久慈くじら
創作
創作じゃない
なにもかも人生の断片。
長篇小説
今年の夏、ヘビロテしたのがhàlの『all kinds of crayon』だった。このEPでもっとも好きな曲は「望遠鏡の向こう側で」だ。音楽が気分を決定することはよくあるが、このEPは蒸し暑い夏を穏やかでご機嫌にしてくれる。 ところで、今夏はたしかに暑かったが、以前経験した暑かった夏の京都とさほど変わらないような気がする。しかしどうやらニュースで見聞きする限りでは、京都以外の土地では経験したことがない暑さが続いたようであった。祖母の葬儀に参列した際にも親戚からそのよう
序 手応えがなく日々が過ぎ去っていった。新型コロナウイルス感染症はお上のお触れによって明け、ぼくたちは日常を取り戻すことになった。これのどこに手応えがあると思う? いつだって目に見えないものばかりに振り回される。おそらく流行り病などなくても変わらない、普遍的な脱力感を抱くことになった。 生きるためにマスクを買い占める者もいれば、生きるために都市で農業をはじめる者もいた。ロンドンやニューヨークでは、アーバンファーミングという都市で農業をするという営為がトレンドになっている。老
足元を侵食してくる暗色の海水 目を開けても閉じても闇が広がり 真下に向かって落ち込んでいく重力 素足の鋭敏さは恐れを感じない 純粋たる死の予感何者にも訪れる死 いつか青い惑星にも訪れる死 万物を引き込む重力子を発する巨きな質量 母なる大地はすべてを産み 自分の内側に折りたたまれながらすべて圧し殺す 寝台に睡りながらきみたちは夢を見る 形而上的屋上から飛び降りる夢 特に人間を引き寄せる透明な力 詩人の言葉で目眩を起こしたことはないか 中心を欠いた言葉の非連続の連続 ぼく
暖炉にいつも以上の薪を放りこみ やけどするほど熱い紅茶を君に淹れてあげよう 朝日は雪を融かすだろうけど 未だ夜のまま 静かにしておく この部屋の中 誰の知ることもなく 雪は深く降り積もり 底知れず世界の音をため込む
むかしはとちゅうで手紙が失くなってしまうことすらあったのに いまではちょっと書いたことに 二秒後に返事がやって来ることもある 空前絶後のスピード 便利になったものだ 海底に沈んだケーブルのなかで ぼくたちの言葉は見知らぬだれかのもとへ マッハ10で飛んでゆく そしてマッハ10でぼくたちのもとへやって来る ぼくは耐えられそうにもない すぐに反応もらえたらいいなと思ったこともあるけれど マッハ10はぼくの脳みそをぐちゃぐちゃにしていくのだ ハイウェイで逆走してくる軽自動車より
ずいぶん前に書いた小説『さよならを云って』が第9回ネット小説大賞の一次選考に通ったらしい。 ガガガに送って二次で落ちたこともあったり、カクヨムのコンテストとかに応募して箸にも棒にもかからなかったりもしたやつで、もう擦り切れかけの作品なんだけど、よかったっちゃよかった。 なろうのインプレッションは、2021年8月13日現在以下の画像の感じで約1500pvくらいしかないんだけど、それでも一次って通過するもんなんやね。ちゃんと運営のひとは応募作品を読んでいるらしいです。
『アンリアルライフ』をクリアした。 1. ドット絵(ピクセルアート)は、ハードウェアの発色数や、解像度、容量などの制約があったおかげで生まれた。 この制約は短歌や俳句などの定型詩に似ている。 ドット絵の風景画では、同じような景色(たとえばビル群)が絶えず生みだされているけど、そのどれもが不思議と魅力をもっている。 ノスタルジーという言葉はまだドット絵を捉えきれていないような気がする。たぶんドット絵の本質は、制約から生じるある種のポエジーだろうと思う。 ドット絵のゲ
ランタンに珊瑚の死骸が積もってゆく 灯ったまま火は鎮まる プラスチックが分解されるまで500年 ガラスは100万年 ウミガメの黒々とした目が ささやかな火に 照らされる
ツイッターに疲れてしまって主戦場をnoteにしようかといい感じのひとらをフォローしたり、頭がおかしくなって現代詩文庫などを60冊ほど馬鹿買いしてしまったのをときおりぱらぱらめくっている。そのうちに目がとまったのが尾花仙朔だった。やばいでこりゃ。 とくに『春靈』はくらった。個人的な死とその虚しさと、歴史的にくり返されてきた(記録的な)死の虚しさが重ね合わされ、最終的に溶け合い、詩的・神的な地点に置かれ、人間を睥睨している。 この詩は〈ママン〉と母なるものに終始語りかけてい
僕は猫を飼ったことがないけど、鈴が居場所を教えたりするものであると知っている。 僕の街に鐘が鳴ることはないけど、鐘が時刻などを告げるものであると知っている。 なにかを教えたり告げたりすることに言葉は必要なく、金属が可愛らしく鳴るだけで僕はそれをわかるのだ。 誰かが死ぬ。鐘が鳴る。僕はそれが弔いだとわかる。 恋人に鈴をつける。縛りつけておきたい気持ちの表示だ。 これは結構不思議なことで、弔いとか愛情とかは複雑なものだ。なのに、音が鳴る、というただそれだけでそれを伝え
暑い。日中は30度を越した。vtuberの配信を裏で流しながらか、気温のせいかわからないけど仕事のやる気がない。ウイルスのおかげでテレワークに移行できたひとは多いだろうけど、僕はそもそも在宅の仕事をしている。家で仕事なんてできぬぇというひとが多いのがおもしろかった。慣れだよ。 起きたとき自分でも驚くほどの量の涎を繰っていたので洗っておいた枕カバーに交換した。いまからその枕で眠ることになる。窓をすこしあけて夜の塩漬けを肴に。 こう書いておくことで僕のなかではこの季節の夜は
朝おきてコーヒーを飲むとする コーヒーはたくさんのひとが飲んでいる (ぼくもいつも飲んでいるよ) めをさますため なにかをつくるため コーヒー豆を栽培しているひとのことを かんがえる時間がときおりある ぼくにできるのはこうやって 愚にもつかない文章をかくことだ はんぱな頭だったから 人間をそのまま救うようなことに力をつかえなかった (でもけっきょくみんな死んでしまうのだから救うことは じぶんを救うことにほかならない) すばらしいミュージシャンがいる 日常のことを歌う
イタチは裏山にすんでいる。人間たちがこの瓶詰めの世界にすむようになるずっと前からイタチはこの世界にすんでいたらしい。だからイタチは僕たちの先輩にあたる。 僕は又聞きの又聞きでイタチが旧い存在だと知った。だから、いちばん最初の住人から、イタチの話が断絶することなくずっとずっと語られ続けたってことになる。 だから僕は、イタチのことを後輩にしゃべらないといけないと思っていた。 「イタチってこの前、壁を見にいったときにみかけた動物さんですよね」 「そう、あの音よりも速い動物だよ
空き瓶を回収ボックスじゃなくて、ずっと集めて、それでなにかをつくろうとしたひとがいた。 僕の友人の湯舟だ。 彼はそもそも芸術の才能があったから、たとえば彫刻家とか画家とかの瓶詰めは買わなかった。かわりに買ったのは大量の食料と健康だった。 湯舟は食料の瓶詰めを空にし、感性と直感をたよりに積み重ねていった。 僕と新庄はその作品の成功を疑っていなかった。湯舟はすばらしい芸術家だった。たぶんピカソよりもすごかったと思う。だからこんな世界に来てしまったのだ。 湯舟は瓶詰めの
気動車の走るレールをなにか硬いもので叩く。今回は手近にあった瓶の底の角で叩いてみる。しばらく時間が経ってから、山よりも向こう、僕の行ったことのないくらい遠くで、透明な音が鳴る。 カァーーーーーーンッ。 「なにをしてるんですか?」 「これは……なんだろうね。音が鳴るんだ」 「それは聞いていればわかりましたけど」 「きれいな音だ。僕がだした音じゃないみたいに」 「わたしもやってみていいですか?」 後輩は僕の手から瓶を借りてレールを叩いた。 カァーーーーーーーーーーンッ。
瓶詰めの世界には平日も休日もないから、僕と後輩は学校に行きたくなった日を平日、行きたくない日を休日と呼ぶことにした。 はじめての休日。僕はこの世界の果てを後輩にみせたかった。 踏切を渡り、八百屋をすぎ、瓶詰め屋を通りこし、舗装されていない道をずっとゆく。 横幅の広く浅い川にぶつかった。欄干のない木製の田舎的な橋がかかっている。 「へえ、川があったんですね」 「うん。僕の知り合いが川の瓶詰めを買ったからだね。亀山っていうんだ。釣りが好きだから、ちょっと上流までいくと、今