「根に持つ」ことを大切に
一般的に「根に持つ」と聞くとネガティブなイメージを抱く人が多い。
過去の出来事をいつまでも覚えている人。水に流せば良い話をほじくり返そうとする人。
Googleで「根に持つ」で検索をかけると、まるでいけない事と決め付けているかのように改善方法の検索結果がズラリと並ぶ。
Googleの良くないところだ。あくまでそのワードについてフラットな情報が知りたくて検索を依頼しているのに、アルゴリズムが余計な気を利かせて偏った情報を抽出し提供してくる。
欲しい情報が手に入らない。痒いところに手が届かない。ググれカスではなくググってもカスになりつつある昨今のGoogle。
話を元に戻す。
根に持つことは本当にいけないことなのか。僕はそんなに悪いことだとは思っていない。
「根に持つ」とは自分が他人によって不都合な思いを強いられた経験をいつまでも記憶しているということを意味している。要するに誰かに対する恨みだ。
人前で恥をかかされたこと、傷つけられたこと、陰口を叩かれたこと、約束を裏切られたこと。
程度の差はあれど生きていれば誰もが通る道。別に珍しくもない。その全てをいちいち抱え込んでいたら身が持たなくなる。忘れてしまった方がずっと幸せだ。
だが困ったことに人間の脳は、嫌なことを鮮明に記憶している。自分が忘れたつもりでも何かの拍子にふと脳裏に蘇る。碇シンジ君曰くそれは風呂に入っている時によく起きる現象らしい。
人間の記憶が不確かで曖昧なものだとしても、覚えているということは少なくともその経験が自分にとって印象的だったということだ。
楽しかった記憶だけでメモリーの容量を満たせるほど僕らの脳みそは単純に構成されてはいない。嫌なことだってちゃんと覚えている。
せっかく脳が覚えてくれているのなら、その記憶は大事にすべきなのではないかと思う。
自分が経験した事実を。その当時の感情を。蓋をしてしまうのはどうにも勿体ないような気がしてならない。
誰かによって嫌な思いをさせられたという事実は忘れずに覚えておくべきだと思う。
その人のことをずっと憎み続けろとか、許してはいけないなんて言っている訳ではない。
ただ嫌だと感じた記憶を自分自身で大事にすべきだ。自分のことを大切にするためにも。
何をされて嫌だったのか。何に対して自分は腹を立てたのか。相手にどう接して欲しかったのか。
その辺を曖昧にしたまま処理していると、また同じような目に遭うかもしれない。人は自分が持っている「根」と向き合って生きるべきだと思う。
一見ネガティブでしかない記憶の中に、この生きにくい世の中を少しでも生きやすくできるヒントが隠されているような気がする。
それに人は誰しも辛い記憶と共に生きている。辛さを知っているからこそ人に優しくすることができる。
辛い記憶は拒絶するのではなく、受け入れてしまった方がずっと楽になれる。肩の荷を少しでも減らして楽に生きれるようになる。
忘れたフリをするより、根は持ったまま生きた方がかえって健全だと僕は思う。
「根に持つ」ことへの自分なりの解釈を書き起こしてみた。
下書き保存をしてプレビューで確認してみる。見事に最初から最後までネガティブなことしか書いていなかった。改善の余地が大いにある。
やはりGoogleは正しかったのかもしれない。