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ドキュメンタリー『祭りばやしが聞こえる』について架空の座談会記録/不破静六

同じしぴ研究結社の大塚がやっていた記事に倣って、ドキュメンタリー映画の感想座談会を開いた。
対象となる作品は以下の『祭りばやしが聞こえる』だ。友人から薦めてもらったのだ。

「ドキュメンタリーは自分の思いを描く創作である」と言い切った伝説のドキュメンタリスト木村栄文による、門外不出の傑作。テキ屋(香具師)の人生と胸の内を、作家・森崎和江と木村の視点で描く。(1975年1月24日放送『祭りばやしが聞こえる』、第30回文化庁芸術祭賞優秀賞受賞)

忙しい人のために、本座談会を3行でまとめると次のようになる。

"伝統に対する敵が物知り顔で領土を拡大し、悲観的な郷愁が世の中を覆う。そして人間同士の絆は形骸化し、心の乏しさを引き起こす。それを救うのは、行動し続ける保守の姿勢だ。"

以下、座談会記録を綴る。

『祭ばやしが聞こえる』鑑賞感想座談会

【座談会出席者】
A男/保守的な考えの持ち主。少し短気。
B子/リベラリスト。A男に反発しながらもその深い考えを認めている。
C郎/会社員。焼きそばとタコ焼きが好き。
D美/デザイナー。エスペランティスト。
E爺/正論大好き頑固爺さん。他人の意見を聞き入れない。


ドキュメンタリーの主な登場人物

野田発二朗(福岡神農会 会長)
宮藤朋真/砕花(ネクタイ売り・歌人)
森崎和江(作家)

(1) 祭りが色あせる

(1)-1 祭りは、本当の自分を隠して他人となる新しい自分となるハレ舞台だが、ある意味では現実からの逃避とも言える。

祭りでは、男とて紅白粉で別の自分となる

A男「祭りの仮面や衣装を身につけるというのは、私たちの伝統として重要な意味を持つ行為だな。それは過去の偉大な先祖たちの生き方を尊重し、彼らの精神を現代に伝える手段だから。祭りでの仮面は逃避ではなく、歴史を讃えるためのもの。」

B子「でも、そういう伝統は結局、現実からの逃避と自己の隠蔽を助長するだけじゃない? 祭りで別の自分になることは、本当の自己を解放するのではなく、じっさいは圧迫する行為よ。私たちは、祭りでも日常でも、自己の多様性を受け入れるべきなの。」

C郎「ところで、祭りといえば、あの焼き鳥の匂いがたまらないよね。」

D美「焼き鳥ね、それよりも花火の美しさが心に残るわ。日本の夜空を彩る花火は、まるで童話の世界みたい。」

E爺「お前らの言葉は軽薄だ。祭りの仮面も焼き鳥も花火も、それは経済格差と社会の矛盾を隠蔽するための甘い鎮痛剤に過ぎん。祭りは商売人にとっては一攫千金のチャンスだが、その陰で搾取される労働者の姿が見えんのか?日本の祭りもまた、資本主義の歯車の一部にすぎないのだ。

我、今日一日、神のことなり、神とともに桃源郷に戯れる

(1)-2 屋台に並ぶ万寿香は見る者の目を欺くが、そこには祭りの賑やかな表面と虚飾に満ちた本質が見え隠れする。

店頭に置いている万寿香、実は偽物
店先の写真には赤や黄色の派手な花が咲く

A男「祭りは、伝統と形式美を重んじる私たちの文化を表すものだと考える。祭りの店先に飾られた偽の花は、実際には一過性の装飾ではなく、長い歴史と継承される文化の象徴である。日本のお祭りの本質は、ハッタリも許容する美学と精神性にある。」

B子「そんな伝統や形式に固執することが、本当に私たちの文化の本質かどうか疑問ね。派手な祭りの写真や偽の花は、単に表面だけを飾る虚飾に過ぎないわ。私たちはもっと本物を追求し、真実の美を見極める必要があるの。」

C郎「ところで、祭りの店先って言うと、いつも焼きそばの匂いがしてくるよね。」

D美「そうね、焼きそばの匂いもいいけど、お祭りの夜店のカラフルなヒヨコが目を引くわ。それもまた、日本のお祭りの魅力の一つよね。」

E爺「まあまあ、表面的な美しさに騙されるな。祭りの派手な写真や偽の花が何を意味しているかというと、それは資本主義の罠だ。店先の花が本物か偽物か、それは結局、商売人が利益を追求するための手段に過ぎん。そして客は、その偽りの魅力に引き寄せられて金を落とす。日本のお祭りも、消費文化の渦中にあるというわけだ。」

A男「それは違う。祭りの店先に嘘や偽りを見るあんたは、日本のお祭りの美しさをわかってない。それでもあんた日本人か。騙されたから店に文句つけるなど野暮だろう」

E爺「むう…」

B子「日本らしさがどうとか言う前に、私たちは、祭りをただの逃避行ではなく、自己を見つめ直す場として再定義するべきよ。そうすれば、真の自己実現に繋がる文化が生まれるはず。」

C郎「ふーん。ふと思ったんだけど、祭りの屋台で売ってるあのカラフルな綿菓子、あれって子どもの頃の夢を思い出させるよね。」

D美「そうね、綿菓子は目にも鮮やかで、祭りのような一時の夢を象徴しているわ。でも、それもまた人生の小さな楽しみの一つよね。」

E爺「いいや、お前らが何を言おうと、派手な祭りや仮面の裏に潜む現実逃避と自己喪失は、資本主義社会が生み出した悲劇じゃ。祭りの隆盛は、消費を煽り、人々をその場の快楽に溺れさせる。我々は、そのような偽りの幸福に惑わされず、現実の厳しさと向き合わねばならんのだ。」

テキ屋が祀る農業と商業の神・神農

A男「昔の知恵が色あせているというが、テキ屋という古き良き商法は、我々の文化を維持し伝統を守る重要な役割を果たしておる。彼らの持つ情熱は、変わることのない我々の心の支えであり、その価値は時代が変わっても変わらない。」

B子「そんな保守的な見方ではダメよ。テキ屋のような伝統的職業が苦境に立たされる今、私たちは新しい生き方を模索し、庶民に新たな生計の知恵を与えるべきなの。古い体制に固執せず、進歩的な変化を受け入れることが必要なのよ。」

C郎「そういえば、テキ屋の屋台で売ってる焼きそば、あれって昔の祭りの香りがするよね。」

D美「ええ、屋台の焼きそばは、確かに昔ながらの祭りの雰囲気を残しているわ。でも、それもまた時代と共に変わっていくものよね。」

E爺「お前らが何を言おうと、テキ屋の苦境は、資本主義とグローバリゼーションの波に飲み込まれた結果じゃ。伝統を守るだけでは生き残れぬ。彼らは大手チェーンに負けず、独自の戦略と革新的な商品開発で生き残る道を模索せねばならん。」

(1) 昔からの知恵も色褪せ、祭りの賑わいも失われつつある今日、庶民は時代の波に翻弄され苦悩と疲弊を深め、神々の遊びの裏には現実逃避と自己の喪失が潜む悲劇がある。

現代では絶滅の危機にある威勢の良い啖呵売(たんかばい)

A男「昔からの知恵が色あせるとはいえ、それは長い年月をかけて築き上げられた文化の象徴であり、テキ屋の啖呵売りもまた、我々の伝統と繁栄の証だ。これを失うことは、我々のアイデンティティの喪失を意味する。」

B子「だけど、そうした懐古的な見方は、進歩を阻害し、時代の変化に適応する機会を奪うのよ。テキ屋の苦境は、世の中が新しい生き方を求めるシグナルであり、現実逃避ではなく現実と向き合う勇気が必要なの。」

C郎「ねえ、テキ屋って言えば、祭りの屋台のゲーム、あれも昔と変わらないよね。」

D美「うん、そうね。でも、時代とともに、子供たちが遊ぶゲームも変わってきているわ。スマホゲームに取って代わられつつあるものね。」

E爺「お前らが何を言おうと、テキ屋の衰退は、社会の構造変化に対応できない結果として起こっておる。目先の楽しみに囚われず、持続可能な生活を築くための具体策を模索せねばならんのじゃ。」

まとめ

A男が言うように、祭りの仮面や衣装を身につけるという行為は、確かに伝統として意味を持ち、先祖たちの精神を今に伝える手段かもしれない。しかし、それが過去の偉大な先祖たちの生き方を尊重し、彼らの精神を現代に伝えるというのは、一面的な見方だ。なぜなら、B子の指摘するように、この伝統は結局のところ、現実からの逃避や自己の隠蔽を助長する側面を持つからだ。祭りで別の自分になることは、本当の自己解放ではなく、むしろ圧迫する行為とも言えるのではないか。私たちは、祭りでも日常でも、自己の多様性を受け入れるべきだというB子の言葉に、重い意味を見出すべきだろう。

C郎が言及する焼き鳥の匂いや、D美が心に残ると語る花火の美しさも、それぞれが感じる祭りの楽しみの一面である。日本の夜空を彩る花火は、確かに童話の世界のようにも見えるかもしれない。しかし、E爺の言葉には、もう一つの厳しい現実が込められている。すなわち、祭りの仮面も、焼き鳥も、花火も、経済格差と社会の矛盾を隠蔽するための甘い鎮痛剤に過ぎないという現実だ。そして現代の日本の祭りもまた、資本主義の歯車の一部という冷徹な真実を忘れてはならない。

伝統的な祭りへの様々な意見が示すように、我々はそれぞれ違った視点を持っている。しかし、それらの意見を深く掘り下げてみれば、伝統や形式美が真の美や文化の本質を表しているかどうか、疑問を投げかけることができる。祭り文化についての議論は、A男が伝統への敬意を示し、B子が自己の見直しを促し、C郎とD美が一時の夢に浸り、E爺が資本主義との関連で現実に目を向けさせる。それぞれの視点があることを理解し、時代の流れに合わせて伝統のテキ屋も変わるべきだということを認識することが、我々に課せられた課題である。

(2) 懐かしき哀愁

(2) 在日朝鮮人の祭りに心の安らぎを見出す森崎和江の胸には、幼い日の新羅の記憶が色褪せぬ哀愁として刻まれている。

森崎和江は少女の頃、朝鮮半島の新羅に住んでいた

A男「日本に居ながら、朝鮮半島の祭りに心を寄せる森崎和江の思いは、伝統というものの重要性を象徴している。彼女の記憶に残る新羅の風景は、文化の継承という観点から、我々が大切にすべき無形の財産である。」

B子「森崎和江さんの哀愁は、在日朝鮮人が直面するアイデンティティの複雑さと、受け入れられる社会の必要性を示しているわ。彼女が少しでも救いを感じる在日朝鮮人の祭りは、多文化共生の象徴として、さらに推進されるべきよ。」

C郎「へえ、新羅っていうのは今のどの辺りにあたるんだろう。歴史って面白いよね?」

D美「そうね、文化や記憶を大切にするのは素敵だわ。でも、日本の祭りにもいろんな背景があるのよね。」

E爺「在日朝鮮人の祭りが日本の片隅で行われるのは、彼らがまだ本当の意味で社会に溶け込んでいない証拠じゃ。森崎和江の哀愁は、ただの郷愁ではなく、日本社会の多文化への未熟さを露呈しておる。」

日本の片田舎で行われる在日朝鮮人の祭り

まとめ

A男が語る新羅の風景への憧憬は、伝統の継承という重みを私たちに突きつける。森崎和江の記憶は、過去への敬意を表し、無形の財産を大切にするべきだと訴えかける。しかし、その背後には、哀愁を帯びた郷愁という名の影がちらつく。

B子は、森崎和江の感情が在日朝鮮人の複雑なアイデンティティと結びついていると語る。祭りがもたらす一時的な救いは、多文化共生への希望の光として映るが、果たしてそれは本当の受容と言えるのだろうか。そこには、表面的な理解と深い共感の間の隔たりが存在する。

C郎の素朴な疑問は、歴史への興味を示すが、その興味がどこまで本質を理解しているのかという疑問を投げかける。歴史とは、ただの興味深い話ではなく、現在に生きる私たちに深い洞察を要求するものだ。

D美は文化と記憶の重要性に賛同するが、それが日本の祭りにどのような意味を持つのか、その背景を考えることの大切さを指摘する。日本の祭りもまた、多くの歴史と背景を持ち、それぞれの物語が複雑に絡み合っている。

そしてE爺は、在日朝鮮人の祭りが日本社会における多文化への未熟さを露呈していると断言する。森崎和江の哀愁は、ただの懐古ではなく、この社会が直面している深刻な問題を浮き彫りにしているのだ。我々の社会は、真の受容と理解を目指してはいるものの、その道のりはまだ遥か遠い。

(3) テキ屋の仲間意識

(3) 商売を超えた絆で結ばれたテキ屋の親分は、祭りの賑わいとは裏腹に、出店者の区割りと泊まり込みの指揮監督という地道な作業を行い、仲間たちとも儚い命の尊さと喪失の悲しみを共有する。

参道に申し込みの出店者が入り切れるかどうかの実測

A男「昔ながらの祭りの風景が変わろうとしているが、それでも私たちの文化としての祭りは、その歴史的価値を維持している。神聖な参道が出店で埋め尽くされることは、コミュニティの活力を示す象徴であり、これを守ることは重要だ。」

お祭り近くのテント小屋に泊まり込む親分たち

B子「でもね、祭りの本質は参道を出店で埋め尽くすことじゃなくて、コミュニティの絆を深めることよ。親分がテントに泊まり込むのも、喧騒の中で失われがちな日常の象徴だけど、そこに新しい価値を見出して変革を促すべきなの。」

C郎「あれ、そういえば、祭りの出店って、いつも同じ場所に同じものが並んでるよね。」

D美「そうよね。でも、この出店の配置って、実はすごく計算されているらしいの。下割りとかで、どれだけの出店が入れるか、しっかりと実測してるんだって。」

E爺「まったく、そんなことでは根本の問題を見逃している。祭りが商業主義に飲み込まれ、参道が出店で溢れかえるのは、地域社会の伝統よりも金儲けを優先する風潮が広がっている証拠じゃ。親分が泊まり込むのも、単なる指揮ではなく、経済的な利益を最大化するための戦略なんじゃないか。」

A男「なわけあるかよ。祭りの賑わいには、商売を超えた絆があるんだぜ。テキ屋の仲間たちが共有する命の尊さや悲しみは、お祭りの外側にも深い人間関係が息づいていることを示してる。伝統を守りながらも人々が支え合う文化こそ、私たちが大切にすべきじゃないのか。」

テキ屋仲間が幼い娘の葬儀をあげてくれた

B子「商売を超えた絆も大事だけれど、祭りの本質を見失ってはならないわ。神聖な参道が出店で埋め尽くされるのは問題で、指揮者が泊まり込むのも経済的理由からでしょう。私たちは、祭りにおける日常の大切さを再評価し、文化的な価値を回復するために変革を起こすべきよ。」

D美「そういえば、テキ屋の仲間って、家族みたいに固い絆で結ばれているらしいわ。それぞれの人生が交差する場で、彼らは互いに支え合っているのね。」

E爺「ちっ、そんなことよりも、祭りが商業化している現実を直視すべきじゃないのか。仲間の温かさもいいが、神聖な場所が金儲けの場に変わるのは看過できん。仲間の葬儀で集まるのもいいが、それほどの絆があるなら、なぜ祭りを金儲けの場じゃなしに、真のコミュニティの場に変えられんのか、その矛盾に目を向けるべきじゃ。」

まとめ

昔ながらの祭りが変容しようとしているが、祭りが文化としての価値を保持していることは確かだ。参道が出店で埋まるのが、コミュニティの活力を示す象徴とされているが、それは一面の真実に過ぎない。しかし、B子が言うように祭りの本質は出店の数や種類にあらず、コミュニティの絆を深めることに他ならない。親分がテントに泊まり込むのも、ただの営業手法ではなく、日常から逸脱した象徴として捉え、新たな価値観を持って変革を追求するべきだ。

けれども、C郎が気づいたように、祭りの出店はいつも同じようなもので、変化に乏しい。それはD美の指摘する通り、出店の配置が実は緻密に計算されており、下割りによって決められているからに他ならない。

だが、E爺が言うように、そんな計画性が示すのは、祭りが商業主義に飲み込まれ、地域社会の伝統よりも金儲けを優先する風潮が広がっている証拠だ。親分が泊まり込むのも、それが単に指揮にあたるためではなく、経済的な利益を最大化するための戦略なのかもしれない。

結局のところ、祭りが変わってきているのは事実だが、文化としての価値を大切にする心がある限りは、その本質を見失わずにいられるはず。そうは言っても、祭りの本質がコミュニティの絆であるといえど、出店の配置が計算されているように、商業主義が伝統を飲み込む現状には、しっかりと目を向けなければならない。

(4) 理想と現実の溝

(4)-1 愛国心を叫ぶ若者たちと自力で生計を立てるテキ屋たちとでは、生きる世界が違いすぎて、共通の理解は望むべくもない。

「テキ屋は祖国を忘れたある一商人くらい思われてる。それじゃ困りますよ。日本男児です。でも愛国というわけじゃなか。天皇家に我々に飯ば食わしてくれる人間はおらん」
「三島由紀夫は早う切りすぎたな、腹ば」
「ああいうあれと私たちとは違いますよ」
「ほんで若い衆がようけおったでしょうがな、兵隊蜂起で。あれが結局何したね。50円だけ国からもらって我々は商売ばしよっとよ。そういう苦労したりすっと、三島由紀夫のとこの若い衆のようなのとは、やっぱり人間の桁がちごとるやろうね」

不安定な稼業を続けるため、テキ屋は親分子分の集団原理を必要とした

A男「愛国心を持つ若者たちとテキ屋たちは、確かに生きる世界が違うが、一方で伝統や秩序を守るべきという精神は共通しているように思える。テキ屋たちの親分子分の集団原理も、例えば三島由紀夫の楯の会の仲間意識も、日本の古来からの家族経営や組織のあり方を反映しており、貴重な文化を維持している。」

B子「でも、本当の多様性っていうのはそういう表面的な違いじゃないわ。愛国心を訴えるあの若者たちも、テキ屋で生計を立てる人たちも、どちらも経済的な不安定さから自分たちのアイデンティティを見出そうとしているの。真の共通理解とは、そういった社会的な不平等と向き合ってこそ生まれるものよ。」

A男「経済的だけじゃなく、自己意識的な不安定さもあるだろう。」

C郎「なんかテキ屋って言われるとね、祭りの屋台のたこ焼きの香りが頭に浮かぶんだよな。」

D美「ふふん、私は花火大会が思い出されるわ。打ち上げ花火の音と光が、夜空を彩る様子が目に浮かぶの。」

E爺「愛国心にせよ、テキ屋にせよ、その根底には経済的な格差と社会的な不安がある。愛国心を叫ぶ若者たちは、自分たちの食っていく不安を国家への帰属意識で紛らわせ、テキ屋は不安定な稼業を続けるために古い体制の中で生きようとしているだけだ。本質的な問題は、社会が個々人の安定した生活を保障できていないことだ。」

(4)-2 商売での熱い語り口とは裏腹な、詩心には冷徹な宮藤氏の姿から、人々は生計を優先させながらも、感動を切り離せず創造の衝動に駆られる矛盾を抱えることが示唆される。

テキ屋であり歌人でもある宮藤氏
熱のこもった商売語りと裏腹に、冷たく引き締まった歌を詠む。

A男「宮藤氏のような生き方は、現実と理想の狭間で揺れ動く日本人の心情を映し出している。売り言葉に熱くなることは商売人の情熱を示し、詩心に冷徹なのは日本の伝統的な情緒の厳しさを反映しているのだ。」

B子「でも、その矛盾こそが現代社会の問題を示しているわ。宮藤氏のように生計を立てつつも創造的な表現に心を寄せるのは、物質的な充足だけでは得られない人間の精神的な豊かさを求める声なのよ。」

D美「夏祭りといえば、私はゆかたを着た人々が賑わう景色が浮かぶわ。浴衣の色と模様が、まるで生きた絵画みたい。」

E爺「宮藤氏の話を聞けば聞くほど、我々が直面しているのは、ただの生計の問題ではなく、心の内面を満たすことのできる環境が整っていないという現実じゃ。金銭を稼ぐだけではなく、本当の意味での人間の豊かさを追求する機会が減っているのが今日の社会の実情だ。」

(4) 理想的な愛国を唱える若者と、現場で自分の力で稼ぐテキ屋たちとの間には、橋渡し不可能なほどの世界の違いが存在する。一方で、その理想と現実の間に股をかける宮藤氏の語りの熱さと冷徹な詩心は、人々が生活のために感動を捨てられず苦悩する矛盾を映し出す。

A男「宮藤氏の言葉には熱意が感じられるが、それはやはり生活のために感動を犠牲にせざるを得ない日本人の現実を反映している。愛国心を唱える若者も、自力で生計を立てるテキ屋も、共に日本の伝統を重んじ、労働の中に誇りを見出しているのだ。」

B子「いいえ、宮藤氏の言葉は、経済的な必需と精神的な充足の間の矛盾を指摘しているの。愛国心と自力で生計を立てることは別次元の問題で、私たちの社会が直面している分断を浮き彫りにしているわ。でも本当はそのどちらもを満足させないといけないわ。」

E爺「話を聞いていると、本当の問題は、人間が経済的な安定と情緒的な満足のバランスをとることの難しさにある。愛国心を唱える若者も、テキ屋として稼ぐ人々も、宮藤氏も、実は同じく社会の矛盾に苦しんでおる。似たような葛藤に悩んでいるが、互いに真逆の立場におるから、両者は深い溝によって隔てられているのじゃ。」

まとめ

A男は誇らしげに語るが、その言葉には認識の甘さが滲む。愛国心を持つ若者たちとテキ屋たちの存在は、確かに我々の社会の多様性を示していると言えよう。しかし、この多様性は表面的なものに過ぎず、彼らが共有しているのは、経済的な不安定さ、そしてその中でのアイデンティティの模索である。さて、B子の言葉は現実を突く。愛国心を訴える若者も、テキ屋で働く人々も、経済的な基盤の揺らぎに翻弄されている。真の多様性とは、そうした社会的な不平等に目を向け、それと向き合ってこそ生まれるものではないだろうか。

D美は、花火大会の華やかな情景を思い出す。これは日本の伝統的な祭りの風景として多くの人に共感されるだろう。だが、その明るさの裏には、E爺が言及するように、経済的な格差と社会的な不安が潜んでいるのだ。愛国心を声高に叫ぶ若者たちは、その不安を国家への帰属意識で誤魔化し、テキ屋たちは不安定な仕事を続けるために、古い体制の中で生き延びようとしている。これらの行動は、社会が個々人の安定した生活を保障できていないという、本質的な問題を如実に示しているのだ。

愛国心のある若者もテキ屋も、表面上は違うように見えても、根本では経済的な不安を抱え、自分たちのアイデンティティを探している。そして、真の多様性はそんな社会的な不平等に向き合った時にこそ生まれるものである。そんな中、宮藤氏の生き方は、現実と理想のバランスを求める日本人心情を映しているとも感じられる。物質的な充足と精神的な豊かさを求めるなかでの矛盾は、現代社会の問題点を如実に示している。我々はその矛盾をどう受け止め、どう生きるべきか、深く考えなければならないのではないだろうか。

(5) 笑顔の裏の孤独

(5)-1 かつては極道と呼ばれたヤクザと、それとは異なる存在であったテキ屋も、今やその境界が不明瞭となり、世間の目には同じ闇の住人と映る。

A男「この傾向は、昔ながらの道徳的秩序の喪失を示している。テキ屋が正当な商売として認められ、極道とは一線を画していた時代は、社会に明確な道徳観が存在していた。今のこの境界が曖昧になっている状況は、社会の規範が崩壊している証左である。」

B子「いいえ、A男さん、それは古い価値観への固執よ。テキ屋とヤクザの境界が曖昧になったのは、社会が変化してきた結果であり、人々が生きるための柔軟性を示しているの。暴力団が新しい形の生業を模索することは、時代の変遷に適応していく上で必要なことなのよ。」

C郎「そういえば、テキ屋って言ったら、夏祭りの出店を思い出すなあ。子どもの頃、あの出店で買ったおもちゃが好きだったよ。」

D美「夏祭りと言えば、浴衣を着て行くのが楽しみだったわ。あの風情ある雰囲気は、日本の良さを感じさせるよね。」

E爺「お前ら、まだ夢見ているのか。現実を見ろ。テキ屋もヤクザも、結局は社会の縁辺に立たされた者たちの苦闘の一端だ。かつては極道として蔑まれ、今やテキ屋としても曖昧な立場に置かれている。彼らは、社会の二重構造によって生み出された矛盾の産物であり、経済格差と法の不平等の中で生きるしか選択肢がないのじゃ。」

(5)-2 ヤクザとの境が曖昧になり始めたテキ屋の世界で生き抜くためには、抗争を避けつつも緊張を保ち、組織の結束を固くしなければならないが、神農会の野田会長はその運命に己を見出している。

ヤクザとの抗争を避けるため、あえて親分子分の盃の儀式を取り持つ野田会長

A男「これは我々の社会が抱える深刻な問題だ。ヤクザの存在が許されるということは、伝統的な道徳規範が崩壊している証拠である。テキ屋は生業を営みながら極道との諍いを避け続けるという、高度な社会的スキルを要求されているのだ。」

B子「そうは言っても、A男さん、ヤクザとテキ屋の存在が示すのは、どちらかというと社会における新たな生存戦略と適応力の発現よ。伝統的な秩序の崩壊ではなく、むしろ多様な生き方が認められる柔軟な暴力団の姿を我々は目の当たりにしているの。そこから新しい発見を得るべきだわ。」

C郎「そういえば、昔は祭りのテキ屋といえば、どこか怪しいイメージがあったけど、最近は家族で楽しめる催しも多いよね。」

D美「祭りの雰囲気って特別よね。子どもたちが笑顔で遊び、家族が団らんする場所。テキ屋もその一部として、地域コミュニティに貢献しているわ。」

E爺「ふん、そんな甘っちょろいことを言っている場合か。ヤクザは組織の維持のために暴力と抗争を使い、現在ではテキ屋はその隠れ蓑として使われる。これらは社会の不均衡と矛盾を露わにするもので、法の支配が及ばない地域があるという、現代日本の問題を如実に示しているのだ。現状の構図では奴らに同情することはできんな。」

B子「しかし、ヤクザとテキ屋の境界があいまいになる現象は、変化する社会におけるアイデンティティの再構築と適応力の表れだと思うわ。」

E爺「テキ屋とヤクザの問題は、社会の矛盾と対立が生み出すもので、野田会長のような人物が生き残るための戦略は、本質的には社会的な排除と不正の温床であることを忘れてはならん。」

森崎和江と鳩に餌やりする野田会長
日本刀を見せてくれる野田会長

A男「このような商売の世界において、野田会長のような人物が重要な役割を果たしていることは、伝統や秩序への敬意を示すものだ。彼の存在は、地域社会における安定と伝統の維持に寄与していると言えるだろう。」

病院で検診を受ける野田会長
ディレクターの木村栄文と談笑する野田会長

B子「しかし、そのような伝統的な権威に対する敬意とは裏腹に、野田会長の人柄がもたらすチャームと笑いは、よりオープンで包摂的な社会を形成する力にもなっている。権威を和らげ、人々を結びつける彼の役割は、進歩的な社会の象徴とも言えない?」

E爺「だが、野田会長のような存在が人々を惹きつける一方で、彼らの背後には組織の階層や権力構造が存在する。このような状況は、社会における権力の集中と、それに伴う経済的・社会的な不平等を隠蔽しているのだ。」

A男「野田会長のような人物が、その厳しい外見とは裏腹に笑いを生む魅力を持つことは、社会の秩序を保つ上でバランスが重要だということだ。彼の存在は、伝統的な業界への敬意を表し、抗争を回避する和をもたらしている。」

C郎「ちなみに、なんでテキ屋って言うんだっけ?」

D美「テキ屋は昔、屋台を引いて移動することから『手引き屋』が転じた言葉なんだって。」

A男「テキ屋は別名、香具師(やし)ともいうが、それは野武士という語からきていると言う説もある。野田会長は、草枕ならぬ、板張りを布団とし、木の枕で寝起きしているそうだ。」

野田会長の布団と枕

E爺「野田会長がいくら魅力的な笑いを提供しても、結局のところ彼の存在は極道の世界との曖昧な境界を持ち、社会の底流に潜む不正義と不平等を隠しているに過ぎない。人々はその笑顔に惑わされてはならんのだ。」

B子「それは誤解だわ。テキ屋が軽蔑されてきたからこそ、自分が体を張って戦わなければならないと野田会長は語ってる。たとえ孤独な道を歩むことになってもね。そう、極道とテキ屋とは全くの別物よ。」

まとめ

昔ながらの道徳が崩れ、テキ屋が極道と一線を画すことも怪しくなってきた今、社会はどこへ向かっているのであろうか。A男は、この境界の曖昧さが社会の規範の崩壊を示していると断言する。しかしながら、B子はそれを新たな生業への適応、時代の変遷と捉え反論する。子どもの頃の夏祭りの出店が懐かしくも、その背後には社会の厳しい現実が潜む。浴衣の風情とともに日本の良さを感じさせる祭りも、E爺の言葉を借りれば、縁辺に立たされた者たちの苦闘の場である。

はたして、テキ屋とヤクザの境界が曖昧になっているのは、時代の変化と社会の規範の崩壊なのか、それとも新しい生業への適応なのか。伝統的な価値観が失われ、犯罪が肥大化する中、社会はアイデンティティの再構築を迫られている。

祭りの屋台だって、変化している。昔ながらのものが新しいものに取って代わられ、地域文化の一部として受け入れられているが、その裏には社会矛盾の影がちらつく。たとえ野田会長という人物が、昔ながらのやり方で奮闘したとはいえ、権力構造の問題は依然として残っている。

このように、テキ屋とヤクザ、そして祭りの屋台は、伝統と新しさ、社会の規範と変遷、矛盾と適応、楽しみと苦悩という、相反する側面を持ち合わせている。それはまるで、人々が探し求める幸せと、その手に入れるための社会の厳しい現実との間の狭間で揺れ動く、日本の縮図のようである。

(6) 総括

テキ屋の世界において、暴力団の存在感が無視できないものとなってきた。それに対して野田会長は、微妙な駆け引きでなんとか自ら受け継いだ「テキ屋道」を守り抜こうと努力した。しかしながら当時の若いテキ屋たちは、ヤクザの真似をしだして、年寄り世代と断絶した。そして、テキ屋が伝統文化を支えていくべきにもかかわらず、現代でも彼らの存在を疑問視する風潮が今でも根強い。

日本の祭りも、かつては共同体の絆を象徴する伝統であったが、コミュニティが激しく流動する中、その役割を失っている。祭りがただの見せ物になり、多様性という名の断絶を生む現代社会で、私たちは真の価値を見失い、形骸化した伝統により人々は絆を弱め、進むべき道に迷う。そして、物質的に豊かな現代人の心の貧困と価値の多様性への鈍感さが、私たちの現実を覆っている。

難しいのは、単に伝統へ立ち返るだけでは問題は解決しないことだ。たしかにA男が語るように、伝統を通じて心の豊かさを守り伝えることは重要だ。しかし、それに固執し過ぎれば、B子の言う通り新しい価値観や多様性を受け入れにくくなり、伝統の成長を妨げることにもなりかねない。伝統とは、見直しや改良を経てこそ意味を持つもの。そうでない場合、過去への執着は現代の息苦しさを生む原因となる。結局は、伝統とは何か、それを守るとはどういうことかという問いに直面する。我々は何を大切にし、何を手放すべきかを問い直すべきだ。その答えは容易ではないが、只々時代の波に揉まれて、伝統の真実が沈没していく様子は、侘しいだけだ。

テキ屋の未来には、変化を恐れず新しい形で古来の型を守ることが求められている。野田会長が示した姿がまさに手本となる。動きながら常に変わることが、逆説的に伝統の維持に繋がる。行動し続ける保守とはこのようなことを言うのだ。


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