結局、言葉にしてしまえば意味を持つ
私には考え事を文章に書き起こす癖があります。
それは、仕事のことも私生活のことも、興味が沸いてきたことでもなんでも。
手書きのときもあればスマホのメモ帳を使うときもあります。
意識してメモを取っていると言えば、意識が高いように聞こえるかもしれませんが、そういうつもりはなく本当に癖のようなものです。
考えを言語化して文章として残す行為は労力を伴う行為です。
考えることはお金がかからないだの、誰でもできるだの言う人がたまにありますが、考えることは手を動かして何かをすることよりも負担の大きいことで、より高等な行為だと思っています。
まずは文章、とりわけ「言葉」が自分の中で意味を持つということについて考えてみましょう。
人は一日の中でも多くのことを考えています。
考えることの先にはおおよそ判断を委ねられる事案が発生します。
有名な米国の起業家たちが一日の中で判断する回数を少なくするために、毎日同じ服を着るようにして朝起きて服について考えることを排除しているという話は有名でしょう。
判断には程度の差があり、その日の服を選ぶということは概ね大きな判断ではないですね。
他方、これからの自分の人生を決めてしまうような判断というのは多くの時間をかけて熟考する必要がありますし、それに伴い大きな労力を払うことになります。
例えば、進路選択、転職活動、結婚・離婚のような選択です。
途中で考えることに疲れ、投げ出してしまった先には将来の後悔となることもあるでしょう。
考える過程で文章にして自分の考えを整理するやり方は一般的なやり方でしょう。
頭の中だけで悶々と思索に耽っているより、文章にして書き起こしてみると思考が整理され、思い悩みの壁を超えること往々にしてあります。
その瞬間に、その文章は自分の中で意味や価値を持つようになります。
自分の中から生まれる言葉を外に出してしまえば、それは自己解決的に意味を持つことになると思うのです。
自分のための文章ですら言葉には大きな力があるものです。
もちろん、言葉にするというのは自分のみならず、他者にも影響を与えることがあります。
言葉が他者と意思疎通を図るために発展したと考えれば至極真っ当ではありますが、当たり前だからこそ深く考えない。まるで「灯台下暗し」のようなことだと思います。
例えば、「恋人が欲しいけどなかなか良い出会いに巡り会えない」という場合について考えますと、やはり自分の中だけで考えているだけでは進展は期待できません。
考えることで振る舞いが変わることはあるでしょうが、恋人が欲しいという他者ありきのことについては、どうしても自分だけで解決できない問題がゆえ考えを自分から伝える必要があります。
では、考えを言葉にして伝えるということについて考えてみましょう。
友人とご飯をともにした折に「恋人が欲しいのだけど、良い出会いがないのだよね」と言葉にしてみることで、思いもよらなかった進展が生まれることがあります。
知人を紹介してくれるかもしれません。
友人に話してみることで自分の中で変化が生まれるかもしれません。
友人が他の友人との会話の中でその話をしてくれたならば、思わぬところから進展があるかもしれません。
考えを他者に伝えることで、それが種となり芽を出すということはよくあることです。
また、人は人のために何かをしてあげたいと考える素晴らしい生き物です。
困っている人がいれば、助けてあげたいという気持ちが沸き起こるのは心が綺麗な人だけではなく、誰しもが持ち合わせている普遍的な性質であると思います。
人間社会というのは面白いもので、こうした人間の良くも悪くも「おせっかい」が目一杯に働いているおかげで、全く予測できないことの方が圧倒的に多いのです。
「事実は小説より奇なり」とはよく言ったものだと感心します。
仕事に関しても考えてみましょう。
今取り組んでいる仕事が自分の考えるキャリアパスとマッチしていない場合、仕事を辞めて転職しようとしたり、キャリアを諦めたりすることは多いですね。
一方で、会社の上司が当人のキャリアパスを知らなかったということも多いでしょう。
仮に当人の意向がわかっていれば、上司が機転を効かせて仕事を割り振ってくれるかもしれません。
会社に該当の部署があれば異動を掛け合ってくれるかもしれません。
当たり前ですが、会社としては辞められてしまうことが一番のダメージです。
かといってやる気のない仕事ぶりをされるのも、たまったものではないでしょう。
こういうケースに当てはまる場合や優れた上司が側にいるということは多くはないかもしれませんが、言ってみなければ伝わることはないでしょう。
考えを言葉にすることで、歯車が動き出すのです。
それが上手く噛み合うかどうか、動かしもせずにどうしてわかりましょうか。
結局、言葉にしてしまえばそれは意味を持つことになるのです。
それは些細なことでも、人生を決めてしまうような大切なことでも、人を傷つけてしまうようなことでも、世の中や自己への憂いでも等しく。
逆に言えば、考えているだけで言葉にしなければ他者に伝わることもありませんし、自分の中で腑に落ちる前に忘れてしまうこともあるでしょう。
言葉には鮮度があると感じます。
考えている、感じているその瞬間が言葉が生まれる最も高まっている瞬間であり、その瞬間から後は鮮度は落ちていく一方です。
まれに長い年月親しまれる(昔から言い伝えられているような)言葉もあるでしょうが、大概は鮮度が落ちれば忘れ去られる一方です。
折角、生まれるかもしれない言葉が生まれずして忘れ去れてしまうのは悲しく勿体無いことですね。
こういう世の中ですから、
言葉を紡いでみるのはいかがでしょう。