紡いでくれたもの、それは命
先月、6月7日に祖母が他界しました。
96歳という、天寿を全うした大往生でした。
看取りの状態に入ってから、あと3日持つか持たないかくらいだろうと言われてからもなんとか持ち堪え、最期は点滴も抜いてから飲まず食わずで10日以上頑張ってくれました。
看取りに入る前から発語が困難となりお見舞いに行っても会話をすることはできませんでしたが、亡くなる前に何度も顔を見ることができてよかったと思っています。
母方の祖母が亡くなったのが約10年前。
母方の祖母は宮崎の祖母の自宅で亡くなったので最期を看取ることはできませんでした。
そういう点では最期を見届けられたことは幸せだったのかもしれません。
祖母は以前、僕が勤めている介護施設に通っていたので、祖母の利用日が重なった時に職場でも数回会うことがありました。
初めて施設で会う時は祖母の認知症も進行していたので、制服姿の僕を見てもきちんと僕だとわかってもらえるかなと少し心配でした。
いざフロアに降りて祖母に話しかけに行くと少し間は開いたものの「あらぁ!」と喜んでくれました。
というのも、僕が精神疾患を患ってからはずっと僕の病気のことを心配してくれていました。介護施設に勤めるよりも以前にお正月やお盆に会うと必ず「いつか必ずよくなるからよ、大丈夫やからね」と励ましてくれていました。
そういうこともあって、施設で制服姿の僕を見て喜んでくれたのかなとも思います。
その日は他の職員さんを捕まえては「あの子は昔こうでね」や「あの子のお母さんは料理が上手でね」といった話を嬉しそうにしていました。
祖母は足が少し悪かったので、そこで僕は初めて祖母と孫という関係ではなく、職員とご利用者様という関係で祖母の手を握りました。
祖母が亡くなって1ヶ月以上経ちますがやはり今でも寂しくなる時が不意に訪れます。
思い出話はこの程度にしておいて……。
祖母が生前遺していってくれたもの。
それは紛れもなく、命そのものでした。
僕に両親がいて僕を産んでくれて今の僕があるように、祖母と祖父がいたから今の両親がいます。
同じく祖母と祖父にも両親がいたように。
確かにこの世に祖母は肉体として存在しなくはなりましたが、僕たち家族が生きている限りその命は果てることはないのではないかと思っています。
それは間違いなく祖母が命を紡いでくれたのだと思います。
祖母が亡くなってから改めて家族を、そして人を愛する心の大切さを感じることとなりました。
僕は幸いにも両親からの愛情を受けて育ちました。
ですが、全ての人がそうという訳ではないということを僕は数年前にしっかりと認知しました。
親から虐待を受けた方や、親から捨てられてしまった方など。
充分に愛情を注いでもらえなかった方がいることを知りました。
僕の当たり前は、何一つ当たり前ではありませんでした。
そういった方に親や家族を愛せと言っても難しいでしょう。
憎んでいる人も当然いると思います。
恨んでいる人もいると思います。
許そうにも許せない人もいると思います。
そういった境遇で育った方に、親や家族を無理にでも愛してほしいとは僕には言えません。
ただ、こればかりは事実であるということは、あなたの命は脈々と紡がれてきたということです。
それに感謝しなさいなどと説教じみたことを言うつもりも毛頭ありません。
僕がお伝えしたいことはあなたの今の命を大切にしてほしいとういことです。
苦しかったかもしれない。
辛かったかもしれない。
それでも、あなたは今この瞬間を懸命に生きているはずです。
それだけで充分立派なことだと僕は思います。
こんな僕にできることはあなたがこの先もあなたの命を大切にして、あなたがあなたを愛してあげてほしいと祈ることしかできません。
どうかあなたの人生に幸の多からんことを。
ひろき
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