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悲しみの強さ

自己についてできるだけ俯瞰して見てみても、やはり私は悲しみの感情が強いと思う。
この強さは人と比べて悲しみが強いというわけではなく、喜怒哀楽の中で悲しみが特に強いと意味である。
簡単に言えば喜怒哀楽の比率の問題である。

なぜ、悲しみが強いと感じているのかということを言語化したい。
前提として、あらゆる人において喜怒哀楽の比率は異なっていると私は思っている。
楽しいことが好きな人もあれば、何かを成し遂げた時の喜びの感情がたまらない人もある。
一方で、悲哀を感じる時が心地よいと感じている人も確かにいる。

さらに言えば、この強く現れる感情はその人の行動や考えに深く影響を及ぼしていると感じる。
形成された集団において、似たような人が集まる傾向にあるのはこういった背景があると考えている。(例えば似たような性格の人が友人になりやすいとか、特定の職業の人の性格は〇〇な傾向があるだとか)

生きていれば様々なことが起こりうるため、ときには喜楽を感じることもあれば、ときには悲しいことも避けては通れない。
悲哀を感じる時が心地よいというのは、何も悲しみを喜々と感じているわけではないことを強調しておく。
挫折をすれば悔しいし、誰かが亡くなれば悲しい。ここに全く嘘はない。
他方、何かを成し遂げたときや褒められたときは嬉しいと感じ、友人と意気投合したり趣味に没頭している時間は楽しいと感じるのは至極当然のことである。

では、喜怒哀楽の比率の差はどこから来るのかということについて考えると、感受性の差ではないかと感じる。
悲しみが強い人間は悲しみに対する感受性が高くない。
つまり、悲しみに対して底なしの欲求が生まれているのではないか。
悲しいことを幾度となく思い返し、その度に深い悲しみに落ちていく。
一種の自傷行為のようなものである。
悲しみを通じての自己陶酔と言い換えても良いだろう。

実際に私の経験においても、悲しみの出来事に直面した際には悲しみは大きくないのである。
大人になれば多くの人が経験せざるを得ない、死・絶縁・裏切りと言った、人生の中で最大級の悲しみにおいても直面した時の悲しみは大きくない。
しかし、時を経るに連れ思い出す折に従って悲しみは深くなり、その沼へと沈んでいく。
それが真に悲しみであるのか、あるいは悲しんでいる自分へ酔っているのかという議論は全く無意味であろう。

一方で、弱い感情に対しては感受性が高く、喜びの感情が弱ければ、少しの喜びで満足できてしまう。
ゆえに、それ以上の喜びを自ら求めようと行動などしない。

こういった差は、これまでの人生における経験から生まれてくるかもしれないし、小説や映画、人づてに聴いた話などに影響されているだけかもしれない。
しかし、人はそうやって形作られていくのではないかと感じている。


悲しみについては友人や家族にすらも話すことは難しい。
悲しみは負の印象が強く、この手の話題は人間関係において良い影響を及ぼさないとわかっているからである。
しかし悲しみが強い人の存在は確かであるし、決して悲しみそのものは悪ではない。忌むべき存在ではないと思う。
そして、無理に喜楽を求める必要もあるまい。
少しでも、悲しみに悩める人に共感いただければ幸いである。

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