
ムダなもの多すぎてない? (1)経済と精神/不破静六
これから5回に渡って「無駄なものから離れて本質的に生きる」といったテーマで連載をしていく。
第1回目の本記事は、次のような読者に向けて書いたものである。
貯金ができなくて困っている
物欲が止まらないので何とかしたい
稼げずにヤキモキしている
これらの悩みについて直接的な解決方法を示すことは不可能だが、心の持ちようをいくらかでも変えるきっかけとなったら幸いである。
ブッダの弟子・目連の最期
泣く子も黙る仏教の始祖ブッダの周りには、十人の有名な弟子が集まっていた。その中に、目連(もくれん)と略称される、摩訶目犍連(まかもっけんれん)がいる。
彼はもう一人の舎利弗とともに、ブッダから最高の信頼を受けた弟子とも言われている。特に神通力に優れており、神通第一との呼び名もあるほどだ。

『釈迦御一代記図会』(1839年)より
そんな目連の最期は壮絶なものである。
ある日托鉢をしていた彼に、ブッダの対抗勢力である異教徒(執杖梵士)たちが目をつけた。「釈迦の無比の弟子であるヤツを殺してしまおう」と周囲を取り囲んで瓦礫や石で殴打してしまった。身体中の肉はただれ、骨も露わになった姿の目連は、しかし心に悟りの念を保ったまま抵抗しなかった。
そして相手が去った後になって初めて、目連は神通力を使い舎利弗の元へ帰る。それを見た舎利弗は問いかける。
「なぜ最初から神通力を使って逃げなかったのか」
「私には前世の悪業があるからこそ、このような仕置きを受けるのだ。この報いは避けることができない」
そう答えてのち、目連は故郷に帰って入滅した。(*1)
是時尊者大目揵連到時著衣持鉢欲入羅閲城乞食。是時執杖梵志遙見目連來。各各相詣謂曰。此是沙門瞿曇弟子中。無有出此人上。我等盡共圍已而取打殺。是時彼梵志便共圍捉各以瓦石打殺而便捨去。身體無處不遍骨肉爛盡。酷痛苦惱不可稱計。是時大目揵連而作是念。此諸梵志圍我取打骨肉爛盡捨我而去。我今身體無處不痛。極患疼痛又無氣力可還至園。我今可以神足還至精舍。是時目連即以神足還至精舍。到舍利弗所在一面坐。是時尊者大目揵連語舍利弗言。此執*杖梵志。圍我取打骨肉爛盡。身體疼痛實不可堪。我今欲取般涅槃故來辭汝。時舍利弗言。世尊弟子之中。神足第一有大威力。何故不以神足而避乎。目連報言。我本所造行極爲深重。要索受報終不可避。

myself - Picture of a wallpainting in a monastery in Laos, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=818977による
この逸話に対する久留宮氏(インド哲学者)の解釈は以下の通りである。
釈尊の弟子の中で、最も名高い屈指の高弟の一人である目連さえも、生前(前世)行為の報いを受け、因果応報と自業自得という輪廻の法則から免れることはできませんでした。しかしながら、この非業の死を受けたことで、目連は心の垢を完全に洗い除き、輪廻から完全に解脱し涅槃の境地にいたったことは勿論のことであります。
心は、輪廻を繰り返すなかで、悪業によって垢を加え苦悩を増します。では善業によって直ちに心の垢が洗われるのでしょうか。どうもそうとは言い切れないようです。心の垢は、善業を縁として発露する悪業の報いを甘んじて受けてこそ洗われると感じられます。そして垢が完全に洗い除かれたその瞬間に、人々の無明の無知は智慧の光明に照らされて影を失い、心そのものも消滅してしまうのでありましょう。
大法輪閣編集部『輪廻転生 生まれ変わりはあるか』、p.30
つまり、良いことをしたとしても、それがすなわち徳を積むことにはつながらず、むしろ前世からの悪業の結果生じた好ましくない現実を受け入れるのが大切だということだ。
目連ほどの偉業はできないにせよ、例えばお金がないと右往左往する悩みを捨てて、その事実をまず正面から受け止めて、現状のままで最低限の暮らしを甘んじてみる。
不足で不便な生活から新たな知恵と創造が生まれ、それがより良い人生のきっかけとなる。
ゴミから縫い合わせた糞掃衣
曹洞宗の祖である道元が著した「衆寮箴規」は、禅宗のお坊さんがお寺での共同生活でどのように過ごすべきかを教える規則集である。
この中に次のような記述がある。
寮中の清衆、金銀銭帛等の不浄財を蓄ふべからず。是れ古佛の遺誡なり。西天(さいてん)の初祖迦葉尊者(かしょうそんじゃ)在家の時、其の家の富千倍して瓶沙王に勝れり。十六の大國も以て隣と爲る無し。然れども家を捨て道を修するの時は、鬢髪長く衣服弊(やぶ)れ、糞掃(ふんぞう)を衣と爲し、乞食を食(じき)と爲し、将に隠れんとするに至るまで曾て改めず。道心の士知らずんばあるべからず。迦葉高祖すら猶斯の如し、凡夫末学豈自ら守らざらんや。
『道元禅師清規』、p.101
つまり、お寺での生活ではお金などの不浄な財を蓄えてはならないと述べている。ブッダの弟子である迦葉尊者の例をあげて、彼は元々無類の大金持ちだったにも関わらず、出家した後は髪は伸び放題で糞掃を身にまとい、乞食生活を死ぬまで続けていたと教える。そうした高名な僧でさえそうなのだから、君らがこれを守らないことなどあり得ようか、というのである。
糞掃もしくは糞掃衣(ふんぞうえ)とは次のようなものである。
糞掃(ふんぞう)
不浄又は弊破のため塚間に放棄せられた布帛を拾ひ集めて綴った袈裟のこと。これは人の執着を離れたものであるから清浄とされている。
東京国立博物館には、日本最古の糞掃衣が保管されている。

物欲というものは、この世に対する執着から生まれる。
より良い生活をしたい、もっと魅力的な人物に思われたい、そうしたこだわりは死ぬまで終わることがなく、人は無限の欲望地獄に閉じ込められる。
自らの理想を掲げ、それに向かって努力することは素晴らしいことだが、地に足のついていない夢想を背負いこみ続けると心身ともに疲弊してしまう。
時には糞掃衣のことを思い出し、家の着古した服をバラバラに切り刻み、自分でリメイクしてみてはどうか。
それによって、お金に代え難いつくる喜びを見つけることができるかもしれない。どうでも良いと思っていた服が新しい命を帯びて、あなたに訴えてくるかもしれない。
そうしたリメイク品に触れた時、ふと心に清々しい風を感じるだろう。
またそうした古着をリサイクルしたものを手に取るのも良いだろう。たとえばこちらのブランドは如何?
捨てられた衣服から生まれた袈裟や、信念を貫いた目連の死が教えるのは、苦難を乗り越えて得られる心の清浄と解脱である。
生の苦悩や社会の矛盾に直面しながらも、それらを超越したときに初めて、人は内なる純粋さを取り戻し、本当の意味での自由、すなわち解脱に到達することができるのだ。
辛いことにぶつかった時、すぐに楽な方向へ流れるのではなく、例えばちょっとした瞑想を試して、困難に立ち向かう勇気を養うなどしてみたい。
フィリピンに比べ豊かであるが…
そうした苦難に耐える姿勢は、何でも手軽に手に入る現代日本においては特に重要に思える。
写真家の橋口譲二は、日本に住む17歳たちの姿を捉えた写真集を発表した。
その中に、フィリピンと日本のハーフの子のこんな言葉がある。
フィリピンにいた時は、大人になったら絶対がんばろうと思ってた。向こうは仕事探すの大変だし、バイトとか簡単にはできないんですよ。でも日本に来たらすぐ近くに欲しいものもあって、ちょっと手を伸ばせばとれるから今度でいいや、みたいに思ってる。なんか最近甘く見ているかなって自分で思う。

豊かな国ではハングリー精神がしぼむ。
少なくとも2000年代においては、日本はフィリピンに比べ豊かであった。
こうした欲しいものを手軽に手に入れられる環境には感謝すべき。
しかし、それは同時に、物事があまりに容易に達成できるために、私たちの労を軽視してしまう危険性をはらむ。豊かさが、かえって行きすぎたお荷物となってしまいかねない。
物質的な豊かさがもたらす楽さに慣れ過ぎてしまうと、人間としての精神性や努力する心が緩んでしまう。
人工知能が発達し、ChatGPTやStable Diffusionなどの生成AIが社会にとってなくてはならない存在となりつつある超現代。
敢えて困難や不便な道を歩むような、人間性に根付いた確固たる哲学的修練が求められている。
アダム・スミスの「見えざる手」
豊かさの本質に迫るため、いちど古典経済学の源流にさかのぼってみる。
かつてアダ厶・スミスが提唱した「神の見えざる手」の理論は、市場経済における個人の利己的な行動が、社会全体の富を効率的に増大させると説いた。
各個人が私益に基づいて行動することこそが、市場経済全体で見れば公益を利することにつながるという。
その際、個人は決して好き勝手に振る舞うというのではなく、あくまでも自分の利益が最大限になるようリスクも熟慮した上で行動するものと想定されている。
思想家の千坂恭二氏は、次のように述べる。
アダム・スミスの『国富論』でも読めば、資本主義の根強さと社会主義のひ弱さが分る。資本主義の強さは、まさにアダム・スミスが「神の手」というものの中にある。要するに資本主義は放置しても何とかなるが、社会主義は人為的であり、そして何事も成行き任せで済む方が強い。
— 千坂恭二(Kyoji Chisaka) (@Chisaka_Kyoji) April 15, 2020
あるがまま、お金が流れるままに任せるのが本来あるべき姿。
それに抵抗して、たくさんの金銭を自分のもとに集めて貯蓄しようとか、あるいは逆に自分の欲望の赴くままに手持ちを消尽してしまうとか、そういった人為的な営みは自分の首を絞める。
江戸時代に書かれた『町人常の道』には、商いの本質が次のように説明される。
人が富を蓄えることそれ自体を目的とするのは、不道徳ではないにしても、倫理的には劣った行為である。むしろ、富を得る「誠」の方法は、商業がもつ社会的な側面を認識した上でおこなうことであった。この側面を追求する人も貨幣に引き寄せられるが、生命のない物質としての貨幣を生活の過程や社会の流れに変えていけば、商いは「大徳」になる。このような道徳にかなった良識をもって富を獲得することは、自分や家族のためではなく、社会や公共の善のためになる。したがって、商いは単純に富の蓄積と考えられるべきではなく、富が社会に循環する(「世間にまわる」)よう、刺激をあたえるものととらえられるべきである。こうして、貨幣は、社会のある部分から別の部分を行き来し、損を生じさせることも得を生むこともありながらも、移動するあいだに「生命」を獲得していくのである。
江戸時代の商人に広まったこの思想は、アダム・スミスの理論とも通底する部分がある。
足るを知ることができぬままでは、経済の豊かさが逆に人々を怠惰にさせ、精神性の衰退を招くというパラドックスに直面する。資本主義が見せる豊かさの夢を盲信すると、結果として思想的努力や危機管理能力がゆるんでしまう。贅肉を落としたスリムな、そして生命力に満ちた経済哲学が渇望される。
まとめ
目連はすでに決まった運命に甘んじて殉教した。迦葉尊者は仏道に入って執着心をドブに捨てた。
経済と精神性の複雑な関連性は、物質的な豊かさとそれに伴う社会的病理、それとは対照的な廃棄物から産まれる精神の浄化を通して、私たちに何物かを示唆する。
経済的に豊かな社会における分かりやすい豪奢さといったものより、苦難を乗り越えた先に得られる心の純粋さや解脱こそが、真に価値があるのではないか。
外側に目を向けて物欲に駆られる前に、まず内側を見つめ、捨てられる物に想いを馳せよ。
そして金銭の動くがままに任せて世を渡る。
貯金がなくとも、大金を稼げずとも、成り行き任せでじっと現在に向き合えば、いずれは風向きが変わる。その営みが、やがては社会全体の公益を増やしていく。
たえず流れ続ける。それがお金の宿命なのである。
【註】
(*1) 目連の最期については、以下のサイトを参考にした。
次回は「ムダなもの背負いすぎ? (2)恋愛消費」を1/27(土)に更新予定。