【私と本】ひとの人生、平和についての考え方
一度読んだことのある本で、おもしろかったとか、好きだとか感じたものについて私は詳細を忘れる。だいたい「あれ、おもしろかったな」という記憶だけが残り、どんなふうにおもしろかったかとか、内容のあらすじみたいなものを誰かにうまく説明したりできないことが多い(本に限らない)。
その「あれ、おもしろかったな」の中から、占星術でおなじみの石井ゆかりさんが、取材相手を知らされないままインタビューをおこなった、Webマガジンの企画をまとめた本について書いてみる。タイトルからちょっとだけ想像できるように、そのときその職業に就いている人に、その職業(場所)を選んだ理由についてのインタビューが基本となっている。
テレビに出るような有名人や、歴史上の誰もが知る人物についての伝記みたいなものもおもしろいけれど、その有名人を取り巻く周りの人々であったり、この世界を構成するひとりひとりの人間という存在に、私は興味を持つみたいだ。インタビュアーが石井ゆかりさんということで、さらにその興味は大きく膨らんだ。
それで、本の内容については興味を持たれたら読んでみてください。このインタビューは、ふつう想像する『インタビュー』と異なり、取材対象者を深く掘り下げるというよりも、インタビュアーである石井ゆかりさんがこのインタビューを通して感じた彼女なりの視点や考察が書かれている部分が大きいように感じる。
ところで、インタビューって誰にでもできるものじゃないよなあとおもいます。以前も記事の中で書いた友人が、WEBサイト(下記リンク)を持っていて、いくつかのコンテンツのうちのひとつに『友達の輪』がある。
わたしたちの楽しみでドキドキのチャレンジ「友達の輪」へようこそ!
「普通の毎日を生きる、面白い人たち」をクローズアップして、その生き様をインタビューを通して、ご紹介させていただきます! そして、その人から、また別の方へ……さまざまな個性と魅力に富んだ方々と出会えることを楽しみにしています。
国民的テレビ番組のあのコーナーと同じ流れで(名称も)、取材対象者が次の誰かを指名していくというもの。インタビュアーはこの人。
彼女は普段からオーラソーマや占星術、自身の探求心から思いついた色々の講座を全国各地でおこなっていて、こちらが思ってもいないようなことをひょいっと拾い上げるようなところがある。そのせいかこのインタビューを読んでいる限りでは、相手の方はリラックスしていて、うち解けた会話をしているように感じられる。私は毎回このコンテンツの更新を楽しみにしている。
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ちょっと脱線したけれど、それでこの『選んだ理由。』の巻末の、「番外編」として収められたインタビューが、私の平和についての概念をひっくり返したことまでを書いておきたい。
番外編インタビューのタイトルは『世界平和のために』。取材対象は著者(インタビュアー)の知人である劇作家の阿藤智恵さんという方で、私が凍りついたのはこの方の発言だった。
世界平和って言うと、みんな誤解するんだけど、みんなで仲良くして、にこにこして、手をつないで、なんて、そんなもんじゃないんです。みんな仲良く、なんて、そんなの絶対平和じゃない、もしみんな仲良くにこにこしていたら、絶対その陰で誰かが泣いています。
(石井ゆかり-選んだ理由- 235頁)
私はケンカが苦手で、家庭内の小さなケンカや、友だちとの言い合いを避け、人が争い合うという場面すべてを苦手とした。それを避けたところで解決しないのだという事実を知るまでに、とてもとても長い時間を要した。この本のこの文章にあたったときも、まだ私はそれを回避することでやり過ごすという仕方しか、していなかった(できなかった)。
私がおもっていた『平和』って、なんだろう。私の意識の中に漠然とあった『平和』とは、まさにこの誤解の枠の中にきっちりはまり込んだものだった。
争いを避けるのは、人と向き合うことを避けることだった。目の前にいる人の言うことが気に入らなかったとき、そのことを伝えたいという火を吹き消し、そこに注ぐチカラを別のところに使い続けてきた(ガマンするためなど)。それは相手への真剣な姿勢も、愛情も、おもいも、ぜんぶを消し去る行為だった。
怒るのってすごくエネルギーが必要で、いっぱい消耗するから疲れてしまう。私はその消耗もすごく苦手で、誰かに対してすごく怒っている人を見ると「愛情深い人だな」と感じることがある(場合にもよるけれど)。以前の上司なんかで、よく怒る人がいた。この上司はだいたいが筋の通っていないことをする人や事柄に関して怒り、それを相手がわかるような言い方で怒り狂うのだ。相手が会社の部下であっても、よその会社の従業員であっても関係ない。顔を真っ赤にして、相手に言い続けるその姿はおそろしかったけれど、私だったら「こんな人に言ったところで変わらない」「メンドクサイ」「時間の無駄」などと回避しているところだ。
結局これらは相手だけじゃなく自分(の意見)さえもぞんざいに扱ってきたということだった。
自分自身のこういうところを、ある場合には失礼だし、冷たいよなーとおもいつつも、すぐに変えられるものでもなかった。何年も何年もかかってこつこつと「怒る」ことを練習してきた。といってもやっぱり相手に、また自分の中に、それなりの思い入れがないと、そう真剣に怒れるものではないけれど。
生きていると大小さまざまなことにぶつかる。家族や友人という小さな関係性の中でも、会社や学校みたいな団体でも、国単位でも、人間がいる限り意見は食い違い、対立し、ねじ伏せられ、すれ違い、争う。争いは嫌だけれど、だからといってそこに背を向けて知らん顔してても無くならない。意見を言い合うことで、解決するかもしれないし、解決しない場合には「納得はできないけれど(とりあえず)お互い受け入れる」という選択肢だってあって、おそらく大体はそういう風にして世界は今日もまわっている。
『平等』とかいうのだって、かなり眉唾だよなとおもっている。
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