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【書評エッセイ】利休の茶席より至福かも。

本物のおいしい料理より、おいしい小説はあるだろうか?

あるだろう。

この小説の茶席の至福さは、本物の利休の茶席より至福かも知れない。

利休切腹直前のシーンから、過去へ過去へと時間を遡り、最後に利休切腹のシーンに戻って来るという構成。

その遡りの中で、利休が「利休」になった伏線が回収されて行く。

それぞれの章題に、その時代に利休と関わった人の名が付けられており、その人物の視点で各章が語られる。

例えば「木守」という章には、このような副題がついている。

徳川家康                                                                                        利休切腹のひと月前── 天正十九年(一五九一)閏一月二十四日 朝 京 聚楽第 利休屋敷 四畳半   

この章での茶席の描写が、「現実より至福かも」という場面なので以下何箇所か引用させて頂く。

半東が、汲み出し茶碗に白湯をもってきた。口にふくむと、えも言われぬやわらかさが広がった。よい井戸の水を、よい釜でゆっくり沸かしたのであろう。 「ただの白湯が、これほど美味いか」  声に出してつぶやいていた。
目の前の露地の一木一草までもが利休の手で磨かれたように清らかで、木漏れ日に光る歯朶でさえ、利休に命じられて、風にそよいでいる気がした。  この露地は、まさに閑かさの桃源郷であろう。柿を葺いた茶室の落ち着いた風情が、警戒にこわばっていた家康のこころを、ゆるゆるとほぐしはじめた。
なかはおだやかに明るい四畳半の席である。ふたつの障子窓が、やわらかい光をつくっている。朝の光があまりに清浄で、ただそこにいるだけで、からだの芯まで清まりそうだ。
床を背負ってすわると、大きな溜息がもれた。張りつめていたものが、いっきにほぐれ、溶け出した気がする。生きていることと死ぬことに、いったいどんな違いがあるのか──。そんなことまで思わせるほど、清浄で落ち着いた茶の席である。
この四畳半の席は不思議だ。ひたすら閑雅をきわめ、障子に射す朝の光さえ凛として神々しいのに、こころの根をゆるりと蕩かす心地よさがある。ずっと背負ってきた重い荷物を、ここで一度おろしてもいいような気にさせてくれる。

この章を読んで、私の肩こりはどこかに消えた。

数学の難問をきれいに解いた数式のように、緻密に用意された構成。

そして、現実を超える至福感を読者に与える筆者の筆力。

久しぶりにエンタテイメント小説でエンタテインされた。


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