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1年間一度も手を離さず向き合ってくださった先生。


こんにちは、のんです🧸


この3月に、専門学校を卒業しました。

小学校6年、中学校3年、高校3年、専門学校3年、専門学校1年、計16年の学生生活を終えて、4月から、社会人として働き始める予定です。

学生最後の1年間を過ごした、1年課程の学校で出会ったある1人の先生について、書こうと思います。






その先生は私に、

安心感を与えてくださいました。

“頼っていいんだ”と思える存在になってくださいました。

“人に話すだけで楽になる”という感覚を教えていただきました。

自分の知らなかった自分に、気づかせてくださいました。

“帰れる場所”として居てほしいと思える存在になってくださいました。




先生は、話すときに、独特な“間(ま)”がある方でした。

クラス全体に話すときも、誰かと1対1で話すときも、いつでも。

先生はいつも、間違ったことや無責任なことを言わないように、自分の発した言葉で誤解を生まないように、気をつけてくださっているのだと思います。

そのために言葉を1つひとつ丁寧に選んで話をしていて、聞いている人の反応も丁寧に確認していて、だからこそ生まれるその“間”が、私は好きでした。

先生と話すのは、安心感がありました。

丁寧に対話をしてくださって、絶対にテキトーなことは言わないし、私の発言にも丁寧に耳を傾けてくださっていたから。

私の話すことに対して根拠なく否定はせず、綺麗事で片付けようともせず、必ず受け止めてくださっていました。


精神的に不安定な時に対応をしてくださったのは主にこの先生で、たくさんたくさん2人きりでお話をしてくださいました。

とある長期間の実習の担当もこの先生になり、実習についても個人的なことについても、本当にたくさん色んなお話をして、ずっと相手をしてくださいました。



私は今までの人生で、色んな先生や友達に“この子はなんだかんだ大丈夫”“どうせ大丈夫”と思われることが多かったように感じてきました。

相手との関係性や時と場合にはよりますが、私にとって、頼りたい人にそう思われるのは、正直苦痛でした。上手く言い表せませんが、そう思われてるんじゃないかという予感や疑いを持ってしまった時点で、その人との関係は上辺になってしまう感覚で。

でもこの先生には、そう思われてると感じたことは一度もなくて、だから、“頼っていいのかも”と思えるようになっていきました。




そして。

“話すだけで楽になる感覚”について。

私はこれまでずっと、話すだけで楽になる意味がよくわかりませんでした。別にスッキリもしないし、楽にならないし、罪悪感と後悔が残るだけじゃん。とも思っていました。

でもこれが、先生のおかげで変わりました。

先生は、私が一度話したことや見せた感情などを覚えていてくださって、それを元に、他の場面や次のなにかの時に対応してくださっていました。

「前にあったことや話したことのおかげで次の対応をしてもらえる」という事実によって、その人に“知ってもらっている”ということ自体が安心感に繋がり、それが“話すだけで楽になる”という感情に繋がっていたのだと思います。

先生に“知ってもらっている”ことは、私にとって色んな安心に繋がっていました。

先生に話すだけで、楽になることがたくさんありました。

“話すだけで楽になる”感覚を教えてくださったのは、紛れもなく先生でした。





私はこの1年で一度だけ、人前でわんわん泣きました。

(厳密に言うと、人前でわんわん泣いたのは中学生以来なので、ここ7年間で一度だけになります。)

泣いたのは、先生の前でした。

色々なことが重なって自分が崩れてしまい、1番休んではいけない実習を休んでしまった日でした。

実習は欠席して、でも控え室まで来れるなら直接会って話したいと先生が言ってくださり、実際に控え室でお話をしたとき、私はずっとボロボロ泣いていました。

先生と話したら絶対に泣いてしまうと最初からわかっていたけれど、それでも行って話さなきゃと思えたのは、この先生だったからでした。

この時、先生に

「時間外でも電話してくれていいんやで」「寝てたら出ないかもしれないけど、夜中でも電話してくれていいんやで」と言われました。

今までも何度か、色んな人に「夜中でも/いつでも電話/連絡してきてね」というようなことを言ってもらってきましたが、その言葉には“とりあえずこう言っておく”感がものすごく感じられて、「本当にしたら迷惑なくせに」「嘘なら最初から言わないでよ」と思うことばかりだったのですが、

この先生に言われたときは、“とりあえず言っておく感”は感じられなくて、スっと入ってきて素直に嬉しかったのを覚えています。

本当に電話かけてもいいんだな

と思えました。


それと、私が「自分の存在が申し訳ない」と言ったとき、先生は間を置かずに

「それは絶対違う」

と返してくださいました。

嬉しかったし、少し安心しました。

普段“間”を置いて、ゆっくり考えながら話してくださる先生だからこそ、この時だけ“間”を置かずに返してくださったのがものすごく印象的で、

でもその“間”がないことによって、その言葉に対する不信感やテキトーさは全く感じられず、

むしろ、考える間も必要がないくらいに確信を持って言ってくださったように感じられました。

普段から絶対にテキトーなことは言わず、丁寧に丁寧に接してくださっていたからこそ、先生の発する言葉に対して疑うことがなくなっていたことも、その時の言葉を素直に受け取ることのできた理由の1つだと思います。

ふとした時に今でも時々思い出すくらい、印象的で、力強い言葉です。





私は今までの人生で、たくさんの先生にお世話になってきましたが、途中で面倒くさがられたり、見捨てられたりするのが普通でした。それはその先生たちが悪いとか思ったことはなくて、絶対的に私が悪いからだと思っています。今でも。

そんな私だったので、この1年でこの先生にお世話になって、本当に本当にびっくりしました。

この先生は、

私の下手くそすぎる「助けて」にいつも気づいてくださり、私が届くところに手を差し伸べてくださいました。

そして1年間、一度も手を離さず、ずっとずっと丁寧に向き合ってきてくださいました。

こんな私みたいなどうしようもない学生の手をずっと離さず、面倒くさがる素振りも見せず、真っ直ぐ向き合い続けてくださいました。




1年間で何度も先生に言われて、初めて気づいた自分が2つ。

自分で自分のことを頑張ったって言わないことと、大丈夫じゃないときに無意識に大丈夫って言うこと。

「絶対自分で頑張ったって言わんよなぁ」

「また大丈夫って言ってる~」

って1年間で何度言われたか。

気づけたことで何か具体的に良い方向に繋がるなにかに生かせるかはわからないけれど、なにかのキッカケになる可能性はあるので、気づかせてくださったことに、本当に感謝です。

そして先生は、私が自分で言えない代わりに、「頑張ってる」「頑張った」と言ってくださり、“今あなたは大丈夫じゃないでしょ”と教えてくださり、“大丈夫じゃないときに頼りにする場所”として居てくださいました。





1年間の関わりを通して、最終的にはもう、私は先生の姿や顔を見たり、声を聞くだけで安心感を感じられるようになっていました。

先生のことが、大好きになっていました。






最後に。

家族や実家という存在が苦痛な私にとって、“帰れるところ”がこれまでずっと、ありませんでした。

“帰りたいと思えるところ”もなくて、しんどい時に頼れるところや安心できるところ、いわゆる安全基地のようなところがあったらいいのにな。。とずっと思ってきていて、

もちろん、そういう場所があるのが当たり前で、ない自分が不幸者だとかは全く思っていなくて、実家という実家がない人だって、実家が安全基地ではない人だってたくさんいることはわかっていて、

でも、嬉しそうに実家(家族のもと)に帰ったり、家族と電話をする友達を見て羨ましいと思ったことは数えきれないくらいあって、

それもあって、自分の中で、私も何かあったときに“帰れるところ”があったらいいなぁ。とただただ思っていて。



そんな私が、卒業した今、

この先生には、“先生”としてずっと居てほしい。

“帰れるところ”として学校で先生をしててほしい。

と思っています。


これはただの私のわがままだし、先生の希望はわからないし、実際にはいつ異動になって学校から離れるかもわからない。

だけれど、“帰りたいと思えるところ”ができたことが嬉しくて、そんな存在になってくださった先生には、本当に感謝しかありません。

とりあえず、私の社会人1年目の1年間は先生は学校に居てくださるので、“帰ろう”と思います。








こんなにも素敵な先生って、いるのですね。



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