むのが難しい本だった。と、いって、内容が高度で難儀した、というのではない。

どちらかといえば、易しい本だと思う。どの本も、深く理解しようとすれば「簡単」ということはない。それはこの本も同じだ。

でも、難しさの程度というか、とっつきやすさには本によって一冊一冊に個性がある。晦渋な言い回しや、複雑な概念操作のために難読、という本もある。そして本書は全然そういうタイプの本ではない。



「アイデンティティが人を殺す」というのは、物騒なタイトルにも聴こえる。実際、物騒な話なのだ。「人を殺す」とは比喩ではなく、文字通りのこととして扱われている。

民族同士の対立、あるいは異なる宗教間の、または政治思想の違いにもとづく対立は、友/敵を、「どのようなアイデンティティを持つか」によって決定している。だから、対立の結果として起こる人々の死もまた、アイデンティティに端を発している。と、いうロジックだ。人は、口をきいたことも会ったこともない人を、殺したいほど憎むことができる。アイデンティティゆえに。

著者は、それを語るために歴史上の悲劇、あるいは架空の悲惨なシナリオを例として出す。それらの「悲惨なシナリオ」は、近ごろ目にするニュースから、それほど遠くは感じられない。読んでいて、非常にリアルに感じられる。たぶん、読むのが難しく感じたのは、そのせいかもしれない。今、この本はあまりにも生々しい。



生々しすぎて、あまり咀嚼できなかったし、消化もうまく進んでいないようで胃もたれもするけれど、いくつか、メモ書きのようなこと。

アイデンティティとは、個人の経歴や特徴からひとつを抽出して、それで当の個人を規定するようなものではない。ある宗教を信じていること、ある地域に生まれたことが、その個人の属性の全てである、というはずがない。けれども、そうした「ただひとつの属性」にもとづいた排斥は、実際にしばしば起こっている。

言語的アイデンティティは、たとえば宗教的アイデンティティと異なるところがある。敬虔なムスリムでありながら、同時に敬虔なカソリックであることは、両立困難(または不可能)だ。少なくとも、本人がそう主張しても、それぞれの陣営から認められることはない。これらのアイデンティティは排他的だ。いっぽう、フランス語を話しながらアラブ語も話すことは、フランス語話者であることもアラブ語話者であることも否定しない。

くわえて、言語にはアイデンティティの要素であるほかに、コミュニケーションの手段、という側面もある。そうした理由から、著者は言語的な多様性を、文化的な多様性の軸となるべきもの、としている。この辺りは、先日読んだ『バイリンガルの世界へようこそ』を思い出させる話。

著者は「殺人的なアイデンティティ」を「ヒョウ」に喩えている。ヒョウは人に迫害されると人を殺すが、自由にさせていても人を殺す。ヒョウを観察し、理解し、それを飼い馴らすこと。



「本を書いた作者の願いというのは通常、自分の本が長く読み継がれることだ」という主旨の前置きをおいて、次のように、本書は締め括られている。

この本に関しては、[…]いま申し上げたことと反対のことを願うばかりです。私の孫が大人になったとき、この本を偶然、家族の書棚に見つけるのです。埃をぱんぱんと払い、ぱらぱらっと目を通したあと、すぐにそれを埃っぽい元の場所に戻すと、肩をすくめて、こんなふうに驚くのです。へえ、おじいちゃんの時代には、まだこんなことを言わなきゃいけなかったんだ。

「まだこんなこと」を言わなければいけない。ヒョウは毎日殺している。

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