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自己嫌悪と関心の乖離

ここ数日の間、ぼんやりと「自己嫌悪」について考えています。
取り立てて悩んでいるということではありませんが、過去に自己嫌悪に陥った時のことを思い出して自己嫌悪の状態というのはどういうことで、どんな原因があって、どうやってそこから復帰したのかということについて考えているのです。
あえて検索したりその類の本を読んだりすることはせず、自分の中だけで解を出したいと思ってぼんやり思考に耽っています。

自己嫌悪に陥り易い人はどういった人なのか。
自己嫌悪にならない人はいるのか。
はたまた自己嫌悪になる人は小数で、多くの人はそんなことに悩んでいることはないのか。
あるいは、自己嫌悪に陥るほど余裕がない社会になっているのか。
など思考は枚挙に暇がありません。


さて、ここからは少しだけ赤裸々に私が自己嫌悪に陥った時の話をしましょう。

私は飽き性な性質で恋愛や趣味においても関心が急にふっつりと切れてしまうことが多々あります。
一人で行う趣味については周りに迷惑はかけませんから、それほど思い悩むことはありません。
他方、恋愛となれば他者に迷惑をかけることになるので飽き性なことは悪く捉えられるでしょう。

私の場合は他者への迷惑の有無にかかわらず自己嫌悪に陥ります。
趣味について考えますと、私は以前バイクに凝っていた時期がありました。
とにかくバイクに乗っているだけで楽しくて、いずれはフェリーで北海道に行ったり、長期休暇をとって九州一周したりも良いななどと考えているときもありました。
しかし、他のことへ興味が移ったり、仕事が忙しい・今日は天候が悪いなどと自分に言い訳をしたりして少しずつ関心は薄れていきました。

自己嫌悪に陥るのは、まさにこの瞬間なのです。
やりたいと思っていたこともやらずして関心が移ってしまったり、自分自身に意味のない言い訳を重ねていたりすること。
即ち自身への嘘を認めてしまう行為にこそ自己嫌悪が発生します。
自分への失望の瞬間と言い換えても良いでしょう。
自分自身への嘘はそれが嘘だと明確に判断できてしまうため、他者からの嘘よりも傷が深いことでしょう。
誰しもが自分にだけは嘘をつかずに生きていきたいと思っているものです。

結局、趣味であったバイクは持っているだけで乗らないという状態が続き、心を煩わせる種になってしまいました。
バイクは乗らずに放置しておくと劣化がとても早いです。
状態はまだ良く、乗らない私が保持していてもお金もかかりますし、乗りたい人が乗ったほうがバイクも本望だろうと売却をしましたら、すっかり自己嫌悪は消えてしまいました。
もちろん自己嫌悪が消えたのは結果論であって、自己嫌悪はなくすためには煩いの種を捨てることが必ずしも良いとういことではない。ということを強調しておきます。
(例えば人間関係において煩いがある場合に、人間関係をきれいさっぱり切り捨てることが最善手とは言い切れないという意です。)


恋愛のように他者に迷惑がかかるものでは煩いの種は増えます。
自分のせいで他者に迷惑がかかっているので被害者面するのは良くないとは思いつつもその反面、興味はどんどん削がれていくものなのです。

お互いに連絡も途絶えがちになり、いよいよ終局を迎えるといった時では正直に伝え、煩うことなく綺麗に終えることもできるでしょう。

一方で何のきっかけもなく突然に関心が消え失せることも往々にして発生します。
そんな折には自己嫌悪はますます募るばかりです。
たちの悪いことに消えた関心が元に戻るということはほとんどありません。
現実という外面と、関心という内面の乖離に自己嫌悪に陥ることになります。

さらに恋愛の場合は繰り返してしまうことにも自己嫌悪が募ります。
煩い、迷惑をかけ、もう恋愛は懲りたと自己嫌悪の時は本心から思っていたとしても時間が経過し何かしらのきっかけで自己嫌悪が癒えたあとにはすっかり懲りた気持ちも忘れてしまっています。
なんとだらしがない人間だと嫌悪に拍車がかかることは想像に難くないでしょう。
今回はこれ以上恋愛の話はよしておきましょう。


私の場合、趣味と恋愛の二つのことについて考えてみましても、自己嫌悪に陥る場合は関心の遷移に大きく左右されています。
関心が持続している時は自己嫌悪をすることは何もありません。
関心が薄れていき、徐々に移り変わっていくときに過去と現在の乖離、あるいは外面と内面の乖離によって自己嫌悪に陥ります。

関心は自分で制御することは困難です。
興味がないものに向き合うことはストレスを抱えることに繋がりますし、向き合った先に関心は生まれてきません。
一方で、ひょんなことから猛烈に関心が高まり我を忘れて熱中してしまうことも多々あります。
自己嫌悪と関心が結びついていると実に厄介です。

関心の移り変わりに際して、他者に迷惑をかけるのが良くないという感情も理解できますが、そもそも人間は他者に迷惑をかけ続けている生き物です。
迷惑をかけ・かけられる柵の中で生きているのですから、迷惑をかけることそのものが悪いのではなく、礼節を欠いた行動が悪いのだと思います。
この部分を履き違えると自己嫌悪は更に深まっていくでしょう。

自己嫌悪は多かれ少なかれ人間が持つ、めんどくさい人間味の一つと割り切ってしまうことも大切なのかもしれません。
煩いを過ぎた先に、自分の人間臭さを少しでも好きになれる要素を見つけられれば幸いです。


最後に三島由紀夫の自己嫌悪についての言及を紹介して結びます。

「思春期の思ひ出は、実に恥づかしいものです、ニキビの思ひ出が恥づかしいやうに。しかし、/さういふ恥づかしさを忘れ去つてしまふことが、人間の成長の道ではありません。/どんなに恥づかしい思ひ出もどこかで人生にプラスになつてをり、やがてそれがほほゑましい思ひ出にも変り、楽しい思ひ出にも変るものです。ですから、思春期の自己嫌悪は、自分で自分を、世界で一番醜悪な人間だと考へがちですが、時がたつにつれて、そのころの自分を、一番純で美しかつたと思ふやうになります」(「わが思春期」より)

https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2020/11/story/story_201125/


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