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2011.3.11のキオク①

今日は防災の日ですね。
色々と考えさせられる日でもあります。



東日本大震災。
私は津波の被害が甚大であった、地元に居た。

全て実体験です。記憶が薄れないうちに残しておきます。


※当時の状況の表現があるため、気分が悪くなる方や嫌な方は読まないでください。




2011.3.11

午前中から友達と遊んでいた。学生の春休み。
母校に顔を出したり、ランチを楽しむ。

まさか、そのまま家に帰ることが出来なくなるとは思わなかった。


14:46

ちょうど海岸沿いをドライブしているところだった。携帯から、聴き慣れない音(緊急地震速報)とともに、突如、揺れが襲ってきた。

ハザードランプをつけ、車を路肩に停めた。

どんどん揺れが強くなる。
普通自動車が地震の揺れでガタガタ左右に浮き、ひっくり返るかと思うくらい。

周囲にあった家も見たこともない動きで、ぐわんぐわん揺れている。


車内では、友達と手を繋いで、地震の揺れの怖さを耐えていた。長く感じた。

ふと、海岸を見ると、揺れがおさまる前から、どんどん水位が低くなっている。


これは津波がくる!高いところに逃げないと


揺れが完全におさまる前に車を走らせた。


地震によって、直後から停電。信号機は動いていない。戸惑う車で、ごった返していた。譲り合いながら進んでいく。


道路には、窓が割れたガラスがあちこちに飛散していた。呆然と外に出ているおばあちゃんも見かけた。

潮が引く=津波がくる


海岸沿いをドライブしていたからこそ、素早く高台に避難できた。


15:00ごろ

避難完了。
防災無線で絶えず、大津波警報が鳴り響く。


3月なのに雪が降ってきた。暖を求めて、避難所の学校の体育館へ向かう。

そこで友達は家族と、私は親戚と会うことができた。

この先どうなるかわからないので、そこで友達とは別れた。


体育館では毛布を配っていた。

1枚もらって、車に戻ろうとしたら、外で雪の中授乳しているお母さんがいた。寒かったが、赤ちゃんとお母さんのために毛布を渡した。


ワンセグでニュースを見ると、30分前までドライブで走っていたところに10メートル近くの津波がきている映像が流れていて、ゾッとした。


家族のほとんどと連絡が取れて、無事を確認した。ただ、1人を除いて。


日が暮れて、暗くなってきた。停電しているから、あたりは真っ暗だ。暗い中、親戚と一緒に、連絡の取れない家族を、声をあげて探した。同じ敷地内に数カ所避難所が設置してあり、全て探したが、見つけることは出来なかった。


海の方から光が見える。
津波のところから火事が起きたようだ。

高台から、海が近く、炎に囲まれ、このまま死ぬのではないかと覚悟した。


鳴り響くサイレン、人がひしめき合う避難所、迫り来る炎。恐怖でしかなかった。家族が見つからないのも、また不安であった。


避難所では食べ物もなく、ストーブが焚かれているだけ。トイレも流れない。電気、ガス、水道、全て止まっていた。


暗い中体育館で過ごし、しばらくすると、津波がひいて、高台から降りて、道路が通れるかもしれないとの情報が入ってきた。


20:00ごろ

親戚の1人が徒歩で確認し、親戚の家に行けそうな状況とのことだったので、車で高台をおりた。


道路にはタンス、瓦礫、壊れた車、沢山のものが散乱していた。あたりは暗かったが、車のライトで悲惨な光景を目の当たりにした。瓦礫を避けながら、やっと親戚の家にたどり着いた。


親戚の家についたが、相次ぐ余震の恐怖、家族と合流できない不安で、何も口に出来なかった。


21:00ごろ

親と連絡し、今のうちに合流しようということで、親が避難している場所へ、親戚に連れて行ってもらった。津波の被害を受けているであろう実家から遠く離れたところだった。親と合流できて、少しホッとした。


22:30ごろ

突然、携帯の回線がきれた。電話もメールも出来なくなり、周りと連絡が取れなくなる。


この日は昼食以降なにも口にできなかった。
朝、実家を出てそのまま、着の身着のままの状態。


高台にご自宅がある、知らない方に承諾を得て、敷地内に車を停めさせてもらい、車中泊をする。


狭い車内と余震でほとんど眠れなかった。



②につづく…


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