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家族ガチャと人生ガチャ / 家族ゲームと一度切りの人生
「おめでとうございます。元気な赤ちゃんですよ」
そう言われて男は妻といっしょに喜んだ。
「ありがとうございます」
「赤ちゃんは見れますか?」
「はい。こちらです」
そういって、連れて行かれると、透明なガラス越しに赤ちゃんが並ぶ部屋があった。
「あちらです」
そう指さされると、空中のウィンドウで、自分の息子であることがわかった。
「きっといい子に育ちますよ」
「ありがとうございます」
女性が子供を産む時代はとうの昔に終わっていた。
いまでも家族という形態はあるが、昔のそれとは違っていた。
まず血縁も、それどころか恋愛や感情関係もない。
ある程度のルールと法則はあるが、ランダムで割り振られた人たちで家族を営む。
昔はこれを家族ガチャとか家族ゲームとか読んでいたらしい。が、いまではこれが家族の形だ。
妻も自分も、自分の親も、割り当てられた役割として、この世界を生きている。
それが普通だ。
昔は自己実現や夢を人生に賭けていたらしいが、それも今や昔だ。
ある程度の社会的役割と家族役割が割り当てられ、それに準じて、生活し、全うする。
それがその世界の仕組みだ。
昔の社会主義のように思えるかもしれないし、昔の人にとったら、自由を奪われた人生のように思うかもしれない。
しかし、それは旧来の価値観を抱えたままシステムだけをごっそりかえようとして失敗しただけだ。
一番の価値観とシステムの変化は、死がなくなったことだろう。
生物学的な死が技術的に解体され、それでも生きなければいけない時、無限に続く老後の解決策として、この家族ゲームが開発された。
そして何度もやり直せるのだったら、だれが家族かなどそれほど気にしない。
何度も、繰り返せるのなら、だれでもいいのだ。
今日生まれた子供も、本当は大の大人ーー老人だ。
俺たちは無機質なポットの中で無限の生を得ながら、永遠に人生を繰り返す。
ゲームのような世界の中で。
区切りをつけて、一生懸命に。
どこか、他人事のような生を享受するのだ。