映画『TAR ター』トッド・フィールド ~強権的な振る舞いと性的嗜好と不安~
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2023年日本で公開された作品で、比較的評判の良かった映画である。WOWOWで視聴。なるほど、ケイト・ブランシェットの存在感が圧倒的に感じられる堂々たる女性指揮者の人生の苦闘の映画である。彼女が指揮する場面の迫力、音楽・芸術への激しい執着、そして強さの裏返しでもある弱さと不安が描かれる。ただ、肝心なことをあえて描かない映画なので、ちょっとわかりづらい。綿密に計算された脚本と思われ、あえて描かないことで観客に想像させる作りになっいる。ただ、ラストなんかは私にはちょっとわかりづらかった。
オープニング、先住民族の音楽がスタッフロールのバックでかかる。最初からスタッフロールで始まる。この音楽はなかなかいい。どうやら南米のペルーの先住民族の音楽のようだ。主役のケイト・ブランシェット演じる女性指揮者リディア・ターはペルーで先住民族たちと関わっていたらしいことが明かされる。そして冒頭で何やら飛行機の中で彼女が寝ているところを撮影し、チャットしているスマホ画面が出ててくる。誰かがターのことを写し、噂している。「まだ愛しているの?」なんて言葉も挿入され、愛をめぐるトラブルが起きていることが示唆される。その後は長々と舞台でターの対談の模様が続く。クラシックをめぐる話をしつつ、女性指揮者ターという女性がクラシック界でいかに素晴らしい実績を残しているかが説明される。前半は会話シーンが多く、動きもなく退屈だ。同性愛者であるターの振る舞い、若い女性に目がなく、秘書のフランチェスカ(ノエミ・メルラン)の嫉妬の視線も描かれる。さらにパートナーである女性のシャロン(ニーナ・ホス)は精神的に不安定であり薬を飲んでいて、ターが彼女を抱擁して落ち着かせるシーンがある。養女のペトラには「パパ」と呼ばせており、ターは家庭内で男性的な役割を担っているようだ。
前半で注目されるのは、ジュリアード音楽院におけるターの授業だ。室内の長回しワンカットで撮影された黒人男性のマックスとターのやり取りは、ターという女性のキャラクターを明確に描き出す。20人の子供を作った男尊女卑的なバッハという音楽家に対して、彼の音楽そのものも認めない立場を取るマックスと、芸術的価値と私的な性癖や信条は別のものと考えるべきだというターの意見が対立し、ターは教師の立場から論理的、威圧的にマックスを説き伏せる。貧乏ゆすりが止まらないマックスという若い未熟な青年を全否定するかのような態度は、ターという女性の芸術に対する情け容赦なさと強権的なふるまいを印象付ける。
この映画は、その成功者であり社会的地位も手に入れた芸術に妥協を許さない天才女性指揮者が、その自らの強権的な振る舞いと性癖によってすべてを失いつつ、新たに再生へと向かおうとする物語である。ターが自らマックスに説いた罠にター自身もまたはまっていく。芸術的作品・音楽的価値とそれを生み出す人間性の相克の問題でもある。
<以下、ネタバレあり>
ターの強権的な振る舞いは、ジュリアード音楽院の教室の場面だけではなく、養女ペトラが学校で苛められていることを聞きつけ、そのいじめっ子を脅迫するような言動でも現れている。指揮者として交響楽団を束ね、音楽を、リズムを、時間をコントロールする厳格なター。その自信に満ちた言動や振る舞いが徹底して描かれる一方で、好みの女性に対する個人的嗜好が次第に組織の中で問題化していく。それは若きチェロ奏者オルガ(ソフィー・カウアー)の出現によって、より明確化する。トイレの個室から見える靴、チェリストのオーディション、さらにチェロ協奏曲の選曲など、あからさまにオルガを取り立てる形で交響楽団に招き入れていくター。オルガもまた、ターに好かれているということを利用しているようだ。オルガへの視線や、オルガとのやり取りの中にターという女性の他では見せない表情の変化が描かれ、性的嗜好が表現され、その正直さがまわりとの軋轢を生んでいく。
もう一つ、秘書であるフランチェスカとの関係も次第に決裂へと向かっていく。フランチェスカは女性指揮者になるためにターの元で秘書的な雑用仕事をしていた。ベテランの副指揮者のセバスチャンをターが辞めさせたことで、フランチェスカはようやく指揮者への道が見えてきたかと思っていた。しかし、フランチェスカは副指揮者に選ばれなかった。そこにもう一人、映画では描かれない不在のクリスタという女性が物語の鍵となっていく。かつてペルーでクリスタとフランチェスカとターは一緒に時間を過ごしていたようなのだ。その過去のペルーでの3人の女性の姿がまったく描かれていないため、どういう3人のやり取りがあり、どういう性的関係の軋轢があったのか、観客は想像するしかないのだ。クリスタもまた女性指揮者を目指していた。ところがターは、クリスタのことを避けるようになり、クリスタが他の交響楽団に入るのを誹謗中傷メールで彼女の音楽活動を妨害していた。クリスタ(フランチェスカの可能性も?)がターにプレゼントしたと思われる「挑戦(Challenge)」という本をターは飛行機のトイレの中で破り捨てる。この本が分からなかったのでネットで調べると、ヴィタ・サックヴィル=ウェストというイギリスの女性作家で、両性愛者で夫がいるにもかかわらず女性と駆け落ちした三角関係の破綻を描いた小説なのだそうだ。クリスタ(またはフランチェスカ)は自分たちの性的関係を揶揄する目的があったのではないかと思われる。ターはクリスタに性的な関係を迫り拒否されたのか、あるいは一時期はうまくいっていた関係が、クリスタの何らかの行動によって疎ましくなるように変化していったのか。フランチェスカのターへの思い、あるいはターのパートナーであるシャロンへの嫉妬。若い好みの女性を次々と口説いていたと思われる奔放なターの性癖。冒頭のスマホ撮影とチャットは、フランチェスカとクリスタのやり取りであることが想像される。しかし、ターの妨害メールもあって、クリスタは追い詰められて自殺してしまう。そのクリスタとの過去のメールをすべて消去せよと言われていたにもかかわらず、副指揮者になれなかったことで、フランチェスカの思いは爆発し、クリスタへのセクハラ・パワハラ行為をフランチェスカは表沙汰にしていなくなる。ターの立場は追い詰められていく。ターのセクハラ・パワハラ行為をねつ造したフェイク動画も出回るようになり、世間もまたターを糾弾していく。
ターの幻聴や錯乱や夢が描かれ、ピンポンの音や森での女性の悲鳴、メトロノーム、闇の中での階段での転倒、さらに階下の隣人の介護する母を助け起こす場面や楽譜の喪失など、ジワジワと精神的に追い詰められていく場面の積み重ねはうまい。そしてアコーディオンを弾きながら「アパート売り出し中」と常軌を逸してターが歌う場面も見応えがある。それがクライマックスのコンサート乱入へと繋がっていく。ケイト・ブランシェットのこの暴力ぶりは凄まじい迫力だ。
仕事のすべてを失ったターはアメリカの実家に戻り、かつて影響を受けたレナード・バースタインのビデオを観る。音楽が言葉を越えているもの、言葉で表現し得ない尊きものというバースタインの言葉に涙する。彼女は原点に立ち戻るのだ。ここは映画としてはやや言葉で説明し過ぎという感じがした。そこからターはアジアのどこかの国へ行って、豊かな自然と触れ合う場面があり、アジアの交響楽団を指揮をする場面で終わるのだ。わからなかったのは、指揮者のターがヘッドホンをして、スクリーンが降りてきて、客席には変な格好をした人たちがいっぱいいる奇妙なコンサートが最後に描かれるのだ。これはナンだ?と最初分からなかったのだが、どうやらモンスターハンターというゲームの音楽コンサートのようなのだ。観客はゲームキャラクターのコスプレを楽しみながら、音楽を聴く趣向のようだ。ターはまた新たな世界の一歩を踏み出したというわけか。
ターは芸術に忠実だった。しかし、そこに自らの性的な嗜好性を持ち込み、プライベートな性的な感情と組織運営と芸術的価値を一緒にしてしまった。性的関係を使いながら、ポストを用意して関心を引くなど、男性であればこれまでいくらでもやってきたことかもしれない。そんなクダラナイ権力者や芸術家はいくらでもいたように思う。ターが女性であり、同性愛者であることで、交響楽団の運営に大きな軋轢を生んだように思える。ターは悪しき男性的な傲慢で強権的な存在になってしまった。まわりの人びとの気持ちを一切考慮しない芸術原理主義と個人的性的嗜好の混同。一方で不安で仕方がない。そんな矛盾に満ちた人間をケイト・ブランシェットが見事に演じきった映画だ。
2022年製作/158分/G/アメリカ
原題:Tar
配給:ギャガ
監督・脚本:トッド・フィールド
製作:トッド・フィールド、スコット・ランバート、アレクサンドラ・ミルチャン
撮影:フロリアン・ホーフマイスター
美術:マルコ・ビットナー・ロッサー
衣装:ビナ・ダイヘレル
編集:モニカ・ウィリ
音楽:ヒドゥル・グドナドッティル
キャスト:ケイト・ブランシェット、ノエミ・メルラン、ニーナ・ホス、ソフィー・カウアー、アラン・コーデュナー、ジュリアン・グローバー、マーク・ストロング