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シェイクスピア『間違いの喜劇』

ちくま文庫P.186 松岡和子訳
エイドリアーナ「どうしして男の自由は私たち女の自由より大きいの?」
ルシアーナ「男の仕事はいつも家の外にあるからよ。」
エイドリアーナ「でもね、私があの人に同じことをすると、あの人は怒る。」
ルシアーナ「お兄さまはお姉さまの意志の手綱ですもの。」
エイドリアーナ「手綱次第になるのはロバだけよ。」

『間違いの喜劇』はシェイクスピアの初期の喜劇作品。
一節によると1594年以前より制作されたとある。作品自体はとてもおもしろく言葉遊びに富んでいてテンポもいい。訳者の方の手腕もありとてもよみ易かった。が、上記の箇所に驚き…というか、複雑な感情を抱いてしまった。


・気になった点1

・ジェンダー感。シェイクスピアの時代からすでに現代に通ずる(そして問題となっている)意識が存在していた。
以前もジェンダーについて調べた際に19世紀のヴィクトリアンアメリカの女性たちの奮闘や有史以来の男性性、女性性のもつ違いから位置づけまでを軽く学んだのだが、こうしてしっかりと文学作品として男女間の役割が記してあることを読み過ごしてはいけないような気がした。


エイドリアーナは男と女が対等でないことに疑問を感じ、結婚生活に愚痴をこぼしている。一方ルシアーナはエイドリアーナの妹で未婚だ。エイドリアーナが妹に(おそらく)純粋な質問として妹に尋ねている。しかし妹は「男は女の主人であり、主なのよ」と信じ、結婚生活が煩わしいだけだからそんな考えが浮かぶのだといさめられているシーンだ。
このあと、エイドリアーナは「でも、あなたも結婚したら少しは自分の思いどおりにしたくなるわよ」と応戦している。

男性である(…と断言してよいのか)シェイクスピアが上記の一節を書いたという点に注目したい。
女性が男性に従うものだという当時の共通認識を踏まえつつかつ、それに疑問を呈している女性像をシェイクスピアが汲み取って取り入れている点に鋭い観察眼…というか、常識を疑う感覚が彼にあったのではと想像する。

・気になった点2
この戯曲に限らずロバが愚か者の別称になっている点に気になった。当時の陸での運搬手段がロバであり、こき使うためだけの生き物であったということも起因するとは思うが、それにしてもロバを阿呆扱いし過ぎており、その根源は何なのか、ということに興味を持ったので機会があったら歴史などを調べてみたい。

引っかかる点もあったが、これまで読んできたシェイクスピアのなかでもこのちくま文庫の松岡和子さん訳のシェイクスピアはとても読みやすかった。
シェイクスピアはあらゆる言葉で韻を踏んだりと言葉遊びに長けていると言われているのだが、その点が訳にもきれいに反映されていてまるでラップを聞いているような楽しさがあった。



●以前書いたジェンダー感に関する記事


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