どめ

随筆、文学、感じたことなど。

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最近の記事

雑念と向き合う

電車に乗っている時間、信号待ちの時間、飲食店で料理が提供されるまでの時間。あらゆる隙間の時間で我々はスマホの画面を見つめている。 ここ十数年の間に生活は一変したと思う。 私が中学生一二年の頃はガラパゴス携帯が主流だった。 中学三年の頃、スマホを持つ友人が増え始め、私も中学から高校に上がる頃にスマホに持ち替えた。高校一年の頃にスマホへの乗り換えが一気に進んだように記憶している。スマホの勢力はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いであったと。 こうした時代の変化を肌で感じたのはこれが初めて

    • 人生を振り返るということ

      ここ数ヶ月、何かにつけてこれまでの人生を振り返るということが癖になっているように思う。 人生を振り返るタイミングはいつだって行き詰まった時である。 好調なときは過去を振り返ろうとは考えるにも及ばず、その時、その瞬間がきらきらしているものだから。 幸いにもこれまで、仕事においても恋愛においてもそれほど不自由は感じてこなかった。寧ろ、将来にかけてやりたいことは明白であったし、それに向けて突き進むことだけを考えていたように思う。 悩むこと少なかったわけではないが、行先ははっきり自

      • 季節感と風情

        数日前、友人を介して初対面の方と話す機会がありました。 会話の中で、私が数年前に札幌のシェアハウスに住んでいた話題となりました。 住んでいた所は小規模で、十人ほどが一つ屋根の下で生活するようなもので、半分以上は外国人が占めていました。 当時は外国人と生活することはもちろん、話すこともほとんど経験が無かったので、今振り返ると良い経験だったとしみじみと感じます。 近頃は源氏物語などの日本古典文学を読み耽っていることもあり、その話題をきっかけに日本人の季節感について考えてみますと

        • 「好き」と「愛」 ~好きになれない~

          これまで人並みに恋愛はしてきたと思います。 中学・高校生時代の恋愛などを思い返せば、初心で可愛らしい時代もあったのだなと、しみじみと耽るときもございます。 大学時代や社会人になりますと、他言できないような話も多くの方が持っているように少しはあったりもします。 今では社会人になって数年が経ち、同級生の友人らも結婚や子どもを授かるような年齢になったこともあり、そういった話を聞くことに、すこしずつ真剣な恋愛について考えるようになってきました。 さて、私が腑に落ちた「好き」と「愛」

          悲しみの強さ

          自己についてできるだけ俯瞰して見てみても、やはり私は悲しみの感情が強いと思う。 この強さは人と比べて悲しみが強いというわけではなく、喜怒哀楽の中で悲しみが特に強いと意味である。 簡単に言えば喜怒哀楽の比率の問題である。 なぜ、悲しみが強いと感じているのかということを言語化したい。 前提として、あらゆる人において喜怒哀楽の比率は異なっていると私は思っている。 楽しいことが好きな人もあれば、何かを成し遂げた時の喜びの感情がたまらない人もある。 一方で、悲哀を感じる時が心地よいと

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          慣れは諸刃の剣

          「慣れる」という現象は、よく考えてみると実に不思議です。 辛いものを食べたとき、最初は辛くて「こんなもの食べられない」と思っても我慢して二口、三口と食べ進めると不思議と食べられるようになることがあります。 最初は20分も連続して走れなかった人が1ヶ月もランニングを続けてみると、1時間くらい平気で走れるようになります。 心理学や生物学において、慣れは「順応」として扱われていますが、科学的な側面からみても、なんだか不思議な現象だなと思ったりするわけです。 学術的な話は調べれば山

          慣れは諸刃の剣

          結局、言葉にしてしまえば意味を持つ

          私には考え事を文章に書き起こす癖があります。 それは、仕事のことも私生活のことも、興味が沸いてきたことでもなんでも。 手書きのときもあればスマホのメモ帳を使うときもあります。 意識してメモを取っていると言えば、意識が高いように聞こえるかもしれませんが、そういうつもりはなく本当に癖のようなものです。 考えを言語化して文章として残す行為は労力を伴う行為です。 考えることはお金がかからないだの、誰でもできるだの言う人がたまにありますが、考えることは手を動かして何かをすることよりも

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          自己嫌悪と関心の乖離

          ここ数日の間、ぼんやりと「自己嫌悪」について考えています。 取り立てて悩んでいるということではありませんが、過去に自己嫌悪に陥った時のことを思い出して自己嫌悪の状態というのはどういうことで、どんな原因があって、どうやってそこから復帰したのかということについて考えているのです。 あえて検索したりその類の本を読んだりすることはせず、自分の中だけで解を出したいと思ってぼんやり思考に耽っています。 自己嫌悪に陥り易い人はどういった人なのか。 自己嫌悪にならない人はいるのか。 はたま

          自己嫌悪と関心の乖離

          文体は面白いという発見

          私は読書するのが好きで、手元にまだ読んでいない本がないとソワソワしてしまうくらいには本を読みます。 最近はもっぱら小説なのですが、新書、ビジネス書、ノンフィクションなども好んで読みます。 最近は時間ができたこともあって源氏物語(現代語訳)を読んでいます。 しばらく本を読むようになると、作家さんによって文章のスタイルの違いがわかるようになってきたり、同じ作家さんでも作品ごとに文体が違ったりします。 例えば、小説が一貫して、「です・ます」調で書かれているものや「である」調で書か

          文体は面白いという発見

          内向的について

          本棚を見返しているときに1年ほど前に読んだ「静かな人の戦略書」という本が目に留まった。 一時期話題になっており、表題に惹かれたということもあり読むことにした本である。 私自身は外交的、内向的と二元論で問われれば内向的であると答えるであろうし、やはり私生活においても他者と関わる時間より自分の時間を大切にしたい性分である。 日頃から自身の性格について思案に耽ることも多く、この手の本には妙に惹かれる。 この本はビジネス書であるため、会社組織において静かな人がどういう立ち振舞をす

          内向的について

          消費されている感覚

          現代を生きる私たちにとって、娯楽は多種多様に提供されている。 TV、映画、漫画、小説、音楽、ゲーム、お笑いなど、それは枚挙にいとまがない。 他方、私は昨今の娯楽に対してどうしても消費されているという感覚を持ってしまう。 例えば、テレビ番組を見たあとや流行りのJ-Popを聴いた後には、満足感よりも疲弊や喪失感の方が強く現れる。 迂闊にも多くの人がこのように感じているとは思っていないが、私と同じような感覚に陥っている人もいるのではないかと感じる。 ここ数年でとても身近になっ

          消費されている感覚

          他者と自分が見えているものの差

          ふと、思い出したように考えることがある。 考え出すと数日間はこのことについてぼんやりと考える日々が続き、日々の雑音にかき消されるようにいつのまにか考えなくなっているのだが。 私にとってはそれくらいのことなのかもしれないし、あるいは思い出したように何度も考えるということは何かが引っかかる大事なことかもしれない。他者と自分が見えているもの。 言葉にしてみるとあまりに抽象的な概念だと感じる。 例えば色について。 私が赤だと思っているものが他者の目を借りてみることができれば、私が

          他者と自分が見えているものの差