リチャード・ブローティガン『愛のゆくえ』
けがれのない愛は最初から最後まで物質的で、僕たちのキスのようにはいかない。愛は男の子の手によってトイレに流される。さよなら、さよなら。愛のゆくえは海。
『愛のゆくえ』
"The Abortion: An Historical Romance 1966"
この小説を読んでも、60年代のカリフォルニアのことはわからない。わかるのは、容れ物を満たすのは物質ではなく精神であるということだ。
金属的な音が鳴る。医者が然るべき手順で事をなす。容れ物はからっぽになる。
そんなに簡単なことで、愛はからっぽになる。
図書館というものは本で満ちている。ただし、本が燃え尽きてしまえばからっぽになる。
『愛のゆくえ』の語り手が職員として働いている図書館には、素人の、しかし魂によって書きつけられた本が持ち込まれる。そういった本を収蔵するのがこの図書館の役目だ。この図書館にはスペースがない。だから溢れた本は洞窟送りになる。それでいい。この図書館が収蔵しているのは本ではなく、本を書いた人間の精神だからだ。
この世の男の欲望を詰め込んだ肉体を持っているヴァイダ。かの女の顔は、自身の肉体と調和がとれていない。〈信じられないくらいデリケートな美しい顔〉は、かの女の精神のあらわれだ。
かの女は、歩くだけで世界じゅうのひとびとの視線を集めてしまう。車を運転していたある男は、ヴァイダの肉体に気を取られ、列車に激突して死んでしまった。かの女は自分の肉体の有無を言わさぬ力に耐えられない。そのような精神ではない。
ヴァイダは望まぬ妊娠をしてしまう。堕胎のために「わたし」と一緒にメキシコに旅立つことになる。ゆく先々で、ヴァイダは男の欲望を、女の嫉妬を集めてしまう。それらは状況だけ見ればコメディであるはずだ。しかし、かの女にとってはそれらは地獄であった。十一歳から続く地獄。真夏の京都みたいだ。
「わたし」はそれらをジョークと皮肉交じりに描写する。それのおかげで、世界はまだ生きていられる世界になる。これは、図書館に引きこもることを選ぶような精神を持つ「わたし」が身につけた、ひとびとにたいするささやかな抵抗であった。ヴァイダも、そのような人間であるから、「わたし」のことを気に入ったのだろうか?
この小説はジョークで満ちている。ジョーク、ジョーク、ジョーク。あなたが尊敬するその小説も、世界を生きていくための偉大なるジョークのひとつだ。ビートルズの『ラバー・ソウル』のレコードをかけたことはあるかい?
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