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「好き」と「愛」 ~好きになれない~

これまで人並みに恋愛はしてきたと思います。
中学・高校生時代の恋愛などを思い返せば、初心で可愛らしい時代もあったのだなと、しみじみと耽るときもございます。
大学時代や社会人になりますと、他言できないような話も多くの方が持っているように少しはあったりもします。
今では社会人になって数年が経ち、同級生の友人らも結婚や子どもを授かるような年齢になったこともあり、そういった話を聞くことに、すこしずつ真剣な恋愛について考えるようになってきました。

さて、私が腑に落ちた「好き」と「愛」の話を私の経験にも少し触れながら、つらつらと書いていくこととしましょう。


まだうら若い頃では、純粋な気持ちで人やコトを「好き」になることができたように思いますが、年を重ねるに連れ、色々と邪推してしまうのが人間の性というものでしょうか。

私も学生の頃では、無垢な心持ちで人を好きになったり、好きなスポーツの部活動などに取り組んでいました。まさしく「好き」が人間を突き動かしていた、と大人になった今では振り返ることができます。
そして、その頃の私はまだ「愛」というものを具体的には知りません。

一方、大人になるにしがたって純粋な「好き」という気持ちだけでは、行動に移せなくなってきました。
時間の有限を身を以て知り、古くからの人間関係でも次第に疎遠になってゆく人もあります。
そうした悶々とした環境に慣れてゆくと、自然と様々なことを邪推し「好き」という気持ちには無意識に蓋をして、自分自身へ言い訳をすることを覚えてしまいます。

学生時代の悪友との付き合いというのは、社会人になってからめっきり少なくなってゆきました。
学生時代は毎日のようにカラオケに行ったり、友人宅で深夜までどんちゃん騒ぎをしていたような友人らも、社会に出ればある程度の分別をわきまえ自然と落ち着いてゆくものでした。
そうなると、落ち着いた関係で交友は続いていくのかと思われますが、実際は親交は途絶えがちになってゆくものです。

彼らと夜を明かした日々は今となっては良い思い出で、当時はもちろん楽しくて、その時間が好きだったからこそ付き合っていたわけですが、好きはいずれ廃れ、多種の要因が絡み合って消滅してゆくものなのだと感じます。
きっと彼らも思うところは同じでしょう。


恋愛についても触れましょう。
若い頃の恋愛は「好き」という気持ちだけで突っ走るようなものであったと思います。
顔が好みであったり、話していくうちに「なんか好き」というような雰囲気や接し方に好感を抱くものでした。
しかし、そのような恋心はいつしか儚く散ることになります。
些細なことに端を発して、喧嘩や醒めというものが起こると「好き」という気持ちだけで成り立っていた関係は、いとも簡単にふっつり切れてしまいます。
一度切れてしまった想いはそう簡単に戻ることはないのでした。

しかし「愛」のある関係になると想いはそう簡単には切れないことにも気づきます。
恋人でも家族でも一緒に暮らす動物においても、愛がある関係には、多少のいざこざはあれどそれは時間を経ると許せてしまいます。
「好き」と「愛」には、やはり違った感覚を持っていると感じているのはこういったところからでしょうか。


「愛」とは「好き」の延長線上にあると考えるとややこしくなります。
「愛」は時間をかけて作っていくものであり、「好き」の延長にはないと思います。
もちろん、好きから転じる愛を否定するつもりは毛頭ありません。
他方、「好き」がない状態から「愛」が作られることもあるのだから、好きと愛は延長線上にはないだろうということを申したいのです。
寧ろ、感覚的には後者の方が多いと感じます。

私は何かを猛烈に好きになるということは非常に少ないのですが、長い時間をともにしてきた友人や家族、モノにおいても深い愛があると自負しています。
それは最初から好きな状態ではないものたちです。
時間とともに、彼ら(またはそれら)とのちょっとした出来事が積み重なり、愛がかたち作られてきたのだと感じます。
「好き」を失ったときと「愛」を失ったときの喪失感や悲しみの強さも、当然「愛」の方が大きいのです。


私が腑に落ちた感覚について書きましょう。
それは、「好き」は「点」、「愛」は「面」と捉える事です。

「好き」というものは感情の一つであり、人でもモノでもある一点に関しての感情です。顔が好き、優しさが好き、話し方が好き、匂いが好きなど、「好き」には明確な対象が存在していると感じています。
他方、愛は抽象的なものです。顔を愛している、匂いを愛しているとは言いません。その人のすべてを愛しているのです。

点と面では受け止められるものの大きさが違います。
愛、つまり面となることで障害を乗り越え、現実を受け止め、そして許すことができるのだと思います。
愛の行き着く先は「許せる」ということになりましょうか。


好きになれないから恋愛ができない
好きじゃないから仕事に打ち込めない
好きなことがないから退屈
好きを起点に考え、鬱鬱とした気持ちに沈む辛さは痛いほどわかります。
しかし、好きと愛が延長線上にはなく、好きからでなくとも愛が生まれると考えると幾分楽になります。
近年の小説や映画や漫画などでは「好き」という感情が美化して描かれて過ぎているきらいがあると感じます。
これらは創作なので何も悪いとは言いませんが、私たちが生きる世は創作の世界ではありません。

無理に「好き」にこだわらなくても良いのではないでしょうか?

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