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うつ病・二拠点生活・トラウマ・SNS【9回の裏2アウトからでもバットを握る】
はじめに
この記事では、心の病のことを書きます。タイトルを見たこの時点で心がザワザワする方はUターンしていただいたほうが良いかもしれません。
特に年末年始だからというわけではないのですが、私の心の中でひとつ区切りがついたようなタイミングなので、言葉にしておくことにしました。
※心の病気には個人差があるものだと思います。発症の原因も、発症後の症状も経過も様々です。病名も出していますが、私が専門の知識を持つ方と話をして「あくまで私の場合は」という形で聞き、自分自身で解釈していることです。やったことも効果があったことも、あくまで私の場合、の話です。同じ病気の人も比べないでほしいし、何か共通するものを感じて心がざわざわする方は、専門の医師の方に診察していただいてください。
うつ病
今年の3月にうつ病と診断された。
とある仕事外の定例1on1で、開始直後から涙が止まらなくなった私は「心療内科に行った方が良い」との助言をもらった。
1on1終了後、涙を拭いた山盛りのティッシュの塊を横目に、すぐにメンタルクリニックを探した。次の日の夕方に予約が取れた。
予約を終えたら、誰かに「行ってきなよ」と言って欲しかったんだと思った。自分では許せないから許しが欲しかった。
だけど翌日、どうしても自分がやらないといけない仕事がある。朝から休む勇気はない。でも幸い在宅勤務の日だった。会社には出社しなくて済む。
午前中、訳も分からず出てくる涙を拭きながら仕事をした。多分あと少しだって安心したんだと思う。お昼休みの終わり頃、最悪ここまでやれば大丈夫だろうと思ったところで、部署のチャットに「体調不良のため早退します。申し訳ございません。」と投げて、逃げるようにクリニックに行った。
クリニックに着くと想像よりもたくさん人がいて、待合室で空席を見つけるのも一苦労だった。正直、もうこの時点で「何もしなくて良くなりたいから診断書をくれ」と思っていた。
初診なので問診票を書いて、提出し、名前が呼ばれるのを待つ。待合室は風邪の時に行く診療所とさして変わらない。でもみんな心のことで悩みを抱えている。無機質で静かな院内は暗く感じた。
名前を呼ばれて診察室に入る。問診票をもとにいくつか質問される。今の状況を話し始めたら涙が出た。途切れ途切れにしか言葉が出てこない。だってなんでこんなに苦しいのか自分でも分からない。話している間、使ってくださいと言わんばかりに置かれていた目の前のティッシュを見つめていた。それに手を伸ばす余裕もなかった。先生の顔は見ていなかったけど、相槌や質問から優しさだけは伝わってきて余計に泣いた。先生に「とりあえず明日から仕事はお休みしましょう」と言われて、やっと顔を上げて小さく頷いた。妙な解放感と安心感。この後血液検査や簡単なテストなどがあると案内されて、診察は終わった。最後の最後に、マスクの中が涙と鼻水でぐちゃぐちゃの状態で「ティッシュ、いただいてもいいですか」と、やっと目の前のティッシュに手を伸ばした。
その後、血液検査や心理士の人からの休職時の注意事項などを聞いて、会計を待つ。名前を呼ばれて、簡単にクリニックについての案内をされる。作ってもらった診察カードや明細、処方箋と同じように、流れるように診断書が差し出される。療養期間や氏名に間違いがないか確認されたけど、目に飛び込んできたのは、病名の欄。
病名:うつ病
そういえば、診察時に病名は言われなかった。記載内容確認の声掛けには、上の空で「はい」としか言えなかった。
うつ状態<適応障害<うつ病という情報だけはあったので、今の自分ってそんなにヤバいのか思った。自分の体感と病名が全然合っていなかった。
クリニックと同じビルに入っている薬局に行って薬をもらって外に出る。雨が降りそうな暗い空で、「あ〜私うつかぁ」と思った。自然と足が駅の改札ではなくルミネに向かっていった。そのまま家に帰るのが怖かった。
普段から利用するカフェに行って注文をし、席に座る。診断書の入った封筒から二つ折りにされた診断書を取り出して、そっと開く。店内はそれなりに混んでいたので、周りの人に見られないように。診断書にはやっぱり「うつ病」って書いてある。あぁ、見間違いじゃない。
カフェを出ても帰る気になれず、意味もなくフロアを見て回った。いつも買い物をする店にふらふらと入る。買いたいものなんて別にない。少し落ち着いてから立ち止まって、心療内科に行くよう勧めてくださった方と、兄のような人と姉のような人にだけ連絡した。家族にはしなかった。
休むとなったら時間ができるからと、本屋に立ち寄って韓国語の単語帳を買ってみたりした。その時は、「余暇時間ができる」くらいに思っていた。
休職なんて初めてだから、何から手続きしたらいいのか分からなかった。とりあえず、帰りの電車で会社の先輩に連絡を入れる。その後すぐに他の先輩からも心配の連絡が来る。いつも良くしてもらっている先輩たちなのに、いきなりかかってきた電話には怖くて出られなかった。
家に帰ると妙に冷静な自分がいて、Googleカレンダーで直近の予定を確認して、いくつか連絡が必要な方達に連絡を入れる。最後に、何を送ったら良いか分からずに後回しにしていた上司にチャットを送る。1番初めに送るべきだったんだろうけれど、怖くて無理だった。会社で1番優しい人なのに。チャットを送った後、すぐにノートパソコンの電源を切った。その日はキャパオーバーだったのか、布団に入ったらすぐに眠れた。
診断後数日はほぼ布団の中。会社とのやりとりが終わって休職が正式に決まってからは、安心してとにかく寝た。ちゃんとした会社なのでスムーズに休職期間は始まった。ありがたかった。
3日経って、やっと家の外に出た。駅前の人混み。いつも人は多いしうるさいし大嫌いだった。でもその日は、通る人みんな元気でいいなと思った。数日前までは、私もこの景色に溶け込んでいたはずなのに。満員電車に揺られていたはずなのに。自分だけ別の世界にいるような感覚。
私はある日突然「うつ病の人」になった。
二拠点生活
クリニックでは「規則正しく生活を」と言われた。だけど、とてもじゃないけどそんな生活出来なかった。とにかく布団の上から降りたくない。身体を起こせない。トイレに行くためにやっと起き上がり、ゼリーを1つだけ食べて1日を終えることもあった。動いていないからそれでも大丈夫だった。
でもさすがにこれはまずいと思い、診断から10日程経った頃、観念して両親に連絡し、一時的に実家に帰ることにした。
実家に着いて、どういうことか説明する、予定だった。でも、自分でも何が何だかわからないので、診断書を見せながら「うつ病って診断された。仕事はしばらく休職します。」としか言えなかった。
クリニックは2週に1回。それに合わせて東京の1人暮らしの家に数日帰り、残りは実家に戻る。そんな二拠点生活が始まった。
二拠点生活中の3月〜7月に何をしていたか、あまり覚えていない。診断された日のことははっきりと覚えているのに、不思議だ。
覚えているのは、病院には2週に1度しっかり行っていたことと、実家にいたら3食食べ、しっかりお風呂に入り、毎日同じくらいの時間に日記を書いてから眠っていたこと。たまに人に会っていたこと。それくらい。
日中は何をして過ごしていたのか。ほとんどぼーっとしていたような気もする。
診断された日に買った韓国語の単語帳は、やってみようとしたら3分で集中力が切れて無理だった。見たいと思っていたドラマをNetflixで見てみようと思っても集中できなくて見ていられなかった。
出来ていたことが出来なくなる絶望感。それ以上絶望したくなくて、好きなものも遠ざけたりした。
散歩に行っても、縁側でぼーっとしていても、どうしてこうなったのか、過去の出来事を反芻することしかできなかった。後悔が次から次へと溢れて来て、溺れそうだたった。もはや溺れていた。でもどうしたらそれを止められるのかわからず、インプットができないから、余計に頭の中にはいつも過去の後悔だけが回っていた。
その頃から手書きの日記を書き始めた。誰にも見せないのだから、文脈は気にしないで本音だけ書こうと決めた。「死にたい」とか「消えたい」とかよく書いてあった。自分からそんな言葉が出てくることにびっくりした。何もできないし、出来ていたことすら出来なくなるし、ネットで「うつ病」と調べれば調べるほど、先なんて見えないし、人生詰んだし。でも実際に「死」を行動に移す勇気なんてないから、誰にも迷惑をかけずに存在がふわっと消えたらいいなと思っていた。
心療内科の先生には、初めに「3ヶ月くらいで調子が上向いてくる」と言われていたものの、抑うつ状態は大して変わらない。むしろ睡眠状態は悪化していた。もともと朝まで1度も起きず夢も見なかったのに、夜中や早朝に何度も目が覚める。中途覚醒、早朝覚醒。(でも今思えば、前の状態は気絶、過眠に近かったんだろうと思う)
深夜起きるのは大抵2〜3時台。深夜3時台に何度も何度も何度も起きて、「このまま深夜3時の世界から抜け出せないのかな」なんて思ったりした。
状況は変わらないまま、休職可能期間はどんどん過ぎていき、8月末に退職することになった。それに合わせて、東京の家は引き払い、実家に完全に戻ることにした。単純に悔しかった。元々実家にいるのが嫌で、兄弟の中で1番早く家を出たのに。会社もやっと勤続5年まできたのに。でも先が見えない中、実家を頼るのが最善だった。頼れる実家があるなんてありがたいことじゃないかと言い聞かせた。
少しづつ引越し準備を進めていく中、引越し1週間前、東京にいる間に事件は起きた。
左肘骨折
出先で階段を踏み外し、後ろに何段か落ち、壁に左半身をぶつけた。頭も軽くぶつけたので、若干ふらっとはしたけれど、直後は特になんともなかった。
けれどその後じわじわと痛みだし、数時間後には三角巾を巻いた時のような姿勢を取らないとどうにも痛みを我慢できなくなっていた。むしろそれでも痛い。しかも最悪なことにその日は日曜日で、病院はどこも休み。時間が経ってしまったのでもう夜。どうしようかと思ったけど、まずは救急電話相談に電話し、最終的には救急車を呼んだ。
変な態勢になりながら1人で救急車を待つ間、「本当になんなんだよ!!!」と泣きそうだった。実際ちょっと泣いたけど、救急隊員の人に見られたくなくて、ティッシュを目に当てて切り替えた。最後の意地。
何とか受け入れ先を見つけてもらって、夜間の救急外来でレントゲンをとり、MRIをとり、先生に「折れてますね〜」と言われた。こっちは地獄からまたもう1段下の地獄に突き落とされたような気分なのに、「先生、ものすごいカジュアルに『折れてますね』って言った…」と思った。なんだか最早ちょっと面白くなって来ていた。
人生で初めての骨折。初めてのギプス。防災訓練でしか使ったことのなかった三角巾。三角巾を巻く練習をした時は、「巻かれる側」になることなんてないと思っていたのに、一瞬で「巻かれる側」行きだった。
全て終わってからタクシーを呼んだらすぐ着くと言われたのに全く来なくて、あまりにも長い待ち時間に色んな記憶が溢れ出し、本気で「神様、私何かしましたか?」と思った。いくら何でもこんなに色々重ならなくたっていいじゃないか。
骨が折れても、変わらず引っ越しの日はやってくる。段ボール詰めもゴミ捨ても、全部右手だけでやった。実家に帰るのも、骨折したのも、自分のせいだから、淡々とやるだけ、なんだか気が紛れたような気もした。
引越し当日は父と弟に手伝ってもらった。私はほとんど戦力になれず、8月の真夏日に大汗をかく2人を見て、無性に「死にたいな」と思った。迷惑をかける分、せめて1人で出来ることはしたかった。家族なんだから甘えたらいいじゃない、なんて思えなかったから。
二拠点生活って、もっとキラキラした希望溢れる言葉だと思っていた。なんなら、自分も将来できたらいいなとも思っていた。今はそんな自分に「まず一拠点を守れよ」としか言えない。
何とも言えない後味の悪さで、私の二拠点生活は終わった。地獄の底にはまだ地獄があったらしかった。
トラウマ
うつ病の診断から3〜4ヶ月経っても、「うつ病」の通例通りに回復していかない。心療内科の診察だけではなく、何か自分から行動を起こさないといけないと思った。
信頼している方に紹介していただいて、8月からカウンセリングを受けることにした。
初回では、先生に「今日は細かいことは話さなくていいから、これまでのことを目次のように話してみて」と言われた。いきなり具体的な話をしてしまうと、嫌な記憶が溢れてしまうから、慎重に、丁寧に抑うつ状態の原因になっているものを扱うためにというような趣旨だった。
生まれ育ちや経歴などを順番に話していく。途中で話が止まらなくなりそうだったのは「家族関係」。あと、「新卒の時に、パワハラ、セクハラが…」と言ったら、涙が溢れて止まらなくなった。その単語だけで。先生に「今日は目次だから、一旦それ以上は話さなくて大丈夫ですよ」と制された。
ひとしきり話したら、「重度のPTSDによって抑うつ状態が引き起こされている、というのが今の状態に1番当てはまると思います」と言われた。
PTSD / 心的外傷後ストレス障害PTSD(Post Traumatic Stress Disorder)とは、命を脅かすような強烈な心的外傷(トラウマ)体験をきっかけに、実際の体験から時間が経過した後になってもフラッシュバックや悪夢による侵入的再体験、イベントに関連する刺激の回避、否定的な思考や気分、怒りっぽさや不眠などの症状が持続する状態を指します。日本語では“心的外傷後ストレス障害”といいます。
安心した。この反応が一般的かどうかなんて知らないけど、私は安心したしスッキリした。嬉しささえあった。ネットでいくら調べても、うつ病は完治しない、寛解を目指すしかないとしか書いていなかった。寛解って、治らないって何?と思っていた。時間が経っても状況が変わらないのは、トラウマを自分から掘り起こして反芻していたから。自分の首を自分で絞めていたわけだ。
トラウマに対しての治療をすれば良い。そのことが分かっただけで、急に前向きになれた。治ったという状態については「簡単に言うと、日常的にトラウマを思い出さなくなって生活に影響が出なくなったら」と教えてもらった。
初回の最後は、モヤモヤが浮かんだ時に一旦手放して遠くに置く治療法について教えてもらって終了した。
それから2週に1度のペースでカウンセリングを受け続けている。トラウマやモヤモヤと距離を置く。然るべき時に向き合う。それだけでだいぶ楽になった。
年内はほとんど家族関係について向き合ってきた。
祖父が亡くなった小学校低学年の頃、私は家の大人たちの関係がギスギスしていることに気づいてしまった。
誰かと誰かがピリピりしていたらわざと話題を変えたり、各々の愚痴の聞き役になったり、これは後で何か起きそうだと思ったら事前に対処しておいたり。何をしていたかなんて書き出したらキリがないけれど、そんな感じで家を出るまで過ごしていた。
私はずっとこれが自分の家族の中での役割だと思って生きてきた。衝突が防げなかった時、何か起きた時、「止められなかった自分のせいだ」と自分を責めた。
そんな感じだから、家で弱音を吐ける場所なんてなくて、外で信頼できると思った大人にだけよく懐いていた。子どもの頃から両親に心の内を相談することなどなかった。
カウンセリングが始まってから、私なりに日常でトライアンドエラーしてきた。自分に関係のない問題はなるべく気にしないこと。境界線を引くこと。教えてもらった治療法でモヤモヤから距離を置くこと。
でも根本的には、目の前にいる人たちとの、これからも続いていく問題。だから、最後は対話して終わりたかった。
少しずつ心が整って来た頃、両親との対話を試みた。真正面から対決するくらいの、一世一代の勇気を振り絞って対話を持ちかけたけど、全く対話にならなかった。謝ってほしいとか、そんなことは思っていなかった。向こうからしたら私が勝手に気を揉んでいただけなのかもしれないし。それさえわからないから、ただ考えを知りたかった、知ってほしかった。
結果的には、失敗というか余計に傷つけられて終わった。その日は泣きすぎて眠れないほど頭が痛くなった。悔しくて、悔しすぎて。でも次の日起きたら、私がやることは全部やれたと思えた。これをやらなかったら前に進めなかったと思う。
対話して、変わってほしいとか、わかってほしいとか、そんな風に思っていた。多分それに固執していた。家族だから。
でもそれは私の勝手で、家族だとしても他人は変えられないし、完全にわかり合えもしない。文字にするとなんだか悲しそうに見えるけど、私はなんだか腑に落ちてスッキリしてしまったんだ。
最終的に家族の問題は、私が不要な役割を下すことで区切りをつけた。カウンセリングで先生に報告したら、「本来当人たち同士の問題で、なつみさんが責任を持つべきことではないです。寧ろ子どもに見せないようにするのが普通です。」と、先生は力強く言ってくれた。
あと、最初私は「諦めました」と報告したけど、それだと「なつみさんが悪いみたいになるから、役割を下ろしたと思ってほしい」と言ってもらった。
まだ完全に気にしないようになれたわけではないし、心がざわざわすることもあるけれど、前ならざわざわするような場面で「あー、またやってんなー」くらいに思えるようにもなった。こうやって行ったり来たりしながら、ゆっくりこの問題から私自身離れていくんだと思う。
少なくとも、苦しくてこっそりお風呂で泣いていた自分は救えたんじゃないかと思う。これを家族が見たら泣くかもしれないけれど、家の中の大人たちの姿を見ていたから、それを反面教師にして私が出来たと胸を張って言える。胸を張るような場面ではないけど。だから今はこれまでのことに感謝さえする。ありがとう、安易に人を傷つけない大人にしてくれて。他人の気持ちを考えないような行動をしない大人にしてくれて。
パワハラとセクハラの件は、まだカウンセリングで取り扱いし始めたばかり。でも、この数ヶ月の治療で少しづつこちらのトラウマへの捉え方も変わってきたように思う。
パワハラしてきた上司のことは、「クソババアくらいには思えるようになった」と、この間カウンセリングで先生に報告したら、先生は「いいですね」と笑っていた。(自分の名誉のために言うと、そんな言葉は人生で初めて口に出した。)
「新人教育として、私のためだったのかな」と思ったりしたこともあったけど、「やっぱり人としておかしくないですか?」くらいのことを思えるようになったのだ。入社と同時に始まったアレは、貰い事故のようなものだ。
ひとまず「パワハラ」その単語だけで、涙していた私はもういない。
仕事を変えたり、家から出ることで、ずっとトラウマを思い出さないように、触れないように回避して来た。箱に入れて心の奥底にしまっておいた。そうしないと心を保てなかったから、忘れたかったから。
でもこの数年間で、向き合うタイミングが来て、箱を開けてすべてが溢れて、収集できなくなっていた。
うつと診断された頃は、そんな過去と向き合うことも真剣にやっていて、目の前の仕事もあって、トラウマのフラッシュバックのようなものも起きて、予定していたワーキングホリデーのこと、新しい仕事のこと、とにかく未来のことも考えないといけなくて…と頭も身体もパンクしそうだった。過去と現在と未来について頭の中を高速で切り替えながら、1日が過ぎていった。
そしてパンクした結果、涙が止まらなくなった。
トラウマ治療で、私の体感ではものごとの見方や捉えが変わって来た。それはとても面白くもあり、苦しくもあり、弱い自分を認めることでもあり、自分を慰めることでもあり。
でも、先程反面教師にして…という話をした通り、この傷があったから、今の私になったことは、ここまで引きづり続けたことからも明らかで。
傷は消えない。最早私を作る一部だから。それを受け止めて、傷ついたからこそ生まれた私の人格を見つけて、トラウマから引き離せたら。
傷の中から私の良いところを見つけたら、その傷に貼った絆創膏に、ハートマークを書くのだ。そしたら、私の人生は、全く違うものになるのかもしれない。
SNS
年末、Xにこのポストが流れて来た。
最近、全SNSを辞めた妹。理由を聞くと「未熟だからうまく使えないんだよね。見てもポジティブな気持ちになることってほとんどなくて、劣等感を感じるばっかり。しかも自分でわざわざ見に行ってそんな気持ちになってる。これは自傷行為と同じだから」と言っていた。とてもすっきりした表情だった。
— 絹 (@__ki_nu__) December 28, 2024
見た瞬間「ゲッッッ」と思った。思ったその数分後には、このnoteに連携しているXに「SNS断捨離するので、アカウント消します!」と投稿していた。痛いところを突かれたと思ったのと、こういうものは勢いだから。
消しますと言ったアカウントは、うつ診断された頃にログアウトはしていた。元々Xは息を吸うように見ていたので、いつでも見られるようにしておいたら、手癖で開いてしまう。
何かを頑張っている人たちとの繋がりが濃いアカウントは、キラキラ眩しく、寝ていることしかできない自分には刺激が強過ぎた。みんな頑張っているだけで誰も悪くないのに、誰かのことを羨んで憎く思ってしまうようになるのなら、離れた方が良い。
アカウントは、自分のサービスを作ると決めてからは、それを知ってもらうために使うと決めた。でも心の底からはなかなかそれが出来ずにいた。フォローしたら、客候補と思われてるって嫌がられないかな、などと考えていたし、「このサービスをする人としてはこの投稿はやめた方が良いかな」などと思って投稿をやめることもあった。
そんな中途半端な自分も嫌で、目に入ってくる、所謂「SNSの使い方が上手い人」が羨ましかった。色んな情報が流れ、その波にのまれていく感覚も良くないなと思いつつ抜け出せないでいた。
Xは、更新せずに存在を忘れられるのが怖くてたまに更新したりしていた。なんともカッコ悪いけれど、私なりに孤独に抗っていた。
Xのアカウントは、消すけれど、noteは残すことにしている。理由は2つ。
1つは、自分から情報を見に行かない限り、見たくない記事を見ることになる可能性が低いから。これはnoteをやっている人ならみんなわかると思う。noteで思わぬ形で過激な発言に出くわすことはほとんどない。
2つめは、見つけてくれた人がいたから。続けて書いていた日記は、集客というよりは思考の垂れ流しという感じだった。うつ病の診断が降りたまさにその日の夜、サービスのお申し込みがあった。全く知らない人、恐らくnoteから見つけてくれた人。もがきながら書いていたnoteに意味があったと思わせてくれた。もちろん、お断りするしかなかったのだけれど…。こんなタイミングでこんなことが起こるんだと思ったし、また立ち上がるための支えをもらった気がしていた。ずっと心に残っているし、きっとこれからも忘れない。
結論、Xもnoteもありのままを書いて反応をもらえることが嬉しかった。作った私の声ではなくて、ありのままの私の声。
実は3月に新しいXのアカウントを作っていた。こちらも残す。最低限の情報確認と何か呟きたくなったら呟く用。本音だけを、誰にも気を使わずに投稿する。それ以外の目的なんてない。初めはほとんど投稿していなかったけれど、少しずつ体調が上向くのと比例して、投稿頻度は上がっていった。
知り合いの誰にも教えていない0からのアカウントは、初めはもちろんフォロワーも0。でも年末には150人ほどになった。
ありのままの言葉に共感してくれる人がいるのがとてもありがたかったし、優しい言葉を掛けてもらうこともあった。でも少し違和感も感じ始めていた。
そのタイミングで冒頭の投稿を見た。
振り返ると、窮屈さを感じていた時のXの使い方に近付いているような気がする。人からどう見られるか気になり始めていたし、反応の数も気になったし、おすすめ欄に流れてくる顔も中身も知らない人の過激な発言に振り回されてもいた。
SNSの奴隷になって、折角湧いてくる感情やインプットした大切な情報を、次の日には忘れてしまうようなゴシップや過激な言葉に流されてしまうのは嫌だった。
新しく作ったXのアカウントで、考えたことを投稿して共感して貰えたりすると嬉しい、と話したら、「大海に小瓶を流すような感じだね」と言ってくれた人がいた。
そうだ、誰にも見られなくてもいい、もし誰かが見つけてくれたら奇跡で、嬉しい。それだけだった。言葉だけで繋がる場所。
「伝える」は私の中でとても大きなキーワードで、SNSを完全に断つことは出来ないんだと思う。これからどんな仕事をするかはわからないけど、SNSとは離れないんだとも思う。
だけど今、何者でもない私でいられる貴重な時間だから、私の中で大切な感情を純粋に育てたい。別の場所で世界を広げたい。本気のSNSは、必要になった時にまた頑張れたらいい。
私はまだ未熟だから、上手くSNSを使えない。だから、今はどうやって使うか決めた。もう少し「大海に小瓶を流すようなSNS」をやっていたい。そこで出会えた感情を大事にしてみることにする。
9回の裏2アウトからでもバットを握る
うつ病と診断されてから急に始まった「タイム」の時間。人生でこんなにも長い間休んだことがあっただろうか。「タイム」なんて初めて使った。使うのが、弱みを見せるようで怖かったから。
「タイム」じゃなくて、もう選手交代してほしい。この試合から降りたい、と何度も思った。うつ病と診断された時も、先が見えなくて寝ているしかなかった時も、骨折した時も。9回の裏2アウトみたいに崖っぷちで、もう逃げ出したかった。
でも私の試合、私の人生だから、選手交代なんて概念はなくて、私がバットを握らないと次に進めない。
だから私は私の意思で、バットを握ってバッターボックスに立って、トラウマを倒して次に進むために、家族との対話、私が願う理想の結果、ホームランを狙った。
でも結果はいいとこ内野ゴロで、アウトになって試合終了。でも全力でバットを振ったと言えるから、後悔していない。バッターボックスに立ったから、分かったこともたくさんあった。それに試合が終わったから、また次の試合に備えることができる。進めたってことなんだ。勝つこと以外は終わりだと思っていたけれど、試合に負けることにも意味があると初めて思えた。
バッターボックスに立つ時は1人。人生もそうだなぁと思う。元々「孤独」を極端に怖がっていたけれど、人はいつだって常に1人なのだ。でも周りに人はいる。
「タイム」を取ってみたら、立ち上がれない原因を一緒に探してくれる人やアドバイスをくれる人、声をかけてくれる人、見守ってくれる人がいて、1人だけど孤独ではなかった。「タイム」を取るまでちゃんとわかっていなかった。
これからまた次の試合の準備をする中で、泣くこともあれば悔しい思いをすることもあると思う。試合が始まってからも、バッターボックスに立つのが怖くなることもあると思う。でも私は「タイム」を使って誰かを頼る方法を知った。迷わずタイムを使う。「今、私無理です!」「困ってます!」と言う。そんな弱い自分もカッコ悪い自分も認める。人に見せる。そこまでしても、次はホームランが打ちたいから。ホームランは出なくても、後悔したくないから。
また9回の裏2アウトに追い込まれても、逆に見せ場だと思って、ワクワクしながら、バッターボックスに立つ。そしてホームランを狙えるくらいになれたら。怖いものなんてないのかもしれない。そんな自分になれたら、残りの人生楽しそうなんじゃないかと考える。
実際の野球ではこんなにのんびりしていられないと思うし、そもそも「タイム」の意味もズレるのだけれど(笑)私の大好きなSEVENTEENのHOME;RUNを思い出しながら。
あとがき
この1年程、「体調不良」や「キャリアブレイク」などとぼやかしていた期間のことについて書きました。長い文章を書くのが久しぶりすぎるし、構成も何もないですが、今書けること、書きたいことを楽しく書いたつもりです。前半はありえないくらい暗いですが。
正直、もっと細かく書かないと伝わらない部分もあると思うし、誤解されたくないから補足したいこともあるのだけれど、全部を1つの記事にまとめることを優先したくてやめました。
それに、この文章だけで全部が伝わるわけもなくて、もし私が数百倍文章がうまくても、言いたいことが過不足なく伝わることなんてあり得ないと思います。
だから、もしわかりたいと思ってくれる人がいたら、お話ししましょう。完全に「わかり合う」ことはなくても、「わかり合いたい」と思うことが大事だと、この期間に改めて思いました。
こんな状況に喜んでなったわけではないし、メンタルブレイクなんてしない方が良いけれど、1度全てを手放して休むことってそんなに悪くないかもと思っています。もちろん先の不安がないと言ったら嘘になりますが。
一杯一杯だった世界から離れてみたら、見えていなかった世界が見えてきて、また世界が広がりました。これは思わぬ誤算で、自分の見えている世界の狭さに驚くと同時に素直な好奇心を思い出させてくれました。
何よりも、私の中の正義、あるべき姿、信念をもう1度見直すきっかけにもなりました。私が貫いてきたその考えは本当に正しいのか?自分の首を絞めていないか?誰かへの優しさと見せかけた保身ではないのか?言い出したらキリがないけれど、こんなこと。
トラウマの章でも話した通り、傷ついたからこそ出来上がった自分をちゃんと好きになることもできました。トラウマと向き合うことで、他にも持っていた暗く、重い感情も少しずつ形を変えてほどけていった気がします。
最初はもっと早く元気になるだろうと思っていたのに、原因に辿り着くまでが長くて苦しくて、何だかんだまだ完全に本調子ではないです。トラウマ治療も続いているし、動かないから体力は落ちたし。
それでも希死念慮のようなものは今はなく、生きることには前向きです。というかこのまま死ぬなんてあまりにももったいなくて、自分が可哀想で、というか。
もし死後の世界があるのなら、意地の悪い人は地獄に行くと思っているので、もしこの先理不尽な目に遭っても、「その意地悪であなたは地獄に行くのに、私はその意地悪を優しさに変えるので、天国に行くチャンスをくれてありがとうございます」くらいには思えるようになりました。強気。
2025年は、もっと具体的に、ホームランを打つ準備をしていこうと思います。30歳でうつになって、無職になって、実家に帰ることになって。人に「あの人の人生詰んでるわ」と思われても、私は私の好きなようにやるので。そう思えるくらいの強さは2024年に手に入れられました。
最後に、私がこんな状態だと知りながら、ずっと付き合ってくれた方々、本当にありがとうございました。ケアをしてほしいとは思っていないけど、どうしても「ケアをする」と思わせてしまうような状況の中で、フラットな関係でいようとしてくれたことに感謝しています。
謙虚に、真面目に、素直に、人も自分にも思いやりを持って、楽しく、時には図々しく、2025年は過ごしていきたいです。
とっても長い文章になってしまいました。最後まで、読んでくださった方がいたら、ありがとうございます。
これまで繋がってくださった方ともこれから出会う方とも、良いご縁を繋いでいけますように。今年もよろしくお願いします。
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