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アンガーマネジメントなんてクソ食らえ!!〜自分の怒りを大切にする

 私はとても喜怒哀楽の感情が強い。
特に怒りの感情は激しくしつこい。
おまけに記憶力もかなりいいから、例えば、幼稚園の時に言われた悪口を今でもはっきり覚えているし、その時の怒りを、何度でも色褪せない原色のまま心の中に再現できる。
その時の私は知っている言葉も少なかったし、相手の間違いや理不尽を指摘して反撃することができなかった。
言い返せる悪口のバリエーションだって今なら沢山あるのに、と思う。
理不尽なことを押し付けられた子供時代を思い出して、今なら大人を論破することだって容易いのに、と思う。
その悔しさがいつまでも心の中に残っていて、自分の方が絶対に正しかったのに、今だったらこうしてやるのに、こう言ってやるのにという反撃のシュミレーションを脳内で繰り返してしまう。
もちろん反撃の機会はもう訪れないにもかかわらず、何十年もその怒りを反芻し続けてしまう。

私は自分を怒らせた相手より自分の怒りを尊重したいので、怒っている相手が目の前にいる時は、怒りの感情をそのままぶつけて関係を終わらせることも正直やぶさかではない。
しかし厄介なのは怒りを直接ぶつけることが叶わない場合だ。
蒸し返すのが非常識な程あまりにも昔のことだったり、後になってひどいことをされたと気づいたり、ネットで匿名の相手に暴言を吐かれたりというような場合、
永遠に反撃することは不可能なのに、自分が言われたことやされたことを反芻して分析する時間も永遠にあるため、前述のような「こうしてやりたい反撃シュミレーション」を終わりなく続けてしまう。

そんな私にとって、いじめや裏切り、犯罪被害や理不尽な別離といった普通の人でも傷つくような人生の体験を乗り越えるのは容易ではない。
怒りがマグマのように煮えくり返って身の内を何十年も焼き続ける。
どうしても許せなくて、心の中で何度も残酷なやり方で殺した人間もいる。
切り刻んだり火で炙ったり。
それでも怒りはゾンビのように蘇って来る。

怒りの対処法は人によって色々あると思う。
例えば他のことを考えるとか、美味しいものを食べるとか、怒りの感情を他に反らすというやり方。
多分この方法で対処できる人はそもそも私とは感情の強さが比にならない。
「多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。」という本が流行ったけど、自分を怒らせた相手がそのことを忘れてパフェを食ってるとしたら、ますます腹が立ってしょうがない。私も忘れてパフェでも食おうなどという気には毛頭ならない。

人に愚痴って憂さを晴らすという方法もある。
でもいつまでも怒っている私を見て、最初は共感してくれた人も「よくそんなに怒れるね」と呆れ始めるから、愚痴は一度しか言えない。

「誹謗中傷するような奴はきっと不幸でろくでもない人間なんだよ」という慰めもよく聞く。
それは真理だろうが、そいつが不幸なことと、私を傷つけたことは何の関係もないのだから、落とし前をつけてもらわないと気が済まない。
そんな有り体の慰めではどうしても怒りを収めることはできなかった。

嫌な目にあった時に、自分が悪かったんだと自らを責めて塞ぎ込んでしまう人もいる。
自責の念など怒りが焼き尽くしてしまうので、私はそういう落ち込み方はしないけど、それで鬱になったり自殺してしまう人だっているのだから、自分のせいにして収めるのは絶対に正しいベクトルではないことは確かだ。

アンガーマネジメントの本も読んでみた。
怒りのピークは6秒なので6秒我慢すれば怒りは収まるとかとんでもないことが書いてあった。
何十年も消えない怒りに苦しんでいるのに何が6秒だ!!
とますます腹が立って来た。本末転倒。

そして怒りの対処法をいろいろ探して気がついたのは、どの方法も

自分の怒りを我慢する
無かったことにする

というものばかりだということだ。

そもそも怒ることは悪いことであって、それを素早く忘れる、なかったことにする、そもそも怒らないようにする、ことが良いことで、その実践法しか見つからない。

なぜ傷つけられた方が怒りを我慢したり忘れる努力をしなければならないのだろう。
なぜ自分を傷つけた人間に怒りを表明することが間違いなのだろう。

私は自分の怒りを大切にしたいと思っていることに気がついた。

怒りは反撃のエネルギーだ。
私を無力な立場になど止まらせまいと、燃え上がり立ち上がらせ、叫ばせようとする。
私の正しさを肯定しようとする。
私は自分の怒りに愛しささえ感じている。
どうしてこの純粋で強く激しい力を外に出さないようにしなくてはならないのか。
口を塞いで蓋をして、生まれなかったもののように、一人で殺さなければならないのか。
私は怒っている自分が好きだ。
怒ることのできる強い自分が好きだ。
私はこの怒りを大切にしたい。
そして然るべき表現をもって成仏させてやりたいのだ。
そのことに気がついた。


今日もものすごく腹が立つことがあった。
相手は殴り逃げのようにして私の目の前からすぐ消えてしまったので反撃することができなかった。
一番怒りが後引くパターンだ。
その時言われた言葉、相手の目つきなど何度も何度も反芻して、他のことは何も手につかなくなってしまった。

仕方がないので夕暮れの中無茶苦茶にスポーツバイクを漕いだ。
そして誰もいない田んぼ道を
「死ね!」「消えろ!」「クソ!」「ゴミ!」と低レベルな暴言を叫びながら走りまくった。
するとどうしたことか、いつも何日も長引く怒りが少しずつ冷えて、体の中から抜けていった。
絶対に他人に見られたくない姿だが、1時間ほど暴言ツーリングを続けると、いつの間にか夕飯の献立を考えている自分がいた。
夕闇を走る電車、カエルの声、一番星が見えて、街の音が聞こえて来た。
怒りが完全に消えたわけではないが、こんなに早く鎮火に向かったのは初めてだった。

思うに自分は怒りを反らしたり無かったことにするのではなく、ちゃんと反撃した実績が欲しかったのだ。
直接相手に反撃できたわけではないが、自分でもこれは言い過ぎじゃないかと思うほどの酷い暴言を吐いたら、まあこの辺で勘弁してやるかという気持ちに漸くなることができた。
心の中で相手をいくらひどい目に合わせても怒りは無くならなかったので、実際に口に出す、怒りを体の外に出す、ということがポイントなのかもしれない。
今度はカラオケボックスでやってみよう。

こんなチンケな方法が、自分の大切な怒りを成仏させる最善の方法なのかはわからないけど、怒りをないがしろにすることはもうしたくない。
「気にしない方がいいよ」なんて慰め大嫌いだ。
私はちゃんと自分の怒りを認めて、怒りの味方をしてやりたいと思う。
相手を直接傷つけたらもっとスカッとするのかは分からないけど、罪悪感とか自分が報復される恐怖とか、また別の負の感情に苛まされそうな気がする。
体の外に怒りを出したら怒りは収まったので、きっと怒りの目的は相手を傷つけることではないんだろう。
大切にされたかっただけなのかもしれない。

そして今日は自分の怒りを、あまり見てくれる人はいないけど、こうして記事にしてポストするという、ちょっとだけクリエイティヴなことに還元したのだからまあ上出来としましょう。

アンガーマネジメントなんてクソ食らえ!!


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