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エッセイの中の孤独を抱きしめて

エッセイを書き始めたのは大学生頃である。

その頃、中高一貫校出身であった私は友達作りというものに大分ご無沙汰していた。さらに、浪人で勉強漬けになっていて会話という会話をろくにしていなかったことも作用して、大の『コミュ障』に出来上がっていた。

元々シャイで言葉少ない方だけど、ここまでの素質があったとは。私。自分でもびっくりしてしまう。

大学入学前に開催された1泊2日のオリエンテーションに参加した時、同じ部屋になった数人とさえまともに話せなかった。
みんないい人だったと思う。でもやっぱりちょっと浮いているのを感じて、孤独に耐えきれずひとり先に布団に入りその中で泣いたことを忘れない。

地獄のオリエンテーションを経て、コミュ障はコミュ障なりに努力して友達を作った。
授業に行ったときに隣に座ったり、休んだときに代わりにプリントを見せてもらう友達。一緒にディズニーランドや旅行にも行った。彼女たちのことを信頼していた。
それでも、なんだか胸が乾くというか、誰にも理解されていないと感じる。
「何故生きているのだ?」みたいな根源的な問いを自分に突きつける日が続く。

このまま4年間を普通に単位をとって、普通にサークル活動して、普通に飲み会に参加し、就職活動をして、できれば優良企業に就職し、卒業後も普通の?丸の内?OL?になり、今の彼氏と結婚して、子どもでも持つんだろうか?

自分が好きなことも、自分が何を望んでいるのかもわからないのに、どんどん時に押し流されて社会人、30代、40代、50代と歳を重ねていくなんて。
そんなのあんまりじゃないかという叫びのようなものに毎日たどり着き、モラトリアムのなかで眠りにつく。
死ぬ勇気もないが、生きる活力もないこの状況をどうにか打破しなければならない。そう思っていた。

私は自分で何かを選ばなければならないことだけは直感的に知っていた。
その時の自分の行動原理としては、「将来役に立ちそう、アピールできそう」という就職活動のためか目先の娯楽に興じることであったが、そうじゃない、自分が自発的に、継続してやりたいと声を大にして言えることを探していた。
そこで思い当たったのが、うっすらと幼少期から続けてきた文章を書くことであった。

これで苦しみから解放されるかもしれない。縋る想いですぐにエッセイサークルのようなものに入った。
「ようなもの」と書いたのは、正式にはジャーナリズムサークルだったからだ。

新聞社、メディアの就職試験というのは800文字の作文が試験として課されているから、その対策として800字の作文を書く集まりだった。毎週お題が提示され、それに沿って作文を書いてくる。書いた者が皆の前で作文を音読し、その後で皆で意見を言い合う会だった。

『新聞記者』。そう見た時、これはもしかすると自分の天職なのではないかと思った。

「文章を書いてお金をもらうなんて、素晴らしい。」

夢をみつけた。これが夢なのだと1ヶ月くらいは思っていて、LINEの一言欄に『夢ができた』と書いたくらいだった。

すぐ、そんなに都合のいい夢はないと知ることになる。
私には真実を自分の目で確かめたいというモチベーションもなければ、泥臭く足でかせぐ気概もなかった。
さらに私から溢れる言葉というのは、いつだって自分の小さな世界のことにフォーカスしている。新聞記者になって、日本、ひいては世界の事実をたんたんと書く様が想像できず、「これは夢ではなかった」とすぐに分かり落胆した。


その希望が萎れたあと、私には行き場がなかった。
私は、何に一生懸命になればいいのだ。

行き場のない思いを、これが何になるのだという思いを、エッセイにした。
その作文を、声に出して読んだ。誰かの声を聞いた。
誰かの孤独を聞いた。いつのまにか、胸が湿っぽかった。

誰の文章の中にも、自身への対話と、葛藤と、クリエイティビティがある。
自分は昔ゲイだったとか、いじめられていたとか、心のうちをさらけ出して書いた文章を皆の前で読み上げる。
自分も祖父が亡くなった時に心を病んだ話や、孤独感、自分のこの内気さの話など、普通には話さないようなことを書き、共有していた。

皆お互いのことをよく知った。
バックグラウンドも、今の悩みも、最近心に響いたことも。相変わらずコミュ障だったけど、私の中身もみんな知っていた。

人の孤独を知り、自分の孤独を聞いてもらうと胸がじんわり熱をもつ。
私は誰かに自分のことを話したかったのだ。分かって欲しかったのだ。そして1人でないことを知りたかったのだと、分かった。

子どもの時、日記は全く書かなかったし本も読まなかった。だけどよく物語を作っていたから創作やエッセイは私のライフワークであり、今は誰かに私を知ってもらう、コミュニケーションツールにもなっている。

書くに生かされているな、としみじみする。
そして、エッセイの中の孤独を抱きしめて生きていくのだと、言葉を揺らしながら思うのだ。

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