火消し
小川洋子さんの『密やかな結晶』がブッカー賞にノミネートされた。受賞作の最終発表は5月19日を予定している。
その物語の主人公は小説家で、喪失の話を描く。彼女の暮らす島では人々の‘記憶’が失われていき、秘密警察という組織が失われた記憶の消失を補完するように記憶に纏わる物品の押収を行い、そして記憶を失わない体質を持った人を連行する。
今の日本は情報過多となっている。グローバリゼーション、ソーシャルネットワークサービスの影響で、時間の距離の障壁を超え、手軽に様々な情報を発信し受信できる。
しかし、この小説はその逆の世界、例えばエメラルド、香水、カレンダー、本、そんなものも概念が一つずつ消えていき、概念が消えると人々はそれがなにかさえ分からなくなり、秘密警察がその物自体を押収しに来て物が破棄されてしまえば、それがあった事実さえ忘れてしまうという、’情報’の欠落が引き起こされていく。
興味深いのは、情報の欠如が進むにつれて、もともと権威的である秘密警察はさらに強権的になって行き、また情報の欠落がある程度のレベルになり臨海すると、情報の欠落自体が人々の生命に危機を与えるほど深刻になることだ。
そのコントラストが物語の帰結と言っていい。
――本を焼く者は、やがて人も焼くようになる。
この引用が文中にあるように、ナチスの焚書を題材の一つにしており、『アンネの日記』からの影響を受けているらしい。私がそのファンタジックな世界観を、何処かリアルに感じたのは、そこに起因していると思われる。
――今、日本の言論は適切か。
そう問われれば、私ははっきりと否むだろう。
その理由は何なのか。
なにがそう答えさせるのか。
要因は幾つか思い当たる。
一つは、発信する記者の立場が弱い。
一つは、メディアが資本という権威の上に立っている。
一つは、記者の資質や能力の問題、特にその姿勢に保守的な基盤がある。
つまりは、権威が恣意的に攻撃すれば、比較的簡単に倒せるものになってしまっている。そしてそこに付け込んでいる権威が間違いなく存在しているからだ。
その権威とは、なにも政治だけでなく、個人や集団というものでも獲得出来得るものとなっている。
ときとしてそれは、個人や集団の名を借りた政治であることさえある。
そういった力は、悪用されてしまえば、言論を圧し潰して、簡単に殺しにくる。
あいちトリエンナーレの件がまさにそれだった。
あれは公権力と市民団体、どちらもが明らかに加担していた。あれほど明らかだったことはむしろ稀かもしれない。
あの場において、公権力の行使による表現への介入を頑なに拒んだ大村知事がいなければ、完全な封殺にあった可能性さえある。
そしてこのとき秘密警察の役割を果たしたのは、文化庁であり名古屋市長であり、右翼団体そして一部のネットユーザーであった。
彼らが焼こうとしたものは、果たして作品というものだけだったのだろうか。
私はその展示会および作品の背後にある‘概念’だったと思う。
そして‘概念’を焼いた後に焼くは、別のものだ。
それら全てを介したのは‘炎上’だった。
‘炎上’という言葉はよくできている。
炎を燃え上がらせる行為から‘炎上’である。
これは現代の焚書であると考えていいだろう。
人が炎上というものを恐れるようになって、この国に溢れるようになったのは、煙の立たない言論、消火作業な言論ばかりになりつつある。
つまりここは、通常の言論の‘概念’を消された後の世界だと、言えなくはない。
私が『密やかな結晶』を読んで思うのは、それにつきる。
火消しの言葉が、火消しの政治、報道、そして言論が、現代には溢れすぎている。
政治家は自らの過失を追求されないよう誤魔化して、報道は政治家の言うことをただ伝達するだけ、人は炎上を恐れて口を噤んだり噤ませたり、政治を語るだけで‘炎上’する。
ここで思う。
私たちは情報をアップロードしダウンロードしているつもりが、情報を一つずつ消してしまっていないだろうか。‘炎上’という焚書に加担してしまってはいないだろうか。
私は炎上に加担したことがないので、その動機はいささか不明ではあるが、少なくとも、確信をもって思うのは、誰かを炎上させている人と言うのは、ただその対象を炎上させているだけではなく、それより多くのものを焼いている。
その人自身を、その人の発言の機会を、また同じような意見を持つ人の意見を、焼いている。
それも理由なく炎上させるケース、または偏った思想の下で炎上させるケースも多いのだから、炎でもって殺しにいっている。
一方で炎上を恐れる行動にもリスクがある。
火種のない、鎮火作業的に行われる政治、議論、報道などは、その炎を消すだけではなく、なにか大切なものを同時に消してしまっている。
国民が持つべき権利を、正しい情報を手に入れる術を、権威に向かって反論する機会を、ただただ消してしまっている。
それが人々の意図した作用でないとすれば、私たちは‘奪われて’しまっている。
そう危惧せずにはいられない。
私は心の中を見て欲しいと思う。
人々は、今一度、考えるべきだ。
我々の心の中に嘗てあったものが、失われていないだろうか。
自己責任だ、自分は報われないのに他の人が報われるのが許せない、そんな気持ちに支配されて、なにか失っていないだろうか。
私はそれらを取り戻す方法を知らない。
もし人を追い詰め、炎上させる言葉を使うのであれば、その人はそれがなにを焼いているのか、十分に自覚すべきだろう。
そして私たちは、奪われたものを取り戻す方法を、どこかで見付けなければならないのだろう。
今直面しているものは、まさにその’概念’がなければ、多くの犠牲が出てしまうようなことだ。
それを許してはいけないだろう。
『密やかな結晶』では、'概念'の喪失という崩落を止めることはできない。
小説で描かれるのは、主人公が書く小説と同じく喪失である。
しかし、記憶を失わない体質を持った人々は、その喪失ではない別の喪失を噛みしめる。
その喪失は悲しいものだ。
苦しいものだ。