『他なる映画と 1』濱口竜介(インスクリプト)~映画講座集成!映画を生々しく体験するには!?~

映画監督の濱口竜介氏による映画講座をまとめた本である。濱口氏が映画についていろんな場所で語った講座を集めた本なのだが、これが素晴らしい。映画をこれから撮る人、学ぶ人は是非読んで欲しい本だ。いや、読むべき一冊である。いろんな場所で語った「話し言葉」がベースになっているので、それほど難しくはない。濱口竜介氏は、この本と同時に『他なる映画と 2』を出していて、こちらはいろんなところで書いた映画論をまとめた本である。こちらは「書き言葉」がベースになっており、より緻密で専門的だ。特にロベール・ブレッソンの唯一の著作である『シネマトグラフ覚書』についての研究・解説・読み解きは、本当に驚きべき緻密さだ。まさに専門書である。なかには相米慎二論などもあって、『2』もまたいろいろと面白いのだが、まずはこの『1』を読んでみて欲しい。映画について基本的なことがわかる本になっている。私も勉強になったので、簡単にここでまとめておきたい。

濱口竜介監督は、蓮實重彦氏が学長だった頃の東大に入学し、映画研究会に入ってから映画を丹念に見始めたという。それまでは普通の映画ファンだった。大学卒業後に映画監督を養成する東京藝術大学大学院で黒沢清から多くのことを学んだ。蓮實重彦⇒黒沢清の流れに連なる映画人である。その黒沢清は映画監督の仕事として、根本的なことは二つだと言った。

・カメラをどこに(向けて)置くか、を決めること 
・カメラをいつ回し始め、いつ回し終わるか、を決めること

つまり撮影現場で、「いったいどこから、いつからいつまで1ショットで撮るのか」、ある1ショットのありようを決定することが、映画監督における最も根本的な仕事だと言ったというのだ。世界最初の映画のうちの一つ、リュミエール兄弟の『工場の出口』などいくつかの作品を引き合いに出しながら、濱口氏は「ショットは、まず何よりも過去に起きた出来事の記録としてある」と語る。カメラは「機械的無関心」によって記録を行うものであり、「他性」とは、機械の自動性に由来する。だから時に刺激情報の少ない映画を見ると「眠くなる」のだ。濱口氏も学生時代にいろいろな映画を見始めた頃、度々映画がわからなくて、眠くなったそうだ。ただ一旦寝て、起きてからの時間、映画を見続けていくなかで、起きた後の冴え渡るような感覚、今までだったら寝てしまっていた画面を見続けられるようなからだを手に入れた感覚を持ったらしい。

この小さな死と再生を体験するような感覚が、映画を見ながら寝て起きる時間にはありました。その体験が少しずつ現実に、私のからだも変えていったような気がしています。『他なる映画と』というタイトルの「と」の部分にこめたのは、この生き物と機械の間にある「非-生き物的な」時間への愛だった、という気がしています。結局、それはとりつくしまがなく、映画が終われば消えてしまうような時間ですが、私はつかんでは消えていくこの時間の正体を知りたくて、映画とずっとかかわりあっているように思えます。

『他なる映画と 1』濱口竜介(P28)

そしてショットが記録しているのは、この世界における極めて「断片的な時空」であり、フレームの中、スタートとカットの間だけの記録としてあるということだ。リュミエール兄弟が記録できるカメラは50秒だけだった。しかし、その50秒以外の時間、そのフレームの外には膨大に広がる時間があり、際限のない空間がある。カメラが持つ完璧なる「記録性」と同時に、「画面外にある何か」を見たいという気持ちを喚起する「断片性」こそが、映画をフィクションへと導く絶対的な可能性なのだ。

グリフィスは「クローズアップ」という技法の発見者、として記憶されがちだが、彼がいちばんうまく使いこなしたのは「画面外の空間」だ。カメラをクローズアップで撮れば撮るほど、空間の断片性が上がっていく。グリフィスはクローズアップを撮ることによって、画面外の空間、画面外を見つめる瞳、画面外の視線を発見した。それぞれのショットは別々の時空の記録。にもかかわらず、その画面外を見つめるそれぞれの視線の方向を右左で合わせて並べると、二人はまるで今同じ空間に属して見つめ合っている、というフィクション=物語が生まれる。映画は編集によって多様なフィクションを生み出していった。カメラの「記録性」がドキュメンタリーの側に属するショットの本性とするなら、「断片性」は明らかにフィクションの側に属する本性だ。

ある映画について「ドキュメンタリーなのか、フィクションなのか」という区分けを試みるよくある問いは、私にはほとんど無意味に感じられます。映画制作の最小単位であるショットを撮る時点で、ドキュメンタリーとフィクションとしての性格は必ず同時に生じます。ならば、その集積として作られる映画もまた、常にある程度ドキュメンタリーであり、ある程度フィクションである以外はありません。映画は常にフィクションであると同時にドキュメンタリーである。あくまでも個々の作品のアプローチによって、その度合いが違うというだけなのです。

『他なる映画と 1』濱口竜介(P38)

黒沢清の問い、「いったいどこから、いつからいつまで1ショットで撮るのか」とは、撮影現場で、個々のショットの記録性と断片性の度合いを具体的にどう調整するのか、ということを問うものであり、その調整を通じて、映画におけるフィクションの力とドキュメンタリーの力(それはともすれば互いに弱め合ってしまう二つの力)が、いったいどうやって同時に最大化されるのか、ということが映画監督の仕事なのだ。

演出の力点を人間の感情表現などには決して置かず、カメラが第一に記録の機械であることを理解していたというハワード・ホークスの諸作品に触れつつ、「本当にそれは起きた」という事実を記録することに力点は置かれていると指摘。さらに記録性と断片性を自覚的に利用して映画を作った人として、イランのアッバス・キアロスタミの名を挙げている。また、空間全体の引き画がなく、各ショットが断片化されたまま浮遊しているロベール・ブレッソンの『ラルジャン』について語ったり、成瀬巳喜男の『流れる』を引き合いに出しながら、「映っていないもの」と「映っているもの」がアクションつなぎでつながれていることも指摘している。

またカメラが映し出す「からだ」についても言及している。フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのダンスについて触れながら、二人のからだの距離の伸び縮みをフレーム内で収めるカメラワークの素晴らしさ。ジャック・ベッケルの『肉体の冠』で、回転する男と女の顔は常に交互に映り、「顔とカメラのダンス」が見事なこと。マキノ雅弘の『次郎長三国志 第四部 勢揃い清水港』では、顔の明滅、点滅現象が起きていて、「からだの回転」に満ちていること。成瀬巳喜男の『乱れ雲』では、司葉子と加山雄三の葛藤のなかで「逃げる」と「追う」の二つの運動について語り、成瀬以上に「逃げた先にあるカメラ」で通せん坊をしながら、逃げる人間と追う人間をイマジナリーラインを超えて撮った増村保造の映画。行き場をなくした女はやがて画面外を見つめるに至り、「フレーム外を見つめる女の顔」こそが、増村保造の象徴的画面だと濱口は言う。

俳優たちの「振り返り」や「回転」を日本映画が多く撮ってきたのは、撮影所の四面のセット、360度の撮影空間に由来していると指摘。アメリカ映画が180度セットでイマジナリーラインを使って効率的に映画を撮ってきたのに比べ、日本映画は四面全面セットを作ったうえで、その都度セットの壁を外して、より俳優の動きに対して柔軟に、自由にカメラポジションを選ぶことができた。相対的に狭い日本家屋の生活空間でどうダイナミズムを生み出すかという創意工夫の結晶でもあり、「振り返り」という芝居が発達する土壌になったったという指摘も映画監督ならではで面白い。

ドキュメンタリーにおいては「背中」がより映りやすく、フィクション映画においては「顔」がより映りやすくなる。ドキュメンタリーでは、基本的に何が起こるか知らずに、その場で起きることに従いながら作る。カメラは必然的に遅れを取り、背中を追うことになる。フィクションはあらかじめ「顔をカメラに向けてもらう」。「からだは嘘をつかない」ならば・・・・、「演技していること」「意識して、体をコントロールして、カメラへと顔を向けていること」、そうしたことの痕跡はやはりカメラに映るのではないか、と考える濱口は、俳優のからだの虚構性について考える。

溝口健二の『西鶴一代女』では、必死で逃げる女と、その「顔」を必死で追うカメラが、顔の最高度の緊張状態を示すように「背中」と「顔」の中間地点としての「横顔」が画面上に現れている。溝口の『夜の女たち』でも、役者の身体に生じているフィクションとドキュメンタリーの境界面・臨界点のようなものをカメラが記録している。カメラに顔を向けない相米慎二の『ションベンライダー』の子どもたちは、撮影行為そのものがスペクタクルと化している。ジョン・カサヴェテスの『こわれゆく女』では、ジーナ・ローランズの虚実の境界を踏み越え、本当におかしくなってしまったのではないかという不安、その反応こそがカメラで捉えられている。その動きはもはや、振り付けられたものではなく、役者自身から発露した自覚的なものと感じられる。。そのようにして多くの映画監督たちが、カメラに「顔」を向けることでドキュメンタリー的力を失うことになることを知りつつ、何をカメラの前に見せ、ドキュメンタリーのように生々しく何かを記録できるか。フィクションの「断片性」とドキュメンタリーの「記録性」の両方を最大化させることに腐心している。

さらに役者が何度もカメラの前でより良く「繰り返し」演じるためには、脚本のテキストこそが重要性だと語る。「演技は演技でしかないようにカメラに写る」という変えがたい現実に対する唯一の突破口は、脚本というテキストにある。小津安二郎の『晩春』における原節子のセリフの語尾、「の」という語尾の多さを指摘し、その「の」に導かれて、自身にとっても定義不可能な感情のまま、ただ自分自身の真実を周吉(笠智衆)にさらけ出して伝えている。または、溝口健二の『近松物語』における香川京子が、「茂兵衛」という男の名前を呼ぶことが「生きること」と重なりあっている名前の持つ語感の力。さらに濱口氏自身が映画作りで実践しているジャン・ルノアールの「イタリア式本読み」について触れ、「偶然を準備する」ことの重要性を語る。

「偶然の瞬間を捉えること」とは、役者が意図やコントロールによってテキストに近づくのではなく、役者の自発的な動きや一回しか起こらないような偶然に立ち会うこと、それを準備しカメラで記録することの重要性にこだわる。

現在の私が役者を撮るときに何に照準を絞っているかというと、セリフや演技の巧拙では一切なく、この「役者の意図を超えて、身体に起こる偶然」です。言ってみれば、それは役者の身体の「ドキュメンタリー」を撮るようなものです。結局のところ「それまでその人がどう生きてきたか」ということに強く規定される、とよく感じます。

『他なる映画と 1』濱口竜介(P255)

ここに書かれていることは、そのまま濱口竜介が作る映画の演出論、演技論にもつながっている。

「映画はドラマを語るということに最も向かないメディアなのだ」と黒沢清は言ったという。「カメラは基本的に現実を写すものであって、現実を写すことを通じてフィクションを作るというのは、大いに破綻した行為、矛盾した行為なんだ」と。しかし、濱口は「カメラが機械であり、映写機が機械である。その機械が、観客が一体何を思うおうと、観客がどのような体調であろうと関係なく、自らが構成された通りにある画面を、否応なく見せ続け、終わる。その厳然としたありようは「運命」というものにきわめて似ている。そんな気がしています。映画は運命を語るのに最も適している。」と映画の可能性について語る。フィクションを作るということの困難さ、カメラに顔を向けながらセリフを言う演技というものの嘘臭さ。そういうものに自覚的でありながら、1回限りしか起こらないような奇跡的な瞬間、偶然をどう捉えられるかが、すぐれた映画なのかもしれない。

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