非日常にひそむ恐怖
少し前の記事で、『60 Days In(60デイズ・イン ~刑務所潜入60日~)』というドキュメンタリーTVシリーズを視聴していることを書いた。あれからも引き続き、時間があれば観ている(2023年現在までに8シーズンが制作されている)。
それと別に、『Alone(Alone~孤独のサバイバー~)』という番組の視聴もはじめた。こっちはアメリカのリアリティ番組のシリーズ(全7シーズン)で、身仕度時なんかに流して、横目で観ている感じ。
『60 Days In』は、一般人が刑務所に潜入するプロジェクトで、『Alone』は限られた装備を持って、人里離れた場所に入りひとりでサバイバルする企画である。10人ほどが参加し、最後まで残った1人に賞金が出る。
このふたつの番組は、それぞれ自分からするとどちらも未知の世界での出来事を眺められるという単純なおもしろさがある一方、人間というものの存在についてあれこれ考えさせられるようなところがある。(それぞれの番組で映し出されるもののどこまでを純粋に受け止めていいのかは、いったん脇において)
それぞれの参加者は、はじめそれぞれに明確な目的や目標をもっている。将来の職業に役立てたいとか、自国の司法制度の是正とか、家族や身近な人についての理解を深めたいとか、あるいは自分の限界を知りたかったり、ある種の戦いに臨む姿勢みたいな、そんなふうなさまざまの理由から参加を希望し、オーディション(たぶん)を経てきている。
番組では、そういうものが揺らいだり、あっさりとひっくり返ったりする様子が映し出される。こういうことは、われわれの日常でも大小の差はあっても起ることだけれど、このふたつの番組におけるその状況というのが凄まじいだけに、顕著であるところが興味深い。
と、いうところは前回の記事にちょっと書いた。
視聴を続けていて、今度は人間という存在にひそむ、本人にすら自覚不可能な部分についての恐怖をおもった。
刑務所というところは、まず日常生活からすると想像すらむずかしい場所であって、そこにいる人々というのも普段の社会生活の中で出会う存在としては、割合が低い。
そういう人々(のみ)が集団で生活をする場所というのだから、常識外のことで満ち溢れている。
と同時に、人間という存在としては同じであるとも言えるから、刑務所の中で人間関係を形成する場合、日常生活と同じレベルから接していくこととなる。
しかし、そこはやはり刑務所であって、たとえば学校や会社などといった集団を構成している人間関係とは、どこか様子が違っている。その境界線はどこか、と言われても、あるんだかないんだか、はっきりと明示はできないものの、違っている(はずである)。
そんな、自分の想像を超えた事柄が起こりうる状況の中にいることで、自分自身の中の意外な感情や行動が引き出されてしまう、番組ではそういう場面がちょこちょこ映し出されている。
番組を眺めていて、そういうシーンをハタから観ておもしろがるのは簡単だけど、実際そんな場面に出くわしてしまうというのは恐怖だろうとおもう。
もちろんその引き出された何かの全てがネガティブなものということでもなく、たとえば普段意識しない身近な存在への感謝みたいなよろしい面もあるようだけれど、企画の性格から言ってだんぜん暗くて重い要素の方が多い。(日本の番組だった場合、うつくしいほうばかり過剰に装飾して流しそうだ)
孤独なサバイバル企画のほうも凄まじい。
ほとんど全くの自然といっていい環境にひとりで臨むという、どんな種類の覚悟をしたらいいかもわからない状況である。
野生の生き物に脅かされ、飲み物や食糧がまったく摂れない日が続き、安全に過ごすスペースを自分でいちから用意しなくてはならず、慣れている者なら起せる火でさえその場所では容易でなかったり、突然の寒波や嵐に見舞われていろんな意欲を削がれる生活。
しかも自分以外には誰もそばにおらず、腹が立ってもさみしくても助言が欲しくても慰めてほしくても叶わない。全部ひとりで対処しなくてはならない。
そんな状況の中で各人によってさまざまに湧き上がる感情がカメラによって記録され放映されていて、やはり、それぞれ自分の中にこんなものがあったんだ、というような驚くべき感情が出てきたり、あるいは何かの達成みたいなスゴイことが出てきたりする。
この、底力的なものが出てきた場合にはよろこんでおればいいとして、ダークな部分に出合う体験というのはなかなか辛いものがあるとおもう。このそれぞれ特殊な環境から、もといた場所に戻ったとしても、ヒタヒタと背後にくっついていくような気がする。
そういう部分がおそろしい。
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いま、日露戦争を題材にした小説を読んでいるところだけれど、戦時というのも普段の生活からすると尋常ならざる状況だろう。現代に生まれて生きる私にはやはり想像も及ばない環境であって、できることといえばそれについての記録を読んだり映像や小説などといった作品から雰囲気を得るくらいのものである。
戦争というのでたとえば捕虜なんかについて、その扱いのことなどがときどき取り上げられる。こういう場合、捕虜に対して考えられないほどに残酷な態度をとる、などという内容に触れることがあるけれど、いま読んでいる作品には、日露戦争当時日本にあった捕虜収容所では、その捕虜に対する扱いはとても優遇されたものであったと書いてある。
以前読んだものではそういうことは書かれておらず、日本のそれもやはり世界各地の捕虜収容所と変わらず、凄惨な場所であったと見た記憶があるので、ちょっと違和感を持った。(別の戦争捕虜だろうか)
いずれにしても、こういう場合でも人間に備わっているある種の闇が顔をのぞかせる可能性はゼロではないことの一例とおもう。
自分にはそういうものはない、などと、私自身は人生において何らかの極限にあったことはないから、何が潜んでいるかという点では何もいうことができない。
できれば出合いたくはないけれど、知らずに死んでいくというのもどうなんだろう、と、これらの番組を観ていると、そういう考えがちょっとだけ湧いてくる。
そこのところにわずかながらもやもやしたものを抱えたまま、それぞれの作品群を引き続き観るなり読むなりしていこうというところである。
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今日の「無力感」:ビンの蓋を開けられず、30分ほど格闘しました。私なりに孤独と無力を感じた瞬間であったわけで、ああ、サバイバルなどとんでもないなあ、とじんじんする手首を押さえながらおもったり。
ビンの蓋は、工具を使ってこじ開けましたよ。
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