Q.「いかにして器官なき身体を獲得するか」A.「いかにしてもよい(曼荼羅を眺めながら)」
ドゥルーズ・ガタリ『千のプラトー』の重要主題「いかにして器官なき身体を獲得するか」。この、厳つくも凛とした「いかにして」をくりかえし反芻するたび、渦巻いて立ち上がる気持ちを大切に味わってみている。
というのも、先日way_findingさんに貸していただいた『アジアのコスモス+マンダラ』の表紙の宇宙卵をぼんやり眺めていたら、「これってつまり、「いかにして器官なき身体を作り上げるか」だよなあ」と思われたためである (ちなみに、自分でも購入したため、現在手元に宇宙卵が2つある状態になっている。もとい中身を開くと二つどころではないので、私の部屋だけ磁場がすごいのである)。
なお、way_findingさんはこちらの記事で同書について、宇宙図を自在に行き来しながらとっても素敵な文章を書かれているので、ぜひどうぞ。
改めて表紙を見ると、イマジネーションで緻密に象徴化された宇宙図のあざやかさに感興をおぼえる。よって、この図を物象化して見るのはもったいない。
「いかにして」の部分で真ん中の波なみの部分に自分を置いてみて、「器官なき身体を」の部分で視界の粒度を粗くして上部の曼荼羅と下方の無分節領域を素早く同時に写しとる感じにし、最後に「作り上げるか」でぐるりと一周回って、今ここの自分を遠方から眺める。同時に元の場所に戻ってくる。
すると、「なりつつあるもの」としての私の心身が、この図全体にふわーっと満ちてゆく感じがするものである。
「いかにして器官なき身体を獲得するか」。この「いかにして」というのはまさにそのまま私自身の問題意識でもあり、声を大にして、それでいて低い声で呻吟するように呟くほかない。「そう言われても、いかにするものか…」と。
この問いの力は魂を必然的に「いかにして」モードにさせるため、居住まいを正して若干姿勢は前傾に、「一丁やりますか」と腕まくりしたくなる (その時々で思うところは全然違うが、少なくともこれを書いている時の気分はそんな感じだった)。これはアジを3枚に下ろす時やホールケーキを裁断する時のような・・・不可逆的な行為(実験)を前にした時の身が絞まるような緊張感、呼吸を忘れる真空感覚に似ていなくもない。不可逆性の予兆は一体何なのかというと、器官なき身体と化することで「今あるこの私」と決別し、私と同じにしてまったく別物の存在になってしまうことを勘づいてのことなのではないか。
宇宙図を片目に、『千のプラトー』をひらいてみる。
まず「器官なき身体」の成立構造としては地層化と脱地層化の動きが重要になる。
話をわかりやすくするためにあえて単純化すると、器官⇄器官なき身体という図式を便宜的に想定して、「器官→器官なき身体」が「脱地層化」にあたり「器官←器官なき身体」が「地層化」と考えると整理されると思う(これを、前の記事で掲載した西田の絶対無→私汝自己限定円錐に置き換えても仕組みは同じだと思う)。
このとき、地層の形成を基礎付けるのが「形式」(一定のパターン)である。「質量」が形式を伴うと「実質」となり、「実質」から形式が解かれると「質量」となる。つまり、形式の着脱(⇄)が地層化/脱地層化にあたると考えられるだろう。
質量が流動する水のようなものだとしたら、形式という分節体系は製氷機、そこまで枠組みを明確にせずとも何らかの方向性を与える水路といったところか。定式的に組織された鋳型にはめ込まれることで、水は「なんにでもなれる」という意味で「なんでもなく」同時に「なんでもあった」融通自在な状態から、特定の形を持つ実体(=「これ」)として実質化、地層化されてしまう。
こうした、所与の規則(形式)の中に同定されることで、本来の可変性が失われてしまう状態は「顔」という事態において批判的に示されている。
では、顔という凝固した実質から単に形式を外せば良いのかということで、いわゆる福笑いのようなものを想像するかもしれない。しかし、それでは冗長性(形式のパターンが成立していること)を排したことにはならないだろう。福笑いでは目鼻口などの器官が自明に与えられているし、出来上がったちぐはぐな図柄に対しても我々は紛れもない顔をそこに投射しているわけだから。「いかにして」という問いには何も応答していないのだ。
では、顔を解体すること、脱地層化するためにはどのような実践が可能なのだろうか。
ドゥルーズ・ガタリは質量と実質のあわいのような「領土」こそ脱地層化を可能にすると考える。「顔を作るな」というのではなく、「むしろ一旦顔を作って突き抜けろ」というところがおもしろいと思う。
これは考えてみれば当たり前で、いったん領土を設け、地層化しないことには、脱地層化もなされない。拘束される現場がないと逃走線も引かれない。「私」と言わないと、核心的な意味での「非‐私」が生起することもないように。そこで質量を別様に(「存在するとは別の仕方」で)作動させるためには、あえて領土をスプリングボードにして、形式を巧みに利用する必要がある。
ジェンガを高く積み上げるのは積むことそれ自体に悦びがあるのではなく、最終的に派手に崩すことにカタルシスの恍惚を期待しているからだろう。したがって、ロゴス的地層はそれこそ井筒先生が「存在秩序のエクスタティクな破壊」(井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』, p250)と言うような、激しい破壊の相においてはじめて、むくむくと蠕動する有、叡智に満ちた光の世界が立ち上がるのだと思う。
地層を壊すためには、まずは試しで地層化すること、えいや、で固まってみることが大切である。留意すべきは、それが「解体」を前提とした仮のものに過ぎないということで、そこでうっかり層状化してしまっては本末転倒である。飛び上がるために軽く地に足つけるのであって、そこに永住しては目的を取り違えている。
ところが実際問題、社会的にマジョリティとされる価値観になんとなく乗っていると、この「えいや」は結構難しい。
人格が「積み上げられる(積み上げなければならない)」ものとして、過去から未来に連続する実体のようなものと捉えると、実質として自己を規定すること、つまりある一点に向けて私を参与する(まとまる)ことは、これまでを集約し今後を左右する決定的行為のように思われる。この一点、この判断が、これまでの私の蓄積の頂点であり、また後々の私のあり方を未来永劫方向づけるのだと思うと、決断することの負担は主体に重くのしかかる。選ぶことの怖さはこのような点に一因があるのではないか。
一つの決断で私のすべてが決まってしまうような、そんなおそろしいことをうかつにできない。しかし、いつまでも怯んでいるわけにもいかない。そこで、この心理的不均衡状態をなるべくコスパよく解決しようとすると、決断の責任を(私ではなく)外部に転嫁すればよいという話になる。そうすると、冗長性に対する共鳴(規範パターンを内在化すること、要は予測可能なレールに従うこと)が促進され、人間はショボく、「つまらなく」なると思う。
もちろん、言語をはじめ世界は冗長性によって編み上がっているようなものだし、別にそれに従ってもいいと思うのだけど、それを自覚しているか「どっぷり」になるかどうかの差は大きい。
層状化するとは別様な仕方の可能性を探っていく際のドゥルーズ・ガタリのキーワードに、コードや形式から解放された質量それ自体がその都度花開き、微妙にずれながら波紋を広げていくようなリズム、「リトルネロ」が登場する。これは、ガッチリ固まった地層に潤滑油(クレ556)をまんべんなくさすみたいな感じで作用する(のではないかと思う)。俗に言う「うるかす」感じ。
工程が前後する気がするけど、これは西田のいう「ポイエシス」、「非連続の連続」とも近い印象を受ける。
つまり、連続がーーーーーこんな感じだとしたら、リトルネロによって「地」に揺すりをかけて、「図」の様態を-/-/-/-/-/-/-/-/みたいにしていく。それによって、使い勝手がよくなるというか、接続の幅が広がり、柔軟性が増す。連続を非連続化していくのである (なお、西田のいう「非連続の連続」は-/-/-/-/-…的自己がかろうじてーーー…的自己として連続しているという順序だろうが)。
よく、創作フランス料理などで「子羊のラグーソース仕立てプロヴァンス風〇〇添え××風味なんとかかんとか・・・」みたいな「だから結局なんだよ」という長々しい名前の料理が供される場合がある。皿の容量に対して明らかに少ないコレが果たしてなんなのか正確にわからないからこそ美味しかったり微妙だったりするのだが、「異質なもの同士の接続余地を開放し続けるために概念がまとまらずに絶えず宙吊りにほどけている」という点でドゥルーズ・ガタリが強調する横断性のイメージになんだか似ていないか。眠くなるような料理の説明に対し、「「と・・と・・と・・」を生地」とするリゾームの蠕動運動を連想してしまうのである。「。」で概念に蓋をしてしまわずに、「風」「仕立て」「的な」などといった(やりようによってはどこまでも拡張可能な)接続詞で「まとまり」を回避し凝固化をかいくぐり、アメーバ状の網(リゾーム)を拡げていく光景を思い浮かべてしまうのである。
このように考えてみると、西田の言う「非連続の連続」は「脱領土化の領土化」とでもいえるだろうか。この場合アレンジメントに傾いた領土であって、地層化はギリギリ回避しているニュアンス。
ただし、ここで一瞬生起した連続を「あるもの」と固めてしまってはまずくて、やはり「非連続」、「あるようになること」でなければならない。領土化が不断のアレンジメントとなるか、再度地層化に回収されるかの差はこの辺にあるのではないだろうか。
この点、平田公威さんは博論をまとめた『ドゥルーズ=ガタリと私たち』において「アレンジメントはたしかに表現の質量を解放するが、領土を形成するという点で地層化を免れない」(『ドゥルーズ=ガタリと私たち』, p.140)と示している。
質量の地層化は脱領土化→アレンジメントによって解除されるかと思いきや、もろとも地層に巻き込まれてしまう可能性を常にはらんでいる。
一瞬浮かんだ連続性。レヴィナスだったら全体性の気配を敏感に察して前言撤回したくなるかなあとふと思ってみるが、そこで浮かび上がった「有」の片鱗を迎え入れるか忌避するかは時と場合に応じてそれぞれだろう。ドゥルーズ・ガタリの立場は「否定する前提で肯定する」。つまり、有を踏み台にして切断してゆく。(平田さんは「伴いつつも抗する」と表現している)。この、「どうみても無理があるのだが、がんばる(肝心のがんばりに具体性があまりない)」ようなところ、若干「悪戦苦闘のドッキュメント」(西田)感が滲む感じがしないでもない。
なお、地層から抜け出たいからといって準備ないまま早急な脱地層化を試みるのは自殺行為である。一切のパターンを喪失したカオスでは思考することはおろか、そもそも生命が危うい。結局のところ地層化が悪いのではなく、循環機能を澱ませ動きを悪くさせる形式化、有機化がよろしくないのだと思う。
地層に乗りつつ崩してゆく、丹念に思考で思考を煮込むことで芯の部分からじっくりゆっくり繊維をほぐしていく。外見からはわからないくらい、内側から組織を解体する、中身をすり替えたり、「憑依させる」すべはないものだろうか(それを探すことも「いかにして」なのだが)。
ここで私の個人的な希望をいうと、脱領土化し再領土化した物質がすぐさま脱領土化されるような振れの間でやっとの思いで息をしてみたい。というところになる。
Q. 例えば、「わたし」と言葉を発した瞬間、その上に「あなた」という淡い色のルビが振られるような世界はどうだろう。
全員:「いいとおもう!」
A. そこで動揺した「わたし」が慌てて「わたし」と言うために「あなた」と言うと「あなた」をなぞり取るように「わたし」というルビが追いかけてくる世界がいい。
A. そこでいつまでも足場が踏み固められることなく、寄せては返す波にあそびあそばれてみたい。
A. 「わたし」と言うことが「あなた」を生じさせるに伴って、両者の区別がほつれ、蜘蛛の子を散らしたように「わたし」と「あなた」のあいだに、「わなし」「わなた」「あなし」等々といった・・・粒状の中間要素が湧き出して収拾がつかなくなり、主客が「どうでもよくなる」という意味で機能しなくなってみたい。もっと言えば、機能しなく「させて」も、みたい。
A. 「なりつつあるもの」が描いた一瞬の光の筋を「わたし」や「あなた」ではなく「場所が」みていてほしい。それは同時に、すべてまとめて「わたし」であるという世界であって、そういう海で泳いでみたい。
なお、ドゥルーズ・ガタリはこんなすてきなことを言っている。
「最高の強度」と言う言葉の照り、絶対的なシズル感がものすごい。
漫画「美味しんぼ」で「究極VS至高」というのがあるけど、それくらい語が意味する対象の具体性に欠けるのに訴えかける力がすごい。
私は私を可能にさせる、ありていの記号で識別されたくなどない。「私のほんとうを見るためにそのように見ないでください」と頼むのもおかしいが。そんなものには収まりきらないーー器官なき身体の追究の果てにおいて非人称化のあとさきで、絶えずたえず他人のような私を見出されるとともに自己限定し、される。
そんな世界がうつくしいとおもう。
上の引用だけでも十分すぎるくらいすてきなのだけれど、たとえばこれを、井筒先生の言葉で置き換えていただくとしたら、
「「自性」的同一律が、「自性」の撥無によって非「自性」的同一律となって現れるという、同一律の根本的な内的変質のプロセス」(『コスモスとアンチコスモス』, p.409)のところで、なんの触媒も通さずに、「それ」が実現したら…というようなことである。
なお、以前「器官なき身体」について色々書いた記事で、蛇と人間の地と図を目眩く交換させる・・・という例を出した。
例えば蛇の「地」が極まった臨界点、「縦に裂けた真っ赤な口を開き、今お前を喰らわん」のようなところで、「人間としての」名前を呼ばれたとしたら。そこでぐるりと人間の「地」に転換するということは、真の意味で見染められる、ドゥルーズ・ガタリの言葉にして「瞬間的な把持」、西田が絶対の他に触れて「死ぬことによって生まれ、生まれることによって死ぬ」などと言うの時の
「生まれる瞬間」
ということ、なのではないか。
いかんせん、「物きたって、我を照らす」的に成り立っている自己なものだから、頭のてっぺんからつま先まで激しく照らし出してくれる契機に弱い。よってこういうのがとんでもなくすてきに思えて、「わたし、生きてるなー」と感じられてしょうがないのである。
・・・さて、この辺りで「アジアのコスモス+マンダラ」の表紙に戻ろう。
最上部の表層にある整然と象徴化された曼荼羅(器官身体)をして深層部の器官なき身体(純身体)を垂直に透徹する、というか器官身体即器官なき身体、外延即内包、逆向きで言えば永遠の今の自己限定という感じで今ここで「最高の強度」の器官なき身体を「現成」するということだろう。厳密にはもともと器官なき身体になっているのだけれども、「いかにして」それを回復するかということが問題である。
そのためには、ひたすら瞑想をする、芸術に身を投じる、脱魂状態で舞い踊る、三密を加持するという方法もあるし、「千のプラトー」において語られるマゾヒズムもその方略の一つなのだろう。もっとも、結果的に「CsOを展開し、実験に向けて開く」(p.183)ことができればいいため、その方法は「いかにして」も構わないのである。いつでもどこでも、「いかにでも」しようがあるのが一番おもしろいところなのだ。
宇宙図を眺めている私は、そのプロセスをどう引き受けるか、いや、やりに行くかを「いかにして」という問いとともに試されている。
文化人類学者の岩田慶治先生は「宇宙人間になり自分曼荼羅を描く」と繰り返し書かれているが、「いかにして」その都度の自分をアレンジメントするか、地図作成していくかと言い換えることができるのではないだろうか。
現にあるこの姿で宇宙人間になる(器官なき身体であることを自覚する)と、自他が異なりながらも同じであることが自ずと感覚される。そのとき、異質なもの同士が互いに、自在につながっては豊かさを拡張させてゆく。そういう世界がひらける。
これは全然難しいことではなく、主体の構えが重要なのだろう。私次第で世界は外延べったりの器官身体(岩田さんは、「機械人間」という)でもあり、同時に内包がたまたまこのように自己限定(領土化)したくらいの器官なき身体として自在に飛翔することもできる。
つまるところ、日常のありとあらゆる事象を「いかにして器官なき身体を作り上げるか」という問いのもとで生きてみること、ないしはこの重くて動きづらい器官身体をして「解脱の機会」に向けて試されている自覚を持ってみるとよい、のかもしれない。