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栗のイガと心情としてのイガイガ

 生き方というのはさまざまで、ほんとうのところ誰もが自由で、だけど何か周りから制約を受けているような気がしてみたり、そうと思い込んで不平を口にする人がいたりする。あるいは自分でも気づかないうちに、限界を自分で設定してしまっているような場合も見受けられる。

 過去に辛いことがあって、それをいつまでも持ち続けてそこから動けないでジメジメしている人を見るのはきらいだし、経験から学んだことを周囲への貢献に繋げて活動するような人に対しても、ときどき嫌悪感みたいなものを感じることがある。こう書くとすごくイヤな人間のようだけど(そうではないとは言わないけれど)、そうおもう自分がいるのは否定できない。人生で起こったことの中には、容易に口にすべきじゃない種類のものだってあるんだ、という考えでも持っているんだろう。

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 何かそういう人を見て胸わるくなったりする。自分の中の何かが反応してしまうんだとおもう。そんなとき、気もちが安らいでいく方法をいくつか持っているといい。
 カメラを持って歩き回るのはそのうちのひとつかもしれない。そういうものを持ててよかった、とおもう。

危うく蜂に襲われるところだった
蚊にくわれ、流れる汗がイヤになりながら撮った
ハスの花の咲く公園では足を泥で汚した

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 先週、久しぶりに母と話した。ふたりで会うのは5か月ぶりくらいだった。会わなかった間の私のことを、あれこれ聞きたがって、それから会わなかった間の自分のことを、あれこれ話したいみたいだった。
 ほんの少しだったけれど、まだ母の身の回りも片付いていないことがいくつかあるし(引越しをしたばかりだったり、祖母に関するいろんな事情など)、だからまたゆっくり会おうねと言い合った。
 母の選んできた生き方は完ぺきではないかもしれないけれど、とても強くて逞しくて、そういうところは尊敬している。親娘というところから離れひとりの人間としての母が、私は好きである。

 ところで母親というのはいつまでも母親だし、その一方でどこか小さな子どもみたいなところもあるな、などとおもった。

子どもみたいな母のリクエストパフェ


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片山 緑紗(かたやま つかさ)
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