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「死にたい」と「生きる」で揺れる
12歳で「死にたい」と思うようになって、
22歳くらいまでは、ずっと「死にたい」しかなくて「生きなきゃ」とすら思わなかった。
自分の人生の終わりは自殺だと信じていたし、それ以外の終わりなんて許せなかった。
近い未来にその終わりが迎えられると、常に本気で思っていた。
死にたくて仕方がないのに、死ねないのが苦しかった。
死ぬ方法しか考えてなかった。
22歳くらいから、「死にたい」けれど、「生きなきゃいけない」と思うようになった。
決して、生きたいわけじゃない。でも、死んじゃダメ。生きなきゃいけない。
そう思い始めてから、死ぬ方法だけでなく、生きる方法も考えるようになった。
人生の終わりは自殺でありたいけれど、思ってるような近い未来に終わりはこない気がした。
23歳くらいから、「死にたい」ときもあるけれど、「生きるしかない」と思うときもでてきた。
死ぬ方法なんて考えなくなって、生きる方法ばかり模索するようになっていた。
“死ねない”現実を直視して、
“生きる”覚悟を決めた瞬間があった。
もう今後ずっとこのまま、生きる方法を模索し続けて、少しずつ少しずつ、「死にたい」を手放して、「生きる」に近づいていけると思っていた。
「死にたい」といくら思おうが、実際に死ぬ方法なんて考えることはないと思っていた。
24歳の終わりごろ、生きる方法を模索しながらも、今までなぜ死ねなかったのかと、どうしたら死ねるのかの答えを見つけ、気付いたら死ぬ準備を始めていた。
数年かけて死ぬ準備を進めていく計画で。
25歳になろうとしている今、私は毎日毎日、今すぐ死ぬ方法ばかりを考えている。
どうしたら死ねるのかの答えが出たというのに、むしろ、その方法以外では私には死ねないとわかっているはずなのに、準備も進めているはずなのに、それとはまた別で、今すぐ死ぬことを考えている。
とにかく死にたい死にたい死にたい、と。
数年単位の死ぬ準備を進めつつ、
今すぐ死ぬ方法を考えつつ、
それと同時に、私は、生きようともしている。
カウンセリングには予定通り通うし、
熱中症にならないように全力で対策する。
食欲がなくても、倒れまいと、無理してでも何かしらは摂取するように頑張る。
夜寝付けない日が続けば、少しでも休息を取れるように、早めにベッドに入るように意識するし、休日は外出せず一日中寝る。
友だちとの予定はだいぶ先まで入れるし、何か月後かの友だちのお誕生日のお祝いも、考える。
買い物をするときは、長く使えるかどうかを吟味する。
生きるつもりの人間の行動。
そして、
自傷行為も過食もする。
つまり、自分のコントロール下にない部分でも、生きようとしている。
死にたい自分と、
生きなきゃと思う自分と、
死ぬことしか考えられない自分と、
生きると決めた自分と、
死のうとしている自分と、
生きようとしている自分、
全部本当で、
これらの自分が共存しているときもあれば、
共存なんてありえない、という感覚になるときもある。
1週間後には、また“生きる覚悟”をし直しているかもしれないし、
1か月後には死ぬ方法なんて考えなくなって、生きる方法を模索しまくっているかもしれない。
でも1か月と1週間後にはまた、死ぬ方法ばかり考えているかもしれない。
もしかしたら半年後には死にたくないと思っているかもしれないし、
もしかしたら1年後には自殺未遂をしているかもしれない。
自分でも予測不能で、コントロール不能の、
「死にたい」と「生きる」という感情や願い、迷いや覚悟、希望や絶望を抱え、それらに振り回されながら、
私は今日も生きているし、
きっと明日も生きていく。