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フェミニズムの視点から読むホラー映画『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)

 『ローズマリーの赤ちゃん』は、そのタイトルが如実に示すように、妊娠・出産を主要モチーフとするホラー映画である。大まかなストーリーは次のようなものだ。主人公ローズマリー・ウッドハウスは、俳優である夫ガイと共にニューヨークのいわくつきのアパートメントに引っ越す。隣人であるミニーとローマンのカスタベット夫妻の養女が謎の転落死を遂げたことをきっかけに、ガイは夫妻との親交を深めてゆくが、ローズマリーは彼らの過剰なお節介にしばしば困惑する。そんな折、ライバルの俳優が突然失明したことをきっかけにチャンスを得たガイは人気俳優となり、子どもをつくることを提案する。ある夜、ローズマリーは悪魔に強姦されるという不可解な夢をみるが、その直後に妊娠したことが明らかになる。それを自分のことのように喜ぶカスタベット夫妻は、ローズマリーに高名な産科医を紹介し、薬草を煎じたお手製ドリンクを毎日届けるようになる。ところが、ローズマリーは日に日に衰弱していき、ガイとカスタベット夫妻は悪魔崇拝者で、生まれてくる赤ん坊をその生贄に捧げようとしているのではないかという疑念を抱き始める。

 本作において、ローズマリーのジェンダーは映画が生み出す恐怖にどのように作用しているのだろうか。この問いに対する答えを明らかにするために、本稿では次のような流れで分析を進める。第1節では、『ローズマリーの赤ちゃん』を映画史的な文脈および公開当時のアメリカの社会的な文脈のうちに位置付けて考察する。第2節では、ローラ・マルヴィが「視覚的快楽と物語映画」で提唱した理論を援用しながら、視線とジェンダーの観点から複数のショットを分析する。第3節では、リンダ・ウィリアムズが「映画的身体:ジェンダー、ジャンル、過剰性」で定義した〈身体ジャンル〉の概念を導入し、ラスト・シークエンスを分析する。

1.映画史的・社会的文脈からみる『ローズマリーの赤ちゃん』

 ロビン・ウッドは、「アメリカのホラー映画 序説」で、異性愛の一夫一妻制のカップル中心の家庭が社会における正常さの拠点と想定され、それを抑圧された他者性の表象としてのモンスターが脅かすという展開に、同時代のアメリカのホラー映画の典型的なパターンを見出し[1]、「『サイコ』以来、ハリウッド映画はホラーをアメリカ的なものとして、かつ家族的なものとしてあからさまに認識してきている[2]」と指摘する。
 『ローズマリーの赤ちゃん』は、『サイコ』の系譜に連なるホラー映画である。異性愛の一夫一妻制のカップルであるウッドハウス夫妻は、ニューヨークのとあるアパートメントに引越し、家庭を築く。だが、悪魔崇拝者の陰謀によってローズマリーは悪魔の子というおぞましいモンスターを妊娠し、その正常さが脅かされる。『サイコ』がフェニックスの街並の空撮(ショット1)から始まるように、『ローズマリーの赤ちゃん』もまた、ニューヨークの街並の空撮(ショット2)から幕を開ける。だが、後者の場合、アパートメントはまるで高い尖塔を持つゴシック様式の建築を想起させるように、ハイ・アングルで撮影されている(ショット3)。『サイコ』のモンスターであるノーマン・ベイツは、郊外のヴィクトリアン様式の邸宅に潜み、暗闇に乗じて現れるが、『ローズマリーの赤ちゃん』では、郊外ではなく都市にゴシック的な舞台装置が整えられており、モンスターは明るい陽射しの中に存在する。

ショット1 『サイコ』フェニックスの街並の空撮
ショット2 『ローズマリーの赤ちゃん』ニューヨークの街並の空撮
ショット3 ハイ・アングルで撮影されたアパートメント

 「ホラー(horror)」というジャンル概念自体は、ハリウッドでは1930年代に成立していたが、恐怖や不気味さを感じさせるものの超自然的な要素を欠く、殺人事件を主題とする映画に関しては一般的には「ホラー」とは見なされず、恐怖と戦慄という感覚・情動を喚起する「メロドラマ」として受容されていた。例えば、公開当時の『ニューヨーク・タイムズ』のレビューは『サイコ』に「伝統的なメロドラマの手法」[3]を見出している。
 『サイコ』と同じく、公開当時の批評では「メロドラマ」と称され、事後的に「ホラー」としてもカテゴライズされた作品として『ガス燈』(1944)が挙げられる。『ガス燈』は、19世紀末のロンドンを舞台に、主人公ポーラが夫グレゴリーによって心理的な虐待を受ける恐怖を描いている。グレゴリーは、結婚を機にポーラに声楽の勉強をやめさせると、彼女は病で伏せているという嘘を周囲に言いふらし、家に閉じ込める。さらに、故意に物忘れや盗癖を指摘したり、屋根裏で物音がするのは思い込みであると繰り返し言い聞かせたりすることで、ポーラが自分の記憶や知覚、正気を疑うように仕向ける。『ニューヨーク・タイムズ』のレビューは、『ガス燈』を「メロドラマ的なカメラの技法を駆使し、昨日の上映では観客が不安を感じて忍び笑いをしていた」[4]と評した。
 『ローズマリーの赤ちゃん』は、『ガス燈』の系譜に連なるホラー映画でもある。本作では『ガス燈』と同様に、加害者が自分の利益のために、被害者に対して繰り返し、堂々と嘘をつくことで、被害者が自分の正気を疑うよう仕向ける〈ガスライティング〉の恐怖が描かれている。産科医のサパスティンは、ローズマリーが訴える体重の減少や腹痛は問題ないと嘘をつき、出産に関する書物は読まず、友人の体験談も聞かないように命じる。また、ガイは痩せ細ったローズマリーが「ひどい顔でしょう」と繰り返し尋ねるのに対して、「髪型のせいでそう見えるだけだ」と誤魔化す。さらに、ガイはローズマリーが友人らにセカンドオピニオンを勧められたと聞くと激昂し、それを認めず、挙げ句ローズマリーがハッチから託された悪魔崇拝に関する書物を取り上げると無断で焼却炉に捨ててしまう。
 『ローズマリーの赤ちゃん』では、ローズマリーが社会から隔絶された家庭に閉じ込められて孤立し、〈ガスライティング〉によって正気を疑うように仕向けられることが、自らの身体についての主導権および決定権を奪われるという事態を招く。だが、これを映画の中でのみ起こる架空の物語に過ぎないと言い切ることはできない。アメリカ合衆国では19世紀半ばに医師らによって行われた堕胎禁止法制定運動の結果、ほぼ全ての州で堕胎が非合法化されており[5]、女性たちはローズマリーのように自らの身体についての主導権および決定権を剥奪されていた。『ローズマリーの赤ちゃん』が公開された1968年は、第2波フェミニズム運動の活動家たちが中絶は専門家が女性に与える「恩恵」ではなく女性固有の「権利」であるとする主張を掲げ、中絶許可条件の規制緩和ではなく、一切の規制の撤廃を訴えた時期に当たる[6]。以上のことから、『ローズマリーの赤ちゃん』は、女性が自らの身体についての決定権を持たないことが災厄を招く物語であり、それが同時代の女性にとって切実な恐怖を感じさせるものであったことは想像に難くない。

2.『ローズマリーの赤ちゃん』における視線とジェンダー

 第1節では、『ローズマリーの赤ちゃん』が『ガス燈』の系譜に連なる作品であることを明らかにした。だが、『ガス燈』のヒロインであるポーラが殺人事件の真相を追求する刑事キャメロンによって救出されるのに対して、『ローズマリーの赤ちゃん』のローズマリーは自らの能力をもって身の回りで起こった不可解な事件の謎を解き、窮地から脱することを試みる。では、ローズマリーが持つ力とは、具体的にどのようなものだろうか。
 ローラ・マルヴィは「視覚的快楽と物語映画」で、男性が主人公であることの多い古典的ハリウッド映画は、アクションの主体である男性に見る主体としての能動性が与えられ、その視線の対象として、「見られるため」(To-be-looked-at-ness)に表象される女性の身体を想定する視線の力学によって編成されていることを明らかにした。観客は、見ることの担い手である男性主人公に自己同一化することで、女性を性的な欲望の対象として見る快楽を能動的に享受し、男根的主体としての立場を再認する[7]。また、男性主人公の眼差しに観客が同一化することで、視線の力学は有機的に物語叙述に組み込まれる[8]。しかしながら、ペニスが欠如している女性の身体は去勢不安を象徴するため、男性主体に潜在的な恐怖を与える。したがって、映画は男性主体に対して、女性の身体を見世物としてフェティッシュ化するか、覗き見的な視線の対象として客体化するかという、二つの逃げ道を提供する[9]。
 『ローズマリーの赤ちゃん』はマルヴィの図式には当てはまらない、例外的な作品である。本作の女性主人公ローズマリーには、しばしば人物や事物を注視して隠された真実を探り出す、見ることの担い手としての力が与えられているためである。本作には、頻繁にローズマリーの視点ショットが登場する。例えば、ローズマリーはカスタベット夫妻の部屋の壁に額縁を外した痕跡を発見する(ショット4)。彼女が「なぜ絵を隠したのかしら」と疑問を抱く一方、ガイは「見なかった」と答える。また、ローズマリーはローマンの耳にピアスの穴を見つける(ショット5)。さらに、彼女はローマン・カスタベットという名前が悪魔崇拝者の息子スティーヴン・マッカートのアナグラムであることを導き出す。以上のことから明らかであるように、ローズマリーはシャーロック・ホームズさながらの優れた観察眼を持ち、男性の登場人物であるガイはおろか、観客さえも見落としてしまうような些細なことによく気がつく。そして、ローズマリーは女性でありながらアクションを起こし、物語を進行させ、観客の感情移入を引き受ける役割を担う。

ショット4 壁に飾られた絵を外した痕跡(画面右上)
ショット5 ローマンの耳に空いたピアスの穴

 しかしながら、ローズマリーによる能動的に見る行為は、見世物としての女性の身体を見る男性主体が「視覚的快楽」を得ることとは、大きく異なる結末に至る。映画の終盤で子どもを流産したと告げられたローズマリーは、ガイの目を盗んで寝室を抜け出し、ナイフを手にすると、クローゼットの奥に隠された空間に侵入する。ローズマリーがフレーム外に目をやると、壁に飾られているエイドリアン・マッカートの肖像画やその場に集う悪魔崇拝者たちが提示される。だが、揺りかごの中を覗き込むやいなや、ローズマリーは自分が悪魔の子を出産していたという真実に驚愕して目を見開き(ショット6)、我が子を直視し続けることができず、後ずさりすると目元を両手で覆い隠し、手に握りしめていたナイフを取り落としてしまう(ショット7)。このように『ローズマリーの赤ちゃん』では、女性が持つ能動的な眼差しに対して、おぞましいモンスターを目の当たりにし、堪え難い恐怖を味わわせることでその力を封じるというペナルティーが与えられるのである。

ショット6 驚愕して目を見開くローズマリー
ショット7 目元を手で覆い隠すローズマリー

3.「身体ジャンル」としての『ローズマリーの赤ちゃん』

 第2節で述べたように、『ローズマリーの赤ちゃん』では、多くの場面でローズマリーの視点ショットが際立っている。しかしながら、ローズマリーが目撃した悪魔の子の姿が、彼女の視点ショットを通して観客に共有されることはない。それにも関わらず、観客が恐怖と戦慄を喚起されるのはなぜだろうか。
 リンダ・ウィリアムズは「映画的身体:ジェンダー、ジャンル、過剰性」で、ポピュラーでありながら映画研究者や批評家からは低俗なものとして評価されてきた、メロドラマ、ポルノグラフィ、ホラーに焦点を当て、これらを泣く、性的に興奮する、恐怖の悲鳴をあげるといった無意識的かつ反射的な身体反応を観客に引き起こす「身体ジャンル」と名づけた[10]。さらに、ウィリアムズは、このような観客の身体反応は、スクリーン上で強烈な感覚刺激や情動に襲われている女性の身体の過剰であられもない運動の模倣であると指摘している[11]。つまり、「身体ジャンル」としてのホラー映画では、観客が映画の登場人物と同じ身体反応を示すことが期待される。ウィリアムズの論を踏まえると、観客は悪魔の子のおぞましい姿をその目で見ずとも、危険を感じ、嫌悪感を抱き、恐怖を味わうローズマリーの身体を見ることによって、震え上がり、悲鳴をあげることを促されるのである。
 『ローズマリーの赤ちゃん』は、ラスト・シークエンスで「身体ジャンル」の特性を逆手にとり、さらなる恐怖を観客に与える。当初、カメラは観客のローズマリーに対する感情移入を促すために、彼女の背後に密着している(ショット8)。だが、ローズマリーが揺りかごに近づくにつれ、カメラはトラック・バックしていく(ショット9)。さらに、悪魔崇拝者たちがローズマリーを取り囲むことで、観客の目に彼女の姿は見えなくなってしまう(ショット10)。このようにして、ローズマリーと観客の間にかつてないほどの距離が生じた直後、カットが割られ、カメラは悪魔崇拝者たちの輪の中に置かれるが(ショット11)、次いで提示されるのは微笑を浮かべながら悪魔の子をあやすローズマリーのクロースアップである(ショット12)。悪魔の子のおぞましい姿を目撃して恐怖に震えていたはずのローズマリーが、母親としての役割を受け入れることは〈身体ジャンル〉に慣れ親しんだ観客を困惑させ、ショックを与える。観客はもはやローズマリーの身体反応を模倣することができず、社会における正常さの拠点である家庭が脅かされたまま映画が幕を降ろすことに、恐怖するほかない。

ショット8 ローズマリーのバスト・ショット
ショット9 ローズマリーのミディアム・ショット
ショット10 悪魔崇拝者たちに取り囲まれるローズマリー
ショット11 ローズマリーを見つめる悪魔崇拝者たち
ショット12 悪魔の子に微笑みかけるローズマリー

結論

 本稿では『ローズマリーの赤ちゃん』において、主人公ローズマリーのジェンダーは映画が生み出す恐怖にどのように作用しているのか、という問いを出発点に、先行研究による議論や歴史的文脈を踏まえつつ映画を分析した。
 『ローズマリーの赤ちゃん』は、異性愛の一夫一妻制のカップル中心の家庭が社会における正常さの拠点と想定され、それを抑圧された他者性の表象としてのモンスターが脅かす点で『サイコ』の系譜に連なる作品である。また、ヒロインが社会から隔絶された家庭に閉じ込められて孤立し〈ガスライティング〉によって正気を疑うように仕向けられる要素は、『ガス燈』から継承したものである。主人公ローズマリーが自らの身体についての主導権および決定権を奪われることが災厄を招くストーリーは、中絶が非合法化されていた同時代のアメリカに生きる女性たちにとって、真に迫るものであった。
 ローズマリーは、女性でありながらも、視線の担い手としてアクションを起こし、物語を進行させ、観客の感情移入を引き受ける役割を担う。だが、最後には彼女の好奇心と欲望の眼差しに対して、自らが出産した悪魔の子というおぞましいモンスターを見るペナルティーが与えられる。この結末は、家父長制が女性の主体性を抑圧したものにほかならない。
 このように、『ローズマリーの赤ちゃん』が生み出す恐怖の多くは、生物学的性であるセクシュアリティと、社会・文化・政治等の活動領域において「女性であること」を意味づけるジェンダーに依拠するものである。ラスト・シークエンスでは「身体ジャンル」の特性が逆手に取られることで、観客とローズマリーの身体反応に齟齬が生じる。この結末は、観客とローズマリーの同一化という、ある種のシスターフッド的な連帯を引き裂くものでもある。


脚註

1.ロビン・ウッド「アメリカのホラー映画 序説」藤原敏史訳、岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編『新映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』フィルムアート社、1998年、54頁。

2.同上、63頁。

3.Rosley Crowther ”Screen: Sudden Shocks; Hitchcock's 'Psycho' Bows at 2 Houses”, The New York Times, 1960:37.

4. Bosley Crowther” ’Gaslight’, Adapted From Play ‘Angel Street’, at Capitol-‘Hardy’s Blonde ‘Trouble’ Is Shown at Loew’s State”, New York Times, 1944:0.

5. 荻野美穂「アメリカ合衆国の人工妊娠中絶論争 その歴史と意味について」、お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士学位論文、2000年、10-11頁。

6. 同上、30-31頁。

7. ローラ・マルヴィ「視覚的快楽と物語映画」斉藤綾子訳、岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編『新映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』フィルムアート社、1998年、131頁。

8. 同上、132頁。

9. 同上、135頁。

10. Linda Williams ”Film Bodies: Gender, Genre, and Excess” , Film Quarterly,Vol. 44, no.4, University of California Press, 1991:3.

11. 同上、4頁。

作品情報

『ローズマリーの赤ちゃん』
原題:ROSEMARY'S BABY
製作国:アメリカ(ウィリアム・キャッスル・プロ)
製作年:1968年
製作:ウィリアム・キャッスル
原作:アイラ・レヴィン『ローズマリーの赤ちゃん』
監督・脚本:ロマン・ポランスキー
撮影:ウィリアム・フレイカー
音楽:クリストファー・コメダ
出演:ミア・ファロー(ローズマリー・ウッドハウス)、ジョン・カサヴェテス(ガイ・ウッドハウス)、ルース・ゴードン(ミニー・カスタベット)

『サイコ』
原題:PSYCHO
製作国:アメリカ(パラマウント社)
製作年:1960年
製作・監督:アルフレッド・ヒッチコック
脚本:ジョセフ・ステファノ
撮影:ジョン・L・ラッセル
音楽:バーナード・ハーマン
出演:アンソニー・パーキンス(ノーマン・ベイツ)、ジャネット・リー(マリオン・クレイン)

『ガス燈』
原題:GASLIGHT
製作国:アメリカ(MGM社)
製作年:1944年
製作:アーサー・ホーンブロウJr.
監督:ジョージ・キューカー
脚本:ジョン・ヴァン・ドルーテン、ウォルター・ライシュ、ジョン・L・ボルダーストン
撮影:ジョセフ・ルッテンバーグ
音楽:ブロニスラウ・ケイパー
出演:シャルル・ボワイエ(グレゴリー)、イングリッド・バーグマン(ポーラ)

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